25-2
「……ジェードには【天使】様の声が聞こえるんです」
「何?」
ホープの言葉を聞いて、ヴィンセントの眉根が寄った。
「何年か前から、ジェードは【天使】様の声が聞こえていたみたいなんです。【天使】様の御加護があるのに、ジェードが死んでるはずがない」
ホープの話に、ヴィンセントは呆れたように首を横にふった。
「ここヘーンブルグで、五年前にも同じことがあったのを君は知っているか? その時、私はその少女の魔女の疑惑を取り下げるようにと足掻いてみたのだが、結局助けることは出来なかった。魔女狩りに宗教的な意味などない。あるのは腐った政治だけだ」
ホープは、領主から視線をはずし、うつむいた。
「知っています……。実は……その、ルースも、ぼくの姉なんです……」
「なんだって!?」
ヴィンセントは驚きを隠さなかった。突然、ホープの顔をまじまじと見つめて、青い瞳を大きく見開いた。五年前まで、この館で女中として働いていた少女の顔を思い出したのだろう。
「ルースは逃げなかったのに、でも処刑されてしまいました……。ルースだって魔女なんかじゃなかったのに……」
ホープの目から涙がポロポロとこぼれ落ちた。姉が魔女として処刑され、さらに下の姉にまで魔女の疑惑がかかったのだ。末っ子のホープでも、両親がジェードを逃がした気持ちは痛いほど理解できる。
「そうか。君はルースの弟か。なんという偶然、いや、これは必然と言うべきだな」
しばらく黙っていたヴィンセントだったが、迷いを断ち切るようにホープに問いかけた。
「少年よ、君自身は【天使】の存在をどう考えている? 【天使】が存在するならば、相対する【悪魔】も必ず存在することになる」
「【天使】様は存在します。ジェードが【天使】様の存在を証明してくれています」
迷わず答えるホープに、ヴィンセントはうなずいた。
「よかろう! 明後日、王都へ出発する。【悪魔】を捕えて叩き出してやろう。君も私と共に来るがいい」
王都への陳情にホープも同行することになった。
出発の朝。
ホープは、領主の館の一室で目を覚ました。いつもの癖で、随分早くに目が覚めてしまった。森から鳥の声が聞こえるが、窓の外はまだ暗く随分冷え込んでいる。
一昨日、ホープは遅くまで領主と話し続け、昨日も村へ戻れなかった。母は一人で心配しているだろうかと気にかかる。
ホープは昨晩渡された服に着替えた。薄くすべらかな衣に袖を通し、胸元の小さな飾りボタンを一つ一つとめる。その上から上衣をかぶって着た。普段ホープが着ている服よりも薄手であるのに暖かく、そしてとても軽く感じられた。
豪華な衣装を身に着けた事がなかったホープは、一緒に渡された棒状のリボンをどのように巻いたら良いのかわからず、手に握ったまま部屋を出た。
二十人は座れる長いテーブルのある広間へ行くと、そこには既にヴィンセントが居て、使用人達に不在の間の指示を色々出している所だった。
「おはようございます、領主様」
「ホープ、起きたか。こっちに来てくれ」
ヴィンセントは、一昨日の簡素な服装とは打って変わって、壮麗な絹の衣装を纏い、外見全てにおいて完全に体裁を整えている。服装だけではなく、貴族のオーラが滲み出ていた。肌は透き通るように白く、金の髪は綺麗にまとめられ、青い瞳が一層際立っている。
ホープの手に握られた棒タイに気がつくと、
「貸してみろ」
ホープの目の前に立ち、長身のヴィンセントがホープの胸元のタイを器用に結んでくれた。その指先の動作の一つ一つが美しく優雅だ。
先日とはまるで別人のように美しい青年に変わったヴィンセントに、ホープは気が引けて、その姿をまともに見ることすら出来ない。胸元に結ばれたタイと絹の衣装をじっと見つめて、これから向かう先のことを考えると、ホープの表情が更に硬くなった。
「今からそんなに緊張していてどうする。王都はもっと悪の巣窟だぞ」
