22-3
『苦しければしゃべらなくてもいいよ。僕は心の中が読めるから』
ユースフは目を開けて枕元に居る男の姿を見た。【悪魔】に年齢など関係ないのだろうが、サライが死んだ時に見た姿より若干若く見える。だが、その容姿は変わらず美しかった。
暗闇の中でも、金色の髪は光のような明るい輝きを放ち、翠色の瞳は力強く萌える樹木を思わせた。
『ああ、あの娘、覚えてるよ。ついさっきの事のようにね』
ユースフの心の中にサライの今際の姿を見たようで、ラースは饒舌になった。時折一人でくっくっと笑う。
『アルフェラツの子に呪詛までさせるなんて、人の想いっていうのは本当に恐ろしいな』
(アル・フェラツ……?)
『君たちは【エブラの民】って呼んでるんだっけ』
ユースフの心の声に、ラースは答えた。
(教えてくれ。サライの、【エブラの民】の呪いとは何なんだ……)
『あの時、あの場に居たのに、あの娘の心は伝わらなかったんだ? 人間は本当に不便だな』
ラースの表情は心なしか冷ややかになり、ユースフを睨みつけていた。
『あの娘は【エブラの民】を恨んで、エブラの血に苦痛を与えた。【エブラの民】はやがて滅びる』
(なぜ、そんなことを……)
『【エブラの民】が混血を認めなかったからだよ。そりゃあ、あの娘も只の人だ。身籠った子を殺されれば、怨みもするだろう。僕はそういう自我は大好きなんだ。それこそ人間の美しさだ。あの娘は美しい』
と、ラースはうっとりした表情をみせた。
――只の人――、という言葉がユースフに圧し掛かる。
【エブラの民】は自分とは違う神聖な存在だと信じ、サライと自分の間にあった心の【壁】を壊せないままだった。
サライは腹の子を殺され、【エブラの民】を怨んで、呪いをかけたというのだろうか……。過ちを犯したのは、律を破ったユースフとサライの方だというのに。
『はぁ。そんなだから、あの娘の心がわからないんだよ』
ユースフの心の葛藤を聞いて、ラースは楽しそうに笑みを浮かべていた。
『まぁ、女を理解しようなんて、男には絶対無理だろうけどね』
ラースは楽しそうに笑う。
『ああ、そうだ』
ラースはどこからか細かい装飾の施された腕輪を出すと、ユースフの右腕にはめた。
『これはあんたに返しておこうかな』
それは見覚えのある腕輪だった。【エブラの民】が門を出て弔いの儀式を行う際、先頭に立つ男の右腕にはめられていたものだ。
『これは、あの娘の望みを叶える代わりに貰った物だよ』
(この腕輪は【エブラの民】の長の物……! なんてことを!)
ラースは挑発的な笑みでユースフを見つめた。
ユースフはショックで咽て、激しく咳き込み、胸元が真っ黒に染まった。
『もう肉体が限界だ』
ラースがベッドから立ち上がった時、ユースフの部屋の扉を激しく叩く音がした。部屋の主の返事を待たずに扉が開けられた。
「兄さん? 大丈夫ですか?」
アーディンが扉を開けた瞬間、部屋の中は不気味な閉塞感と、盲しいたかと思わせる闇が辺りを取り巻いた。
ラースの瞳にアーディンは全く映らず、ユースフの姿だけが映っていた。頭に聞こえてくる口調が先程までとうって変わり、表情は微かに冷たい微笑を湛えている。
それは、初めてラースを見たあの時と同じだった。サライが死んだ、――あの時と。
『ユースフ・アル・ファールークよ、お前の望みを叶えよう』
「ラース・アル・グフル……」
『さぁ、望みを申せ』
「私は……すぐに、生まれ直したい」
自分の死期を悟った頃からユースフはずっと考えていたのだ。今生では果たせなかった事を成す為にどうしたら良いのか。
その時浮かんだのは、若い頃に自分の罪悪を許してくれたアーディンの言葉だった。
一生かけても償えないなら、何度でも生まれ変わって――
(サライとの約束を果さなくては……)
ラースはにやりとした。自我に溢れた人間を見るのが実に愉快そうだ。
『いいだろう』
その言葉を最期に、【悪魔】とユースフの魂は姿を消した。
