24-3
城壁の頂上へと向かう階段は、城門近くにある階段と比べると、飛び石のようで随分粗雑な造りだ。壁の突起部分を頼りにしないと、安全に登れそうにない。
ハリーファは迷わず、その狭くて危なかしい階段を登っていった。ジェードは下からハリーファを見あげた。
「登って大丈夫なの?」
「いいからついてこい」
階段の幅はとても狭い。足を滑らせたら下まで転落してしまいそうで、ジェードは城壁に手を添わせて登った。足を踏み出すごとに離れていく地面を見て、鼓動が早くなる。
頂上に辿り着くと、城壁の上は大人が二人で並んで歩けるくらいの通路になっていた。通路の外側には胸の高さほどの壁が作られていて、等間隔に壁の無い部分が作られている。
下にいた時、壁が邪魔をして聞こえてこなかった波の音が耳に届いた。
ジェードは熱をもった低い壁にしっかり手を添えながら、恐る恐る外を見渡す。
城壁の上から外を眺めると、岸壁の向こうに荒波が寄せる大海が見えた。
果てしなく続く、海と空が目の前に広がっていた。空の青とそれよりも濃い海の青、少しの白が混じり、溶けてゆく。
今まで忘れていた、なつかしい潮の香りがジェードを包みこんだ。
二人はしばらく黙って海を眺めていた。
「わたしの村にも、似たような岸壁があるの。夏はよく羊を連れて行ったわ。でもこの海とは違う。もっと穏やかな海よ」
そう言いながら、ジェードはハリーファをふり返る。
「それはエトルリア海だな。こっちは南のトリアナ海だ」
エトルリア海は亡国シュケムの北にある、左右の大陸に挟まれた湾だ。そして蝶を模った世界は、シュケムを頭にして、右にフロリス、左にモリスと言う名の羽を広げている。
「……ヴァロニアに帰りたいか?」
「もちろん帰りたいわよ。……でも、」
(ハリを殺さないと帰れないんだもの……。わたしは死ぬまでここで暮らすのかしら……)
ジェードは、もうハリーファを殺すことを諦めたのだ。
「俺にはお前が必要だ」
「わたしのやってる事なんて、他の誰でも出来るじゃない……」
ジェードの言うように皇族の奴隷になりたい者は沢山いるだろう。
「だが、お前は【天使】の加護がある。そして【天使】と話せる」
ハリーファの言葉に、またジェードの顔が曇った。
「わたしは祈っているだけよ。それに、ここに来てからは【天使】様の声も聞こえないの」
うつむいてそれ以上何も言わないジェードに、ハリーファは真剣な面持で言った。
「ジェード、俺はいずれお前に殺されてやってもいい」
ハリーファの言葉に、ジェードは驚いて目を見開いた。
「……え?」
「今すぐじゃない。それに条件がある」
「条……件?」
「【エブラの民】を助けることが出来れば」
ハリーファは真剣な表情だったが、どこか寂しそうに見えた。透き通るような明るい翡翠の瞳が憂愁を帯びる。
「この命、お前にくれてやる。俺は、お前の名の『公正』を信じようと思う」
ハリーファがあまりに真剣な顔で言うので、ジェードはすぐには何も答えられなかった。
「……わたし、ハリの『家族』になるわ」
そう言うとジェードはハリーファに背を向け、城壁の矢狭間に膝を抱えて座り込んだ。
海を眺め物思いにふけりながら、手ではエルファの花を弄んだ。熱さでこめかみに汗が流れる。
(みんな元気かしら。パパ、ママ、兄さんたちにホープ。それにウィル……)
胸元から聖十字のペンダントを取り出す。銀色だった聖十字は自分や村の皆の髪のように黒い。
(やっぱり、会いたい……、パパ、ママ……)
乾いた空気の中、荒い波音だけが聞こえてくる。
ジェードは家族や羊飼い仲間のことを想い、ハリーファの目にも横顔が寂しそうに映った。そして目元を手でこすり、時々鼻をすする。
家族を想う気持ちと、ハリーファを殺さなければならないことに、葛藤しているようだった。
ハリーファはそんなジェードを見て、しばらく声をかけずにそっとしておいた。
――本当は、何と声をかけてよいのかわからない。馬鹿みたいに傍に立ち尽くし、うずくまっているジェードの背中を眺めた。
サライも、このジェードのように自分を想い、ドームの城壁から海を眺めていたのだろうか? ドームの城壁もこんな感じだったのだろうか?