「緊張というか、不安なんです……。ぼく、ヘーンブルグから出たことないし……」
「私も初めてヘーンブルグに来た時は不安だった」
「領主なのに?」
ホープが少し苦笑して、ようやく顔を上げた。ヴィンセントはホープに応えるように笑みを見せた。
「今後、私のことはヴィンセントと名で呼べ。いいな」
「はい」
ホープは返事をしたものの、すぐに『領主』を名で呼ぶなどとんでもないことだと気がついた。ヴィンセントの笑顔に魅せられて、うっかり返事をしてしまい、ホープは自分の軽率さを後悔した。
昼を過ぎた頃、王都ランスへと向かう準備を整えたホープとヴィンセントの二人は、それぞれ馬に跨ると領主の館を出発した。他に同行者のない二人だけの旅となった。
街道を少しアレー村の方に戻り、そこから北東へ伸びる道を一気に進む予定だ。
空はどんよりと曇り、真冬の寒さに馬上の身がしばれた。
街道と農地の境には低く石垣が詰まれているが、道路は舗装されておらず土がむき出しのままで、馬車の轍が土を削ってへこんでいる。
そんな牧歌的でのどかな風景に馴染むように、その街道を羊の群れが横切った。
その羊の群れの中の、羊飼いの少年にホープの目が留まった。
「ちょっと待ってください」
ホープはヴィンセントにそう言うと、その羊飼いの少年の方に乗っていた馬を向けた。
「ウィルダー!」
ホープが手を振ると、少年はそれに気付いた。上手い具合に羊の群れの中からすべり出て、ホープの方に走ってやってきた。
「ホープ! 驚いたな! 誰かと思ったよ。なんだ、その格好? どうしたんだ?」
羊飼いの少年は、フードを取り馬上のホープを見上げた。フードの下からジェードやホープと同じ黒色の髪が現れた。幼馴染のウィルダーはホープよりも少し大人びて見える。ウィルダーとはジェードが居た頃にはよく顔を合わせていたが、ジェードが居なくなってからはほとんど会う事もなくなっていた。
「あれは……領主様?」
遠目に見える金色の髪の人物に気が付くと、ウィルダーは身体を曲げて頭を下げた。
「ホープ、どこかへ行くのかい?」
「王都へ行ってくる。ジェードの魔女疑惑を取り消してもらうんだ」
ホープの言葉にウィルダーは目を見開いた。
「……ジェードは、生きてるのか!?」
ウィルダーもまた、戻ってこないジェードは死んでしまったものだと思い込んでいたようだ。
「うん。魔女疑惑が取り消されれば戻って来れるはずだよ」
「本当に?」
ホープは強くうなずいた。
ウィルダーの表情がぱっと明るくなった。ウィルダーは首から聖十字のペンダントを外すと、「君に天使のご加護を」と馬上のホープに手渡した。
ホープはペンダントを自分の首に掛けると、ウィルダーに向かって再びうなずき、ヴィンセントの待つ方へ馬を返した。
* * * * *
ヴィンセントが先に出した伝令が王太子の元に到着していた。
城の中には王太子に忠誠を誓った騎士や聖職者、王妃イザベラに対して反感を持つ貴族達、王太子の側近など、いわゆる『王太子派』と言われる者達が集まっている。そこで、二十二歳になるヴァロニアの王太子、ギリアン・フォン・ヴァロアは暮らしていた。
「王太子殿下、ヘーンブルグから書状が届いております」
「ヘーンブルグから?」
王太子は不審に思いながらもその書状を確認すると、椅子から立ち上がり喜びの声をあげた。
「皆の者! 聞いてくれ!! ヴィンセントが来てくれる! あのヴィンセント・フォン・ラヴァール! いや、今はヴィンセント・フォン・ヘーンブルグ男爵だ!」
その時、その場に居た者達も歓喜の声を上げた。
「ヴィンセント・フォン・ラヴァールと言えば、ランスのラヴァール家の長男か。彼が味方に付いてくれるなら風向きが変わるかもしれないな」
「しかも今まで蚊帳の外だったヘーンブルグの名を背負ってくるとなると……」
王太子の秘密を知る者達は、お互い目配せしてうなずきあった。