28.悪魔の子ども
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――五年前――
1421年10月6日、ヴァロニア王国 ガイアール領――。
ヴァロニアの北東に位置するガイアール領では、まだ秋だというのに小雪がちらつきはじめた。
領主が所有する海沿いの城の最上階の一室に、ギリアンの姉のリナリー・フォン・ヴァロアと、その秘書官オーエンは居た。
細長い窓から、灰水色の空が垣間見える。上空の空気は更に冷たく、石が剥き出しの部屋は、氷のように冷えていた。
壁際にたたずむリナリーとオーエンの他に、部屋の中央には、若い娘がうつ伏せに倒れている。娘の背には小さなナイフが突き刺ささり、血の池がじわじわと広がっていた。激しく呼吸をしているのか、突き刺さったナイフが上下に揺れていた。
やがて娘の動きは鈍くなった。
突然、部屋の中は窓を閉ざしたかのように、昼間と思えぬ闇に包まれた。
娘の傍に、金色の髪と翡翠色の瞳を持つ美しい男が立っている。
男が現れたのを見て、リナリーはゆったりと編んだ長い金色の髪を背中の方にはらうと、満足そうにほくそ笑んだ。
「どうだ、オーエン。私の言った通りであろう」
「あれが、悪魔……」
オーエンは男の姿に目を奪われ、息をのんでつぶやいた。
リナリーは横目でオーエンを見やった。
「私はローランが死んだ時に、一度あの悪魔を見たのだ。誰も信じようとしなかったがな。そして悪魔はローランの望みを叶えて、父上を殺したのだ」
そう言うと、リナリーは娘と悪魔の方へと、厚手のドレスの裾を蹴るようにして近づいていった。
「……ぅ……」
血にまみれた娘の声は声とならず、最後の力で悪魔の足首をつかんだ。
『早く望みをお言い』
悪魔は優しい声で足元の娘にそう言うと、近づいてくるリナリーに視線を向けた。
『これは、何かの儀式?』
悪魔がリナリーに向かって口を開いた。娘の死は悪魔を召還するために意図的に作られたものだと察したのだろう。
「そうだな、言うならば、その娘と私の契約の儀式だ。その娘のことは気にしなくて良い」
そう言われ、悪魔は黙ってリナリーの顔を見つめた。
「悪魔よ。死に逝く者の望みなど叶えてどうすると言うのだ。そなたがローランの望みを叶えて、父上を殺した時、私は可笑しくて仕方なかったぞ」
しかし、ちっとも可笑しそうではないリナリーに向かって、悪魔は呆れたように言葉を吐いた。
『あなたはアルフェラツに会ったはずなのに』
「そうだ。私は天使に会った。だからこそ、悪魔の存在も確信したのだ」
悪魔は一瞬リナリーから目をそらすと、力を失って床に倒れた娘の手首をそっと足で押しやった。
リナリーは、悪魔よりも冷たい目つきでその様子を眺めた。
「そなたの所為で……、私は全ての機会を失ったのだ。そなたがローランを殺した所為で!」
シーランド国王ローランの突然の病死を思い出し、苛立ってリナリーは大きな声を出した。
「父上が先に死んでいれば、夫のローランがヴァロニアの王にもなるはずだった。だがローランは父上より先に死んでしまった。その所為で、全てが私に不利になった! 息子のアンリはまだ一歳にもならぬと言うのに!」
『僕が何もしなくたって、あなたの子はいずれヴァロニアの王になるんじゃないの?』
「ふざけるな! アンリは義弟のオスカーに奪われたのだ。あの男、私を追いやってアンリを利用し、ヴァロニアの摂政にもなろうとしているのだ。ヴァロニアどころか、シーランドの王位さえオスカーに奪われたのだぞ!」
ひとしきり怒りをぶつけると、リナリーは平静を取り戻した。
「私とその娘は、生前に契約を交わしたのだ。その娘の望みは私の望みを叶えることだ」
『じゃあ、あなたの望みは何?』
「オスカーを殺せ」
『今オスカーを殺したら、アンリは強い後見人を失って王位には就けなくなる』
「ならばギリアンでも構わぬ」
リナリーの怒りの形相に、悪魔は微笑した。
『王太子を殺しても同じさ。結局オスカーにヴァロニア王国を明け渡すことになるだけだ』