サライのことだから、ジェードと同じように鼻をすすっていたに違いない。
ユースフに会いたい……と。
生まれ変わっても自分はあの頃と何も変わらず、今ジェードにかける言葉さえ見つけられない。あの時サライにも酷いことを言ったと、ほろ苦く思い出した。
「ここから落ちたら死んじゃうわね」
突然、ジェードの声が、感傷に浸るハリーファを現実に引き戻した。
何か無理に吹っ切ったように明るい声だが、擦られた鼻が少し赤くなっている。ジェードは立ち上がって、城壁の下を恐る恐る覗き込んでいた。
「お前には天使の加護がある。落ちてもきっと助かるだろ。俺は外には出れないから、そのままヴァロニアに帰るといい」
「わたしは自ら命を捨てるような真似はしないわ!」
(それに逃亡は死罪だって言ってたじゃない!)
ジェードは、ぷうっと怒りながらハリーファに文句を言った。
この時、ハリーファにふと悪戯心がわいた。
突然、ハリーファはジェードの腕をぐっとつかんだ。ふざけて壁下に突き落とすようにジェードの身体を押す。
「きゃぁっ……」
ジェードは消え入りそうな小さな悲鳴を上げた。
ハリーファはつかんでいたジェードの腕を、今度は自分の方へ引っぱった。反動で戻ってきたジェードを力強く引き寄せ抱きとめる。
思っていたよりも軽く、華奢な身体だった。ゆるゆると波打った髪の甘い匂いが、ハリーファの鼻腔をくすぐる。
「やだっ! やめてよ!」
ジェードが涙をにじませ本気で怒りだした。そして、ハリーファの束縛から逃れようとするが、ハリーファはジェードを抱き寄せた腕を緩めない。
ジェードの慌てる様子がおかしくて、ハリーファは声を上げて笑った。
(ホントに、死ぬかと思ったじゃない!)
「俺は、お前を離さなかっただろ」
ジェードは、じたばたとあがくのをあきらめたようだった。ハリーファを見つめる頬がかすかに紅く染まる。
力の抜けたジェードの手からエルファの花がはらりと落ちた。
「あっ……」
ジェードは、エルファの花が落ちていく様子を目で追った。
花は、城壁の下へと、ゆらゆらと揺れながら落ちていく。
城壁をこすり転がりながら、ぽたりと地上に落ちた。
花が落ちたところに、男が立っていた。
見覚えのある、シュケムの軍服を着た男だった。
まだ太陽は真上にあるはずなのに、薄い影が男を覆う。
黒髪の男は、足元のエルファの花を拾い上げると、城壁をふり仰ぎハリーファを見上げた。憂愁を帯びた漆黒の目は、じっとハリーファを見つめている。三十路近い男が、まるで親に怒られている子供のような顔をしていた。
『どうした? 何故泣いてるんだ?』
男は、ハリーファに向かって声をかけてきた。ハリーファは、慌てて服の袖で顔を拭ったが、涙など出ていなかった。
(何言ってる! お前こそ、自分の気持ちを吐き出すために海に来ていたんだろ!)
ハリーファが心の中でそう言うと、男は空気に溶けるようにすっと姿を消した。
「ハリ?」
気がつくと、引きつった表情のハリーファの顔を、ジェードがいぶかしげに覗き込んでいる。
ジェードには、あの男の幻は見えていなかったのだろう。
「な、なんでもない……」
(こんなことをしている場合じゃない……、わかってる……)
皇宮という、城壁に囲まれた閉鎖的な空間での生活。それは【エブラの民】と同じだと、ハリーファは今更ながらに思った。
そして、ここから外に出られるのは、きっと彼らと同じように、自分の『弔い』の時なのだろうとも考えていた。