26.臆病者の王太子(一)
森に挟まれた街道を、二頭の馬がゆっくりと進んでいた。
ヘーンブルグ領を出たホープとヴィンセントの二人は、王都方面へと向かった。北東に向かう街道は、人の往来は全くない。
日が傾くに連れ、辺りは靄に包まれた。白い靄は二人の視界をさえぎり、外套をしっとりと濡らす。馬も、それに乗る人間も、白い息を吐いていた。寒さに顔が冷やされ、鼻や頬の感覚が鈍くなっていく。
ホープは、少しでも寒さを防ごうと、真新しい厚手の外套のフードを目深にかぶった。
「ジェードが村を出て、一ヶ月位経った頃からなんです。ジェードの声が聞こえたり、指の傷みたいな不思議な出来事がおこるのは」
道すがら、ホープは双子の姉ジェードと共有する不思議な感覚について、ヴィンセントに説明をした。
「姉君が聞いたという【天使】の声は、君には聞こえないのか?」
「……【天使】様の声は、ぼくには聞こえません。聞こえてくるのはジェードの声だけです……」
不思議な感覚はジェードと共有するのに、どうして自分には【天使】の声は聞こえないのか……。考えると、ホープの気持ちは沈んでいく。
「姉君には【天使】の声、君には【姉君】の声が聞こえるということか。君にとっては姉君が【天使】なんだな」
「えっ!?」
穏やかな微笑をたたえながら言うヴィンセントの台詞に、ホープは思わず顔が熱くなった。
ほんの一昨日から一緒に居るだけなのだが、この領主は時々ホープが聞いた事もないような、歯の浮くような気障な台詞を平気で言ってくる。その度にホープは赤面し動揺するのだが、どうやらヴィンセント本人は、至って真面目で、決してホープをからかっているつもりはないようだ。
森を抜けると、そこはヘーンブルグの『外』だった。靄は霧雨に変わった。
やがて街道は大きな四辻に差しかかり、そこでヴィンセントは行き先を東から北に変えた。
「ヴィンセント、王都はこっちでは?」
初めてヘーンブルグ領を出たホープだったが、一応の地図は頭に入っている。道の間違いをヴィンセントに告げた。
「いや、王都へは行かない。我々はローゼン領へ向かう。王太子に会いに行くんだ」
ホープは突然知らされた事実に驚いた。
「王太子様に? あの魔女狩りの書状は、王太子様から出されたものではないんでしょう? それに、王太子様は王都に居るんじゃないんですか? どうしてローゼン領に?」
「王太子は、王都から追放されているんだ。今回は王太子の力を借りる」
「追放……?」
ヘーンブルグ領には、王都や王族のゴシップなど、ほとんど情報が入ってこない。ホープが何も知らないのも、ヘーンブルグの人間としては普通のことだ。
霧雨に布製の手袋はすっかり濡れていた。ホープはかじかむ指先で手綱を引くと、ヴィンセントに続き馬首を北へと変えた。
* * * * *
ホープとヴィンセントの二人は、ツンゲン領を通過した。アレー村を出てから四日目の夜半に、ようやくローゼン領に着いた。
ローゼン領は、白いレンガの壁にぐるりと領地を取り囲まれていた。入り口の壁は一段と高く、アーチ上の門が口を開いていた。門番の様な者は居なかったが、入領できる場所が街道からだけに限られているようだ。
ヘーンブルグのように、森に囲まれた領内に村が点在しているのではなく、領全体で一つの大きな町を形成し、各区画ごとに名称が付けられていた。中央に位置する地区はシュノンと呼ばれ、中央の高台小高い丘の上に、領主ローゼン候の邸――と言うより、城がそびえ立っている。道は全て石で舗装され、あぜ道だらけのヘーンブルグ領と比べると、ローゼンは王都に並ぶほどの都会だった。
夜、通りには人影は全くなく、二頭の馬の規則的な蹄の音が、家々の間に響いた。
ホープとヴィンセントは、領の中央にあるローゼン領主の城を目指して馬を進めた。
月明かりが石畳を照らす。
周りの家々の木窓は固く閉じられ、屋根の煙突から細くなった薄煙が昇る。
石畳の上を馬蹄が響く中、ヴィンセントはホープに淡々と伝えた。
「ホープ。初めに言っておくが、ここはヘーンブルグとは違う。ツンゲンを通った時に、既に気付いたかもしれないが、ここローゼンにも王都にも、ヘーンブルグ領以外には黒髪の人間はほとんど居ない。君はおそらく、好奇の目で見られるだろう」
「…………」
他領には黒髪の人間は居ないという噂は、ホープもルースから聞かされたことがあった。だが生涯ヘーンブルグから出る事はないと思っていた自分には、関係のない話だと思っていた。
黒髪しかいないヘーンブルグで、金髪のヴィンセントが好奇の噂にさらされたように、今度は立場が入れ替わって、自分が好奇にさらされる番なのだ。
闇夜のせいか、ヴィンセントの言葉は、ホープの恐怖心をあおった。ホープは寒さに身を縮めながら、ずっと黙っていた。
城の前に辿り着いたが、正面の大きな扉は既に閉じられていた。
二人は馬から下りると、そのまま城の裏へと馬を引いていった。しばらく進んだところに、背の高さくらいの、小さな裏口の扉を見つけた。
ヴィンセントがその扉を叩くと、顔の高さに付いている四角い小窓が内側から開けられた。ヴィンセントがそこに顔を近づけると、番人らしい男は蝋燭の灯りを小窓に近づけてヴィンセントの顔を確認した。すぐにガチャンと閂を外す音が聞こえ、扉が大きく開いた。
「ヘーンブルグ男爵! お待ちしておりました!」
番人はヴィンセントの後ろに居るホープに気がついた。
「彼はホープ。私の友人だ」
男は一瞬身体をびくつかせたが、ヴィンセントの手前、平静を保っているようだった。
番人は扉の中に向かって別の男の名を呼んだ。呼ばれて出てきた下男らしき男に、ヴィンセントとホープは二頭の馬を預けると、その扉をくぐって城の中へと案内された。
真夜中ではあったが、あちこちに蝋燭が灯され、裏口近くの部屋では、まだ多くの人が眠らず働いていた。
狭い通路を通りぬけ、その先の扉を開けると、広い廊下に出た。廊下は真っ暗闇で静まり返っていた。上部の小さな窓から差し込む月明かり以外に、三人の足元を照らすものは、番人が手に持っている、蜀台の蝋燭の明かりだけだった。
三人の足音がコツコツと絡まって、長く暗い廊下に響いていた。
ホープとヴィンセントの二人は、それぞれ別の部屋に案内され、一晩身体を休めた。
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