21-2
辺りが一瞬にして真っ暗になった。
すぐ前にあるはずの【天国の扉】さえ見えない。
壁など存在しないはずなのに、歩けば踵が反響しそうな、そんな閉塞感が辺りを取り巻いている。
ユースフは一瞬、自分が盲しいてしまったかと思った。
サライを抱いたまま顔を上げると、一人の男が静かに傍らに立っていた。
美しい男だ。真っ白な肌に金色の髪、翠色の目をした、この世のものとは思えない、美しい男だった。
暗闇の中でも、男の金色の髪は明るく輝いていた。力強く萌える樹木ような色の翠の目に、吸い込まれそうな錯覚を覚える。
だが、その男の瞳にユースフは全く映らず、サライの姿だけが映っていた。
『アルフェラツの娘よ』
男の声は直接頭の中に聞こえてきた。
『二つ目の魂を預かりにきた』
「ラース・アル・グフル……」
ユースフの腕の中に居たサライが、先ほどよりもはっきりと答えた。
『さぁ、望みを申せ』
ユースフは男に圧倒されて声が出なかった。
「……わたしの望みは、ユースフにしか叶えられないよ……」
ラースと呼ばれた男は、ユースフにすがりつくサライを黙って見つめていた。
サライはラースを無視し、瞳を潤ませながらユースフに語りかけた。
「ユースフ……、キスして……」
サライの腕がユースフの頭を包み込んだが、ユースフは軽く唇を重ねただけだった。
「違うよ、あの時みたいに……」
ユースフは照れくさそうに微笑んで言うサライを抱き寄せると、サライの望むとおりのキスをしてやった。
いつの間にかラースと呼ばれた男は居なくなっていた。
ちゃんと周りの風景も見えている。
そして、ユースフの腕の中ではサライが息絶えていた。
* * * * *
ユースフのベッドの上でサライは眠っていた。
【エブラの民】の白い衣服を脱ぎ、オス・ローの女達と同じ服を着て眠っている。
ユースフはその傍らに椅子に座って伏せていた。昨夜から夜が明けても、何時間もずっとそのまま動けない。
ユースフはサライの言葉を思い出した。
【エブラの民】は死を迎えると、灰になり、地に帰る。
天国は地にあり、地獄はこの世界だと教えてくれた。
そして、サライは天国の地に帰ることは許されず、磔柱に括られ、地獄に晒された。
地獄に晒されるほどの罪を、サライに負わせたのはユースフだった。
* * * * *
夕方、ハザンがユースフのもとを訪れた。
心配して来ていたアブドに案内されたハザンは、ベッドの傍らに伏せているユースフの背中を見て溜息を漏らした。そしてベッドに横たえられたサライの姿を見て頭を横に振った。
「なんと……。大罪を背負ったものだな……、ユースフ。彼女のために祈ろう」
ハザンがそう言うと、今まで動かなかったユースフが突然立ち上がり怒鳴った。
「やめろ! 一体何に祈るって言うんだ! 神か? 悪魔か?」
珍しく感情を剥き出しにするユースフにハザンはおし黙った。
ユースフはハザンに背を向けた。
「ユースフ……、実は、儂も昨日【天国の扉】の前に居たんだ」
そう言って、振り向かないユースフの背に向かって話し続けた。
「悪魔は二度現れたんだ。お前さんがドームに来るより前にも悪魔は現れて、その場に居た全員がそれを目撃したんだ……」
「悪魔……?」
ユースフがふり返った。
「……ラース・アル・グフル……? あの男が【悪魔】……なのか?」
「おそらく皆そう思っているさ。その悪魔が、この娘に向かって言ったんだ。『大切なものと引き換えに望みを叶える』と……」
ユースフが居た時にもラースはサライに『望みを申せ』と言っていた。
「この娘は何も言わなかったよ。だが、悪魔は一人話し続けて、【エブラの民】に呪いをかけて滅ぼすと言うようなことを伝えて消えていった……」
「【エブラの民】を呪う……?」
昨日のサライの今際の言葉が蘇る。助けて欲しいのは【エブラの民】にかかった呪いの事なのだろうか――。
「私に手伝えることがあったらいつでも言ってくれ。力になろう」
「帰ってくれ……」
そう言うだけで今は精一杯だった。考えが上手くまとまらない。
「ユースフ、アリシャから聞いたよ。こんな時に何だが、皇国のワジルになったそうだな。素晴らしい昇進だ、おめでとう」
そう言って、ハザンは帰っていった。
部屋に一人残ったユースフは、眠り続けるサライの頬にそっと触れた。サライの身体は冷え切って、温かさは伝わってこない。
重ねて置いたサライの手の下の膨らんだ腹が目に留まる。通常とは全く違う、大きく膨らんだ腹は、失われた命は一つだけではなかったことを物語っていた。
この七ヶ月の間、子を宿したサライは一体どんな想いで過ごしていたのだろうか……。
この小さい命を喜んだのだろうか?
一人悩み苦しんだのだろうか?
ユースフに伝えに来たのではないか?
その時この無人の家を見てどう思ったのか……
サライのことを知ろうとしなかったユースフには、サライがあのドームの【壁】の中で、何を思いどんな生活をしていたのかさえ、到底思い及ばなかった。
「サライ……、呪うなら、俺を呪えばいい……」
ユースフは唇を噛み一人呟いた。
サライが死んだと言うのに、涙は一滴も出なかった。




