25.変わり者のヘーンブルグ男爵
1426年2月6日、ヴァロニア王国 ヘーンブルグ領クラン――。
ヘーンブルグにまた冬がやってきた。
海沿いのアレー村から街道を東へ進むと、クランという領主の住む街がある。ヘーンブルグの中では最も都会ではあったが、それでも小さな街だ。
その小さな街の外れにヘーンブルグ領主の大きな屋敷はあった。
アレー村での魔女騒動から一年が過ぎた頃、ホープは一人でヘーンブルグの領主の館を訪ねた。
都会とは言っても、そもそもヘーンブルグと言う場所は森に囲まれた田舎領である。領主の屋敷も、手入れの行き届かない鬱蒼とした森の横に建てられていた。
雪雲が空を覆い、日の光は遮られて、昼間だというのに辺りは夕方のように薄暗い。半分が森に面した屋敷は、天気の良い日でもどこかしら日陰になる。天気の悪い日などは、さらに不気味さを増していた。
ホープは、使用人に領主に拝謁したいことを伝えた。白髪の女中に広い館の中を案内される。館の中は人気がなく、ひっそりと静まり返っている。ヘーンブルグの領主は、今は最小限の使用人しか雇っていないようであった。と言うのは、ホープが姉のルースから聞いていた、領主の館の雰囲気とは違ったからだ。
無口な老女中に連れられて、辿りついた部屋の扉を、ホープは恐る恐るノックした。
「入れ」
若い男の声で入室を促され、ホープは扉を押した。ぎいっときしんだ音が取っ手を握る手に響く。
領主の居る部屋は日の当たる方角にあるようで、窓からの弱い光が部屋の中を照らしていた。
正面の大きな窓と暖炉以外の壁は、全て天井まで届く本棚になっていて、梯子が立て掛けられている。暖炉に火は入れられていなかったが、部屋の中は微かに湿っぽく廊下よりは暖かく感じられた。
部屋のあちこちにイーゼルがいくつも乱立していて、そこに大小様々な大きさのカンバスが置かれている。カンバスの絵は描きかけの物が多く、完成した絵は少なかった。
ホープは部屋の奥へと進みながら、横目でそれらの絵を見た。黒い髪の天使像や、黒く塗られた人間、太陽だか月だか炎だか、何か良く分からないものが描かれていた。
室内は雑多に散らかり、居るはずの領主の姿が見当たらない。
窓の前に大きなデスクがあり、その上に本が山積みになっていて壁を作っている。奥に進むとようやく、その壁の向こうに革の長靴を履いた長い足が乗っているのが見えた。
デスクの上に足を投げ出し本を読んでいた人物が、けだるそうにホープに話しかけてきた。
「大蔵卿は仕事に出かけている。すぐには帰ってこない。明日にでも出直してこい」
ホープは、意味が分からず呆然とした。ずいぶん若い男の声だ。
ホープが返事をしないでいると、
「なんだ? 地税の直談判にきたのではないのか?」
声の主は読んでいた本を閉じると軽やかにデスクから足を下ろし、積み上げられた本の壁の隙間からホープの方を見た。
積まれた本の隙間から、驚くほど青い瞳がホープを見すえている。『歴代、ヘーンブルグの領主の瞳は青い』と言われていることを思い出した。
ヴィンセント・フォン・ヘーンブルグは、今年で二十二歳になる若き領主だ。十六歳の時、後継者の居ない前領主の養子としてこのヘーンブルグにやってきた。
しかし噂によると、当の本人は館に引きこもって領民の前に姿を現すことはほとんどない。
本の山の向こう側にいるのは、まさにその噂の人物だ。
「少年。何の用があってここへ来た?」
ヴィンセントは、デスクに山積みになっている本の上に、閉じた本を更に積みあげた。
本の壁越しに言われたが、ホープはデスクを横から回りこみ、領主の前に立った。
青い瞳の青年は、革張りの椅子に深く腰を掛けていた。その瞳の色は空よりも遥かに濃く、深い海のような青色だ。ヴィンセントの青く冷たい視線が真正面からホープに突き刺さる。
そして、それよりもホープを驚かせたのは、ヘーンブルグでは見たことのない鮮やかな金色の髪だった。ホープは目を奪われた。生まれて初めて見る金の髪だ。
しかし、若き領主ヴィンセントは、到底貴族とは思えないような簡素な衣服をまとっていた。それを、さらにだらしなく着崩している。せっかくの金の髪も手入れしていないようで、読書の邪魔にならないよう適当に結わえられていた。
