24-2
昼になって、ハリーファは一人で厩舎へ向かった。
厩舎の隣にある厩務所の前に、見覚えのある女奴隷の姿がある。
ジェードと壮年の厩舎守が並んで話していた。近づくにつれ、二人の表情も良く見えてくる。
厩舎守の男は、落ち込んだ様子のジェードに対して、親し気に肩に手を回す。すると、ジェードの顔には何故か笑顔が戻り、二人はまた楽しそうに話し続ける。
ハリーファは、その様子を歯がゆく思いながら、二人に近づいていった。
ジェードは気づいていないようだが、厩舎守がジェードの黒髪をじっと見ていることも、ハリーファは気に食わない。以前からジェードには、散々厩舎に近づくなと言っていたはずだ。
「ハリ……?」
ジェードがハリーファに気づいた。
男は慌ててハリーファに一礼すると、厩務所の中に消えた。突然話し相手を失い、ジェードはハリーファの方に歩み寄ってきた。
ジェードの心の声を聞くまでもなく、『こんな所に来るなんて珍しい』と言いたげだ。
「ハリ、どこかに行くの? それとも乗馬?」
「何処にも行かない」
厩舎守に用があったのだが、ジェードと顔を合わすとは思っていなかった。
「じゃあ、何しに来たの?」
「前にも言ったはずだ。あんまりこの辺をうろうろするなと」
「もう。ハリは人を疑いすぎなのよ」
疑っているのではなく、確証を持って言っているつもりだ。厩舎守の男がジェードに好意を持っているのが、ハリーファには筒抜けだ。しかも、今日十四歳になったジェードは、ファールークの法の下なら成人だ。ジェードの素性を知りもしない男に、下手に目をつけられては困る。
「わたし、馬が好きなの。だから、ここによく来てるだけよ。逃げようって思ってるわけじゃないわ」
どうやら、ジェードは自分が疑われていると勘違いをしているようだが、ハリーファは敢えて何も言わない。
「ねぇ。今度ハリが外に行くときに、わたしも連れて行って。この国の外の生活を見てみたいの。わたし、この国の普通の人たちが、どんな暮らしをしているか、全然知らないんだもの」
ジェードの瞳から、好奇心があふれ出る。
「わたし、この壁の向こう側の事を知りたいの」
「……俺はここから出られないんだ」
シナーンが言ったことが本当なら、ファールーク皇国は【宰相】と【悪魔】との契約でフロリスから守られている。その条件が【王】を王宮内に留めて置くということだという。
本当なら超えれないはずの国境を越えて、ジェードがオス・ローに入って来ることが出来たのは、あの日ハリーファが宮廷を抜け出したからというのも辻褄が合う。
「お前を外に連れて行ってやることは出来ない」
ぎらぎらと照り輝く太陽が、立ち止まって話す二人の頭部を焼きはじめた。どちらともなく、城壁沿いにある細い日陰の方へと歩みだす。
「もし外出を許してくれるなら、わたし一人でもいいの。家奴隷もお遣いに出たりしているでしょ。逃げたりしないし、ちゃんと戻ってくるわ」
ジェードの言い訳を聞かなくても、砂の地に不慣れな人間が、徒歩で砂漠を超えられるわけがない。
「ジェード、市井は宮廷の女奴隷が一人で行くような場所じゃない。お前みたいに、この国の決り事が分かってないならなおさらだ。外出は許可できない」
城壁までたどりつくと、ハリーファは日陰に身を収めるように壁にもたれた。
「宮廷の女奴隷は随分不自由なのね」
ハリーファの前で、ジェードがすねたように悪態をついた。
(壁の外には一体何があるの? どんな人たちが生活してるの? この壁の中だけの自由なんて……)
ハリーファの傍らで、ジェードは壁を見あげた。
「お前は奴隷だ。自由人じゃない」
心の声を聞かれ、ジェードはハリーファに向き直った。そして、真直ぐな瞳でハリーファを見た。
「その言い方、わたし好きじゃないの。わたしの国では『奴隷』っていうのは『罪人』のことなのよ」
(わたしは罪人なんかじゃないわ)
「なら、ヴァロニアでは『奴隷』のことを何と呼ぶんだ?」
「『使用人』よ。女は『女中』って呼ぶのよ。わたしの姉さんも、領主様の所で女中をしていたの」
「『支える人』か」
ハリーファがモリスの言葉の韻律でつぶやいた。
ジェードはハリーファの言った言葉の意味がわからず、ハリーファの顔を見つめて軽く首をかしげた。そして、また壁を見上げた。
「それに、奴隷には自由はないなんて言っても、心の自由は誰にも奪えないわ」
(奴隷だけじゃないわ。人の心は、皆自由なのよ)
炎天の下のはずだったが、ジェードの言葉が心地よい風のように、ハリーファの心の中を吹き抜けていった。
「そうだな。代わりに、外が見えるところに連れて行ってやろう」
ハリーファはジェードを連れ、城壁沿いを東へ向かった。
太陽は二人の真上にあって、城壁の陰も途中で姿を消した。
宮廷内には、いくつか手入れの行き届いた小さな植物園のような場所があった。ジェードは所々に生えている花を見つけてはハリーファに問いかけた。
「この花は何ていうの?」
白い小花を沢山つけた植物を、ハリーファは一本手折ると、ジェードに渡した。
「これはエルファだな。それと、向こうの大きい白い花はハルダル、あれは薬草だ……」
「どんな薬になるの?」
「鎮痛薬だ。薬草園の植物は勝手に触るなよ。皮膚が焼けるものもあるからな」
「わかったわ」
「お前、薬草に興味があるなら、もっと詳しく教えてやろうか?」
「本当? 嬉しい」
ハリーファの言葉に、ジェードが明るく笑った。ハリーファは内心密かにほっとした。朝から生誕日を喜んでいたジェードを、泣かせそうになったままで気にかかっていたのだ。
石畳の小道は途中で途切れ、二人は黙ったまま歩く。聞こえるのは砂地を蹴る乾いた靴音だけだ。
やがて、城壁と平行に幅の狭い石の階段が作りつけられている場所にたどり着いた。