27.臆病者の王太子(二)
ヴィンセントが部屋を出て、ホープは部屋で一人、待ちぼうけを食らっていた。
椅子ばかりの部屋に取り残され、ホープは最初その背もたれの刺繍の絵柄などを眺めた。しかし、緊張の方が勝ってしまい、集中して鑑賞することも出来ない。
同じ領主の住まいと言えど、ここはヘーンブルグ領主の『館』とは違い、その造りは完全に『城』だ。自分はあまりにも不釣合いで、なんとも居心地が悪い。ホープはただ一人、綿の詰まったビロード地の椅子に、身体を硬くして座っていた。
しばらくすると、扉がノックされ先ほどの側近の男が入ってきた。
「ホープ殿、王太子殿下がお待ちです。ご案内しますのでこちらへ」
ヴィンセントの居ぬ間に、ホープは一人連れられ、王太子の待つという謁見の間に行くことになった。
ホープは、石造りの廊下を、側近の男の後について歩いた。昨夜とは違い、通路に響く足音は窓の外から聞こえる音に紛れてゆく。
「こちらです」
そう言って、案内された扉の向こうから、さざめきが聞こえた。
背の高い扉が、側近の手によって開かれた。中には、貴族や騎士達が集まっている。華やかな装いの男女は、中央の絨毯をはさんで左右にわかれて立ち、謁見の時を待っていた。ざっと見て四五十人位だろうか。彼らの視線は扉から入ってきたホープへ注がれた。
「【黒】い髪?」
「【黒】だ」
「あれは、死病じゃないのか?」
「触れると感染るぞ……」
途端に、そんな密めやかな言葉がホープの耳に届く。
人々はホープを避けるように広がり、女たちは口元を手でおおって隠す。
やがてさざめきが止み、皆がホープの真っ黒な髪を、稀有なものを見るように眺めていた。
肌寒く乾燥する謁見の間では、人々の視線はまるで刃物のようにホープに突き刺さる。
(ヴィンセントの言っていた通りだ……)
刺すような視線に、居心地の悪さを感じながらも、ホープは黙ってその場に立ち尽くした。
ホープの背後の半開きになった扉から、一人の青年が謁見の間に入ってきた。立派な刺繍の施された衣装をまとっている。ホープの横をすり抜けて絨毯の道を堂々と歩み、正面に置かれた椅子に腰かけた。
貴族達は皆静かに脱帽し、かすかに頭を下げる。静まった広間に、ひしめきあう人々の衣擦れの音が聞こえた。
(この人が王太子様……)
正面の椅子にこう然と座る青年は、肘掛にしっかりと手を着き、ホープを見た。そして右手を差し出し、指先をちょいと曲げて近くに来るようにホープに指図した。
ホープは絨毯の道を王太子の方へと歩んで行った。
ヴィンセントとギリアンが謁見の間へ向かうと、入り口の扉が半開きになっている。少し離れた場所からでも、既に謁見の間に多くの人間が集まっているのがわかる。
「ヴィンセント、君が居てくれて本当に心強いよ」
ギリアンの声が、廊下にかすかに響いた。
王太子派でも、半分以上の者はギリアン本人を知らない。そういった者達の前に、今日初めて姿を見せるギリアンは、多少緊張している面持ちであった。
謁見の間には、五十人程呼び集められているはずなのだが、部屋に近づいても談笑も雑談の声も聞こえてこない。広間が既に静まっていることに、ヴィンセントとギリアンの二人は違和感を覚えた。
「ギリアン」
ヴィンセントの声にギリアンは不安を覚え、にわかに顔を青くした。
「……ぼ、僕は、何も指示してはいない!」
僧の長衣を着たギリアンは一人で走り出し、扉の隙間から謁見の間に滑り込んでいった。
また官僚らの余計な計らいなのだろうか。身分に合わない気弱な性格の所為で周囲に翻弄されるギリアンを、ヴィンセントは今まで何度も見てきた。
ギリアンの後姿を見て息を吐くと、ヴィンセントは自身は謁見の間には入らず、扉の隙間から中の様子を見守った。
椅子に腰かける王太子は、ヴィンセントと同じ歳ごろの青年だ。金色の髪は肩の上で綺麗に切りそろえられ、淡いブルーの瞳が歩み寄るホープの姿を映している。
ホープが王太子の前に辿り着くと、王太子は周りの貴族達と同じように、ホープの黒い髪を見て眉をしかめた。
「よく参られた。ヘーンブルグのホープ」
王太子の明朗な声が、広間に響いた。
皆がホープに注目していた。ホープは緊張のあまりぎくしゃくしながらも、王太子の前に腰を落とそうと右足を後に引いた。
その瞬間、ホープにジェードの声が届いた。
『王太子様が黒髪?!』
驚いたホープは体勢を崩してよろめいた。
(ジェード!? 王太子様が……黒髪!?)
ホープは、そのまま絨毯に尻もちをついてしまった。
今、ホープの目の前に居る王太子は金色の髪だ。
(この人は、王太子様じゃない……? まさか、偽者?)
ジェードは【天使】と話すことが出来るのだ。ホープは、床に座り込んだまま周りを見渡した。冷汗が噴き出して、髪がしっとり濡れる。
貴族達は一斉にさざめきあった。ホープに対する揶揄も聞こえてくる。だが、必死のホープには観衆の声は入ってこなかった。
(本物の王太子様は……黒髪……? 黒髪なんて居ない……どこに居るんだ)
全員が脱帽している中、黒髪の人物は誰も居ない。
(ぼくは、だまされてるのかな……)
ここにいる貴族達にからかわれているのだ。王太子は自分のような者とは会ってはくれないのだと認識すると、途端にホープは羞恥と悲哀で心が埋め尽くされる。
どんなに立派な服を与えられて着ていても、ここは自分の来るところではなかったのだ。
王族に見えるなど、自分にはあり得ないことなのだと思い知らされる。
悲しみと羞恥に襲われる中、ホープはよろよろと立ち上がった。謁見の間から去ろうと思い、扉の方に歩んで行くと、人々はまたホープを避けるように道をあける。
扉の近くにたどり着くと、剃髪した若い僧侶が、一人だけその場を動かずホープを見つめていた。
その僧侶の視線は、ホープの黒髪を嫌悪の目で見ている観衆達とは違う。観衆の前で黒髪を晒すホープと似たような悲哀を浮かべている。そして、よく見ると、この僧侶は、瞳は青いが眉毛も睫毛もない。
(王太子様は黒髪……、まさか……)
ホープは小さな声で恐る恐る、僧侶に向かって問いかけた。
「ギリアン・フォン・ヴァロア、陛下?」
ホープの声が聞こえた貴族達はざわついた。
「よくここまで参られた、ヘーンブルグのホープ・ダーク。真に僕がギリアン・フォン・ヴァロアだ」
僧侶の傍に居た貴族達は驚いて腰を落とし、ホープも慌ててその場に崩れるようにひざまずいた。
広間は静まり返った。
「僕のことを……陛下と呼ぶのかい?」
「だ、だって貴方は、この国の王になられる御方なのでしょう?」
ホープの言葉に、王太子派の観衆達は歓喜に湧き上がった。
ヴィンセントは、扉の影から満足そうにホープを眺めていた。
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