実は彼については『引きこもり』だけでなく『変わり者』だと言うことも領内に知れ渡っている。
「えっと、領主様、あの、これを……」
ホープは、ジェードの魔女疑惑を書かれた王都からの召喚状と、村の牧師からの紹介状を、ヴィンセントに差し出した。
「なんだ、これは? 魔女の召喚だと?」
ヴィンセントは紹介状の方には目もくれず、魔女狩りの書状を広げざっと目を通した。その後、封の紋章を確認し眉間を寄せた。
「王都から出されているが、これは王太子からではないな。おそらく王太子の母君か、その取り巻きからか?」
椅子に腰掛けたまま、ヴィンセントは独り言のようにつぶやいた。
ヴィンセントは、ちらりとホープの黒髪を見た。
「ここに書かれているのは、君の兄君なのか?」
「……えと、いえ、姉です。ジェードが戻って来られるように、どうかこの魔女疑惑を取り消して欲しいんです。お願いします、領主様」
「そうか。姉君に魔女の疑惑がかけられたのか。魔女裁判を勝たせたい気持ちはわかるが。残念だが、さすがに王太子の母君が相手では、私では力不足だ。姉君が捕まって辛いだろうが――」
「ジェードは捕まったんじゃないんです。聖地に逃げたんです」
ヴィンセントは勢い良く立ち上がると、声を高めた。
「逃げただと? 馬鹿なことを」
怒鳴りながら、書状をデスクに叩きつけた。
デスクに積まれた本の山が揺れて、ホープは身をすくめた。
「大人しく連行されていれば、少しは希望があったものを。逃げただと? 国に帰ってきたとしても、裁判も無しに、すぐ処刑されるのが落ちだ」
「そんな……」
「本物の悪魔や魔女でも捕らえて、姉君が魔女ではないことを証明でもしない限り、魔女疑惑が取り消されることはないだろう」
それを聞いて、ホープは呆然となった。
「そんな……。悪魔なんて本当に存在するんですか……?」
ホープの声が震えていた。ヴィンセントは、ホープの反応にため息をもらす。
「今のはモノの例えだ。私は、『不可能』だと言っている」
「でも、それじゃおかしくないですか? 悪魔が存在しないなら、その僕である魔女なんて存在しないはずなのに」
ヴィンセントは何か言おうとしたが、深くため息をついて口をつぐんだ。
「……やっぱり、ジェードはこのままヴァロニアには戻って来られないんですか?」
背の高いヴィンセントを見上げて訴えるホープに、ヴィンセントはデスクの上に叩きつけた書状を再び手に取った。
「この書状、日付はほぼ一年前だ。君の姉君は聖地に逃れたと言ったが、そもそも生きているのか?」
そう言われ、ホープは押し黙った。
「聖地オス・ローは、二百年前のファールーク皇国とシーランド王国との戦争で崩壊し、今はファールークの領土となっている。その後オス・ローが復興したという話は聞かない。そして、当時の王ヴォード・フォン・ヴァロアの死後から、現在もフロリスからの越境は禁じられている」
ホープは歴史のことは良くわからなかったが、真直ぐヴィンセントを見つめ返した。
「どう言ったら信じてもらえるのかわからないけど、ぼくとジェードは双子で、ジェードが生きてることはわかるんです!」
「双生児の超感覚的知覚というやつか。根拠はあるのか?」
「……実は、つい今も『わたしはここで元気にしてるわ』って聞こえたんですけど……」
「私には聞こえていない。それでは証明にはならないな」
「じゃあ、これを見てください」
ホープは右手をヴィンセントに見せた。人差し指に刃物で切れたような傷痕がくっきりと浮いている。
「半年位前に、突然血が出たんです。でも血を拭くと痛みもなく、こんな風になってた。きっとジェードが怪我をしたんです」
「私がそんなことを信じるとでも思ってるのか?」
「それにジェードは!……」
ホープは言いかけて止めた。
「それに? なんだ?」
「いえ……」
「言い給え」
「……この事は、ぼくしか知らない事なんです。他言しないと誓ってください」
ヴィンセントは大きく開いた胸元から、聖十字のペンダントを取り出し、それを左手で持つと右手で十字を切った。
「ならば、天使に誓おう」
それを聞いて、ホープはうなずいた。