ユースフの急変を感じて扉を開けたアーディンは、目前の光景に言葉を失った。
アーディンが見たものは真っ暗な空間と、そこに浮かび上がる美しい【悪魔】と兄ユースフの今際の姿だった。
* * * * *
ユースフの死後、ファールーク皇国の王はアーディンが、宰相はその長男ナーシルが勤めていた。
最高司令官を失ったファールークの軍事力は落ち、一度ファールークのものとなった聖地オス・ローは、シーランド軍によって制圧され奪われた。
シーランド王国に奪われたオス・ローを取り戻す為に、ユースフの時と同様、アーディンは皇都を息子に任せ自ら戦蓋の下に身を置いた。
ユースフの死から十八年後。
ユースフを失って以来、弱体化の一途を辿っていたファールーク軍だったが、とうとう聖地オス・ローをシーランド軍から奪還する悲願を成し遂げた。
アーディンは、老齢とは思えぬ健脚さでオス・ローの瓦礫の中を歩いていた。
かつての活気に溢れていたオス・ローの街は、見る影もない。建物はほとんど崩れ落ち、日を遮る物もない。真夏の時間、太陽が容赦なく頭上に降りそそぐ。
数日前にシーランド軍が撤退し、ファールーク軍にオス・ローは明け渡された。まだ生々しく戦いの痕があり、あちこちで小さな煙が立ち上っている。
「アル・マリク、こちらです」
少し先を歩く案内人が、アーディンをファールークの奴隷軍がいる場所へと案内してくれた。辺りはむせ返りそうな匂いがたちこめている。アーディンは時折咳払いをしながら、ドームのある方へと足場の悪い道を上っていった。
アーディンは、今回の戦いも敗退を余儀なくされると計算していた。今回の勝利は、完全に奇跡的な誤算である。そして、アーディンは、不思議な噂を耳にしたのだ。
奴隷の一兵が戦いを勝利に導いたのだと。
その奴隷兵の右頬に傷痕があったと。
(まさかとは思うが……。だが、もしそうなのだとしても、『あの人』が自ら名乗り出てくる訳がないだろうな)
途中、黒人奴隷兵たちが地べたに座り込んで何かの作業をしている。自国の王の顔は知らなくとも、横を通り過ぎるアーディンが、その出で立ちから明らかに高貴な人物だと判ったようだ。アーディンが通り過ぎると、皆の視線はその老王の背中を追っていた。
そのまま、瓦礫の転がる坂道をずっと上っていくと、ドームを囲う城壁と【天国の扉】が見えた。さすがに聖地の象徴であるドームは、シーランド軍の攻撃も免れたようだった。
その門前の広場にたくさんの奴隷兵が屯していた。
「おい! アシュラフ!」
案内人が叫ぶと、地べたに座って話し込んでいた集団から、一人の黒人奴隷兵が立ち上がった。ターバンを撒いたその黒人奴隷兵は、案内人に手招きされ二人の近くに歩み寄ってきた。
青年と言うにはまだ少し歳若い、黒人の奴隷兵だった。白いターバンを頭に巻き、砂除けで顔を覆っている。その隙間から漆黒の瞳がアーディンを見据えていた。
騒がしくしていた奴隷兵たちは国王の姿に気が付くと口を閉じ、作業を止めて仲間の背中を見守った。
「彼がアシュラフです、アル・マリク」
アシュラフは無言で敬礼した。それはシュケム式の敬礼であった。
アーディンは、はたと思い出したかのように、同じようにシュケムのやり方で敬礼して返した。
目の前に来た若い奴隷兵を、アーディンは思慮深げに眺めた。ターバンの隙間に見える黒い瞳に、見覚えのある憂愁を湛えている。
「この度のオス・ローの解放、『貴殿』の活躍あってのものだったと聞いている」
案内人がアシュラフの耳の横で「アル・マリクだ、布を外せ」と言うと、兵士は首の後ろに手を回し鼻と口を覆っていた砂避けを外した。
「……なんでも褒美を取らせよう」
何も言わず真っ直ぐにアーディンを見据える兵士の顔を見て、アーディンの声が微かに震えた。
「も、申すがいい」
「では、俺に自由を」
そう答える黒人兵士の右頬に、かつて自分が聖裁と言ってユースフに切りつけた太刀筋と全く同じ傷痕があった。