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天国の扉  作者: 藤井 紫
第二章 落陽の聖国
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逃走

 ファールーク皇国では新年を向かえてから、一月近く日が過ぎようとしていた。

 井戸水の水位が最も高くなり、モリスの短い冬もこれから終わりに向かうことを知らせていた。


 日が暮れかけた頃に、ハリーファは目を覚ました。

 汗ばんだ身体を半分起こしてみると、高熱も治まったようで、身体が随分軽く感じられる。

 ハリーファは砂色の壁に囲まれた部屋の中を見回した。

 長くうなされ続けた夢の中では、血濡れ煉瓦の部屋で監禁され続けたので、本宮のハリーファに与えられた部屋のベッドの上だったことに、ハリーファは胸をなでおろした。

(ここは【王の間】じゃない……)

 そして夢の中で、足に長い鎖の付いた枷を付けられていたことも思い出した。

 恐る恐る、右足を引き摺るようにそっと動かしてみた。だが、夢の中の記憶のような重さも感じず、ジャラジャラと金属同士が擦れる嫌な音も聞こえない。

(枷も付いてない……)

 夢の合間には、何度もリューシャの顔を見たが、珍しくリューシャはそばに居ない。

 ハリーファはベッドから静かに下りると、ドアを開けて廊下を見渡した。窓の外から歌うような祈りの言葉が聞こえてくるが、廊下に人気は感じられなかった。

 ハリーファは上着を羽織り、女のように布を頭に被るとそっと部屋を抜け出した。


 この宮廷の中には、ありとあらゆる抜け道がある。

 ウバイド皇族しか知らない隠し通路を、ユースフは知り尽くしている。それらの抜け道が、この数百年の間に塞がれていなければ、誰にも見つからずに宮廷を抜け出すことも可能だ。

 ハリーファは、長い廊下を足音を立てないようにひた走る。

 その途中、ある部屋の前でハリーファはふと足を停めた。この宮殿の中で最も良い位置にある部屋だったが、ハリーファが生まれる前からその扉は固く閉ざされ、一度も開けられたことはない。

 今まで、その事を疑問に思うことも、理由を問うものも居なかったが、ユースフの記憶が甦った今その理由がわかる。

 ハリーファは、レリーフが彫られた重厚な扉にそっと手を触れ、そこに描かれた絵文字をそっとなぞった。

(ここは、ウバイド皇国最後の皇帝の部屋だ……)

 この部屋の前で、シャーミールと再会した記憶も鮮明に甦る。

 ウバイド皇国の最後の一人となったシャーミールの為に、この部屋の扉はユースフ自身が閉ざしたのだった。

 感傷に浸る想いを振り払い、ハリーファはその扉の前から走り去った。部屋を出て一度遠くなった祈りの歌声が、また階下から響いて聞こえてくる。

 ハリーファは、人目に付かない通路を通って本宮から抜け出すと、今まで行った事もなかった厩舎へと向かった。

 夕刻の祈りの時間であったことが幸いしたようだ。厩舎から馬を連れ出すと、祈りに勤しむ門番の目を盗み皇宮から抜け出した。

 城門を出ても、市井の人々も祈りのために家に入っているようで、城下の通りにも人の姿はなかった。この間に城下を抜けてしまおうと、ハリーファは急いで馬を走らせた。

 城下街を抜けたところで一旦馬の速度を落とす。

 目の前に広がるのはただ砂漠だったが、オス・ローへ行く道のりは過去に何度も通った道だ。目を閉じていても馬を操れそうな感覚に包まれる。粉砂の上を馬を駆る感覚が甦ってきた。

 ハリーファは一度馬から下りると、自分の帯を外した。広げた帯を馬の鼻革と頬革にくくりつけ、簡易に砂除けを作る。

 そして自分も、頭に被っていた布を使って鼻と口を塞ぐと、再びあぶみに足をかけた。

 後方に砂塵が巻き上がり、空気を砂色に混濁させていく。

 【王】が監禁されるようになったのは、アーディンが死んでからだ。

 聖地や【エブラの民】は、今どうなっているのだろうか。【エブラの民】を助けると言う、サライとの約束も果たせていない。

 ハリーファを乗せた馬は、速足で聖地オス・ローを目指した。




*   *   *   *   *




 ハリーファは休むことなく馬を走らせ、一晩かけて砂漠を駆け抜け、中央の地に辿り着いた。

 聖地オス・ローと呼ばれた廃墟に到着した時には、太陽は頭上を少し通り過ぎ、真夏の時間に差し掛かっていた。

 そして、聖地の光景を見て、ハリーファは馬上で言葉を失った。

 ユースフの死後、一度シーランド王国に奪われたこの聖地オス・ローを、ファールーク皇国は奴隷兵アシュラフの活躍によって奪還した。その時に、オス・ロー城下の町は崩れ去ったのだ。

 オス・ロー奪還後の六年間、アシュラフは町の復興に加わりその様子を見てきたのだが、その時からオス・ローは何も変わっていない。

 むしろ、ただ時だけが過ぎ、人的な破壊だけではなく自然に風化倒壊した町並みは、アシュラフが最後に見たオス・ローの風景より、さらに荒廃を進めている。

 ハリーファは頭痛と嫌悪感に襲われた。この土地に足を着きたくないとさえ思う。ここは聖地だというのに……、そんな風に思う自分の心にも焦燥感が押し寄せる。

(ドームは、どうなったんだ……。【エブラの民】はまだここに居るのか……?)

 【エブラの民】の事を思うと、ハリーファの気持ちは急いた。古い記憶の町の風景を重ね合わせるように、瓦礫の中を手綱を操ってゆっくりと丘を登っていく。

 こめかみに汗が幾筋も流れるのを感じたが、汗は頭に巻いている布に吸われていった。

 真夏の時間は、巡礼者がドームの【天国の扉】を訪れるピークであった。過去に二度だけ見た【エブラの民】の幻想的な弔いの儀式が行われる時間だ。

 ドームの前まで辿り着くと、ハリーファはまたその光景に愕然とした。

 城壁は崩れ落ち、【天国の扉】は柱しかその姿を留めていない。外界からの進入を阻むものは、そこにはもう何も無く、門の向こうには崩れた建物の姿が見えた。

 今まで想像する事すら出来なかった、ドームの内部が丸見えになっている。もう【エブラの民】がここで生活していないことは明白だった。

 ハリーファは門前でようやく馬から下りると、門のぎりぎりまで歩み寄った。

 弔いの儀式のとき以外に開けられることのなかった石の扉が、今は崩れてない。記憶の中の石の扉に手を触れようと、ハリーファは掌を伸ばした。だが、現実に扉はなく、差し出した掌は虚しく空を押しただけだった。



 ハリーファは長い時間そこで立ち尽くしていた。

 門柱を超えた向こう側に、ユースフが踏み入ることの出来なかった領域が見えている。

 だが、なかなか足が動かない。

 【天国の扉】がこんな状態の今でさえ、この門の跡を跨いで向こう側に入ってよいものか迷わずにはいられなかった。

 自分が何度も唾を飲み込む音が、直接耳に響く。頭に巻いていた布も、ずいぶん汗がにじんで不快だった。



 ――どの位の時間が経っただろうか。

 頭に被っていた布を外し、足元に投げ捨てる。

 覚悟を決めて、境界線の門の跡を超えた。

 ハリーファは、ようやくドームに足を踏み入れた。





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