4.巡礼の道
父母と牧師によって、ジェードは追われるように村を出た。宵闇のなか一人馬を駆った。
ようやく空が白んできたころ、ジェードが居た場所はすっかり村はずれだった。言われたとおり、夜明けまでにヘーンブルグの領地を抜けることができそうだ。
長い間人気のない道は草だらけだが、大きな森の入り口へと続いていた。森の手前には墓地があり、古びた木の墓標がたくさん地面に突き刺さっている。ここは、大昔の戦争の犠牲者たちの墓なので、弔い人はいない。
ここまでくればもう焦ることはないと、ジェードは馬の歩みを緩めた。すると心地良い揺れに途端に睡魔がおそってくる。閉じようとする瞼を必死でこらえ、森の中へと馬を進めた。
森の影に入ってすぐ、ジェードはなかば滑り落ちるように馬からおりた。木々の影に隠れていればすぐには見つかることもないだろう。
手綱を近くの枝にくくると、夕べはおった外套のまま木の根元にうずくまった。そのままジェードはすぐに眠りに落ちていった。
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ジェードは幸せなころの夢を見た。
村中の木々の葉が今とばかりに青々と繁っていた。ジェードがまだ学校に通っていたころで、教会の裏の学び舎に居たときだった。
教室の外に目を向けていた子どもが、窓の外に年上の少女の姿を見つけた。
「ルースだ!」
えっ、と声を上げてジェードとホープ、それに他の子どもたちも窓の外を見た。そこには長い黒髪を丸く結い上げ、大きな荷物を背負った少女が教室に向かってやってくる。
ジェードには双子のホープのほかに、兄が二人とルースという名の姉がいた。ジェードより七つ年上のルースは勉強好きの好奇心旺盛で、ちょっと変わり者として村でも有名だった。
村の女子たちは十歳で学校を辞めて職に就くところ、ルースは一人男の子たちに交じって十二歳まで学校に通い、そのおかげで領主の館に女中として勤めることになった。アレー村の子どもたちは大人になっても村から出ることがほとんどないので、ルースのように村を出て働くことはとても珍しいことだった。
領主の館は村からずっと北東のクランという街にあり、ルースは月に一度、両親にはお金を、双子やその友達には都会の土産話を届けに帰ってくる。
領主の部屋には夜な夜な幽霊が出るだとか、アレー村は実は大きな墓場で地下墓地があるだとか、ヘーンブルグ領の外の人はみな金色の髪をしているだとか、とにかく不思議な話ばかりで、幼い子どもたちはいつもルースの話を楽しみにしていた。
ところが、昨年年老いた領主に代わり新しい領主がきたころからルースが村に帰ってこなくなった。双子の誕生日にも家族のもとに帰ってこなかった。そのルースが何の便りもなく突然村に戻ってきた。
姉を見つけ、ジェードは教室を飛びだした。姉の名前を叫ぶと正面からルースに抱きついた。他の子どもたちも窓辺や入口に集まってルースだルースだとさんざめいた。
「ルー姉さん! ずっと帰ってこないから心配してたのよ!」
「ただいま、ジェード。ごめんね、ずっと連絡できなくて」
ルースは突然飛びついてきたジェードに少し後ろによろめいたが、再会を喜ぶ妹を抱きしめ頭をなでた。
「牧師先生は教室にいる? 私、学校で働かせてもらおうと思ってるの」
姉の言葉にジェードは目を丸くした。
ジェードが牧師は教室にいないことを告げると、牧師様のところについてきてくれる? と、ルースはジェードをともなって教会の方向へと足を向けた。
この後姉からまた色んな話が聞けると、ジェードは小躍りするように歩いた。しかもこれから姉が先生として学校に来てくれると思うと、心が躍る気持ちを抑えられなかった。
「学校で働くって、もう領主様のところには戻らないの?」