亡き父王に対する反対勢力だった王太子派の存在が、今シーランド国王オスカーの勢いを止めているのは事実だった。悪魔の言い分が正しいことにリナリーは唇をかんだ。
きっと悪魔は、人ならぬ能力で自分の心を読んでいるのだ。そして、リナリーの本当の望みを知っているに違いない。
『アンリはまだ一歳にもなっていない。慌てることはないよ。あなたには、もう少し時間と下地作りが必要なんじゃないかな?』
「私は、もとよりシーランドなどには興味はないのだ。私が欲しいのはヴァロニアだ」
『あなたの望みを叶えられるのは、あなたが死ぬ時だよ』
結局、自分の望みを叶えてもらえないのかと、リナリーは舌打ちした。
「悪魔よ。死に逝く時に望みなど叶えても、無意味ではないか?」
『今際の望みはこの世への想い。全て捨ててもらわないと、天国の扉を通ることが出来ない』
「ふん、天国か……」
リナリーは、金の髪の悪魔をじっと睨みつけた。
「私は地獄に落ちたとしても、我が子を王にしたいと言う【親】の気持ちなど、そなたにはわからぬだろうな」
『すごいよね、その為に前シーランド王の子を産んだって言うんだから』
リナリーは自分が女であることが悔しくてならない。本当は、王になりたかったのは自分自身だ。
そして、目の前の人ならざる存在を目にし、ふとその伝承を思い出した。
「……たしか、そなたと肉体関係を持てば、魔女となれるのだったな」
『ダメだよ。あなたはもうアルフェラツに会っているから、魔女にはなれない』
悪魔の言葉を聞いて、リナリーは一人苦笑した。自分は、王になる資格も、魔女になる資格も持たないのかと。
『でも、僕の子なら、あなたの望みを叶えられるかもしれないな』
そう言い残すと、悪魔は突然、周りの闇を引き連れて姿を消した。
冷たい床に倒れた娘は、もうピクリとも動かない。
しばらく経って、オーエンはようやく口を開いた。眼前で若い娘が息絶えているというのに、それ以上に凄惨なものを見たようだった。今頃足がガクガクと震え、冷たい壁に手をつかずには立っていられない。
あの悪魔と渡りあった気の強いリナリーを見て、オーエンはこめかみに浮かんだ汗をぬぐった。
「ふふっ。母上は悪魔などいないと言っていたが、やはり悪魔はいたな」
リナリーは勝ち誇ったように笑った。
「しかし、私はギリアンこそ悪魔の子で、母上こそが魔女なのだと思っていたのだが、それは見当違いだったようだ」
「王妃殿下は、魔女ではなかったようですね」
王妃イザベラを魔女呼ばわりすることは、さすがにオーエンにはためらわれた。
「だが、ギリアンのあの不気味な黒髪。そなたは見てきたであろう? 悪魔じみていると思わぬか?」
「ですが、あの美しい悪魔を見てしまったら、逆に、その子どもが黒髪なのはおかしいのではないかと……」
秘書官に指摘された事実に、リナリーは唇をかんだ。
「あの悪魔、自分の子なら私の望みを叶えられるかもしれないと言っておったな」
「……悪魔の子とは、それは魔女が産んだ子と言うことなのでしょうか?」
オーエンの言葉を聞いて、リナリーは残虐な笑みを浮かべた。
「オーエン。私は一人心当たりがあるのだ。あの悪魔によく似た男を知っている。本当に良く似ているぞ。最初に見た時は驚いたほどな」
「それは……、どなたですか?」
リナリーは、かつて騎士の見習い時代という頃に、顔を合わせていた少年を思い出した。金色の髪の恐ろしく美しい男。
「ヴィンセント・フォン・ラヴァール。ギリアンの親友の無礼な男だ」
「ヴィンセント・フォン・ラヴァール……? と言うと、あの『ヴァンデの悪魔』ですか?」
リナリーの左の眉がピクリと動いた。
「あの男、そんな異名もあったな。奴には確か弟も居たはずだが、弟の方は悪魔には似ておらぬな」
「しかし、リナリー様。『ヴァンデの悪魔』は、昨年から、行方が分からなくなっております」
リナリーは、オーエンの言葉など聞かず、目を細め笑いをかみ殺す。壁際にたたずむオーエンを置いて部屋を去っていった。
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