「うん、そのつもりだよ。私はこの村で赤ちゃんを産んで育てるの」
ジェードは驚いてルースの顔を見あげた。
「赤ちゃん?! ルー姉さん、赤ちゃんが生まれるの?」
「そう、でもまだ誰にも秘密。パパとママにも言っちゃだめだよ?」
「わかった、約束するわ。でも姉さん、いつ結婚したの? 誰の赤ちゃんなの?」
「それも秘密」
ルースは人差し指を口の前に立てた。
「えー?」
ジェードは口をとがらせた。ルースはふてくされるジェードの手を取ってつないで歩いた。
「ジェード、赤ちゃんが生まれる時は、お手伝いしてくれるでしょ?」
「わたしにできる?」
姉の言葉に少し機嫌の直ったジェードは驚いた声音で返した。
「ママのお産を手伝った時、私は七歳だったよ。ジェードはもう九歳でしょ? それに絶対に天使様が見守ってくれてるから、大丈夫よ」
「わかったわ! まかせて!」
ジェードはルースとつないでいる手と反対の手で拳を作り自分の小さな胸をどんと叩いてみせた。
「ジェードとホープが生まれる時、私ママのお手伝いをしたんだけど、その時に天使様に会ったのよ」
「ルー姉さんはいつも不思議なお話ばっかり。それも作り話?」
「私は作り話をしたことは一度もないわよ」
悪戯っぽく笑う姉を見ると、心がわくわくしてきて話の真偽などどうでも良くなる。ホープや友達もそんなルースの話がとても好きだった。
「天使様ってどんな人だったの?」
「天使様は人じゃないとは思うけど。ホープが生まれた後、ママもジェードも弱っちゃって。もう二人とも死んじゃうんじゃないかって、怖くなって私泣いていたの。助けてって一生懸命祈ったわ。そうしたら、天使様が現れて私に手を添えて助けてくれたの」
「大きな翼はあった?」
「ううん。天使様は後ろから私を抱きしめるように助けてくれたから、腕しか見えなかったわ」
「腕だけなのに天使様だってわかるの? ほんとはシーラおばさんだったんでしょ?」
ジェードも好奇心で聞き返す。
「シーラおばさんは、その時ホープを産湯につけていたのよ。それにね、おばさんには天使様は見えてなかったの。あの時、天使様がいなかったらジェードはきっと死んでたわ。だから、私はしっかり勉強して、天使様にお仕えしようって思ったんだよ」
「じゃあ、領主様の女中になったのはなぜ? 教会で働けばいいのに」
妹の質問にすぐに答えず、ルースは声をひそめた。
「天使様は教会には居なかったのよ。これも絶対に秘密よ」
それから腹に手をあて、ジェードの手も自分の下腹にさわらせた。
「赤ちゃんがもうお腹の中で動いてるんだけど。まだ外からはわからないかな」
ジェードはかがんでルースの下腹に片耳をあててみた。服越しにドクンドクンと脈打つ音は聞こえてきたが、胎児の動きまではまだ伝わってこなかった。
ぴったりとくっついたジェードの髪をさわりながらルースがつぶやいた。
「もしも、生まれてきた赤ちゃんの髪が金色でも驚かないでね」
「金色?」
アレー村の村人は全員黒髪だ。金色の髪と言われてもジェードにはどんな色なのか想像できなかった。アレー村どころか、ヘーンブルグ領には金色の髪の者は一人もいない。
確かルースは、ヘーンブルグから出ればみんな金髪で黒髪はいないと話していた。
「瞳も青いかも」
そう言われてジェードは教室の壁に描かれた天使の絵を思い出した。ずいぶん昔に描かれた絵はすっかり痛んで色落ちしていたが、天使の瞳は緑、髪は薄い茶色の絵具で描かれていた。
「わかった! 天使様の髪の色ね! 聖典の絵みたいな、金の髪の赤ちゃんが生まれるのね!」
興奮してはしゃぐジェードを見て、ルースは微笑んだ。
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