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天国の扉  作者: 藤井 紫
第二章 落陽の聖国
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21.堕落

 四季のないオス・ローが時間の流れが緩やかなのに比べ、ウバイド皇国では微かな変化を見せる自然がまるで生き急ぐように時間を追い立てる。

 ユースフとアーディンがウバイド皇国から帰ってから、早くも七ヶ月が過ぎようとしていた。


 その頃、二十九歳になっていたユースフは、皇女シャーミールを妻に迎え、正式にウバイド皇国の宰相ワジルの座に就いた。皇国の宰相兼軍司令官として、住処をウバイド皇国の宮廷内に移していた。

 そしてこの時、ユースフは皇女との婚姻のため、エブラ信仰からモリス信仰へと改宗した。ウバイド皇国はモリス信仰教義の国だ。シュケムはエブラ信仰国だったが、オス・ローに暮らしていたユースフは様々な宗派を目にしていたこともあり、改宗に不服はなかった。

 宗教的な儀式というのは何百年も変わることなく、伝統が受け継がれる。

 改宗の儀式は、ウバイド宮廷本宮の礼拝堂で六人の『証人』立ち会いのもと執り行われた。モリスの教典を詠唱し、誓約をたてる。ユースフは生ぬるい葡萄酒を口にし、それ以降、死ぬまで酒を口にすることはなかった。

 エブラ信仰からの離脱と、モリスの禁酒の教えは、実はユースフにとって心の救済にもなった。



 所用でシュケムに戻ることになったユースフは、そのままオス・ローまで足を伸ばした。久しぶりに一人で自分の家を訪れた。

 初夏の時間、変わることなく麓の広場は、多くの人が行き交い活気に溢れている。

 ユースフは石畳の大通りを、巡礼に向かう人の波に乗って坂道を上っていった。

 ドーム城下は、軒と軒の間に布が張り廻らされ太陽の熱を遮る。日の高く上る時間でも、その影下に人々はたむろし、立ち話や、時に座り込んで話をしていた。その様子を見ると、不思議と懐かしい感じがして心が安らぐ。

 途中で、一人脇道に入り、自宅のある方へと巡礼者の流れを抜け出した。

 扉を開けて家に入っても、今はもう誰も居ない。

 ふと、懐かしい家の匂いと共に、「おかえりなさい!」と無邪気に微笑むサライの幼い顔がユースフの頭をよぎる。

 扉のすぐ横にある水瓶も干上がったままで、この家には長い間主がいないことを物語っていた。

 ここに居た奴隷たちは、ユースフがウバイド皇国に行く際に、十分な金品を与え全員解放してやったのだ。

 部屋は元奴隷のアブドがたまに訪れて、いつでも使える様に整えてくれていた。皇国へ行ってからというもの、常に誰かと行動を供にしていたので、久しぶりに煩わしさから解放された気分だった。

 数ヶ月しか経っていないのに、皇国の華美さに比べ、家の中全てがひどく粗末に見えた。水瓶は空だが、ベッドはすぐに使えるように掛布が整えられている。この狭いベッドでよく二人も寝れたものだ。

 まだ日も高かったが、ユースフは久しぶりに自分のベッドに身体を横たえた。低い天井を仰ぎながら、サライのことを思い出す。

 あの後、多忙のまま時が過ぎ、サライとは一度も会えていない。サライに何も告げないまま、このオス・ローの家を出る事になってしまったのだ。

 最後に見たサライの表情を思い出す。あの時、サライが何を思っていたのか考え出すと、サライの事が頭から離れなかった。

 寝返りをうつと、ユースフはふと頭の下に違和を感じた。何かと思い枕の下に手を入れると、そこから櫛が出てきた。サライの忘れ物だ。

 その櫛を見た瞬間、サライとの数少ない思い出が蘇る。


 会いたい……

 あの【壁】の向こう側から、サライを連れ去ってしまおうか……


 そんな風に思ったのは初めてだった。


 どうやらユースフは転寝をしてしまったようだ。随分長い時間寝ていたのか、気が付くともう日が傾き始めている。

 ちょうど巡礼者たちが宿に戻る時間帯なのだろうか、少し表の通りが騒がしい。大通りから少し逸れた家の中にまで外の喧騒が届く。

 ユースフが表へ出てみると、丘の方から騒ぎながら帰ってくる者と、騒ぎを聞きつけて丘を登っていく者とで大通りはごった返し、いつもと何か様子が違った。

 人々は口々に「悪魔が現れた」というような事を言って騒いでいた。

(悪魔……?)

 秋色の空の下、ユースフは数年ぶりに丘の上のドームを目指した。

 怯えるように丘を下って帰る者に逆行しながら、石畳の丘を登っていくと、徐々にドームの門【天国の扉】が見えてくる。

 【天国の扉】の前には、まるで弔いの儀式が行われる時のような人垣が出来ていた。

 だが、弔いの儀式は真夏の時間に行われるはずだ。そしてその美しい儀式を眺める観衆たちは声が出せず静まり返っているはず。ザワザワとさざめく声と異様な雰囲気が、不安を駆り立てるようだった。

 人垣をかきわけ、前に進みでたユースフの目に、信じられない光景が飛び込んできた。

 【天国の扉】の前に背の低い磔柱はりつけばしらが立てられ、【エブラの民】の女がはりつけになっている。身に着けた白い服の裾が紅く染まり、鮮やかな濃淡を成していた。

 それを見た瞬間、ユースフの心臓が早鐘を撞くように鳴った。

 女の首は力なく項垂うなだれ、長い髪が顔を遮っていたが、その髪も、腕も、身体も、足も、全てがユースフの記憶にあるものだった。

「サライ!!」

 ユースフは、人を押し退けて磔柱の真正面に駆け寄った。

 そして腰から剣を抜いて、サライの両手首と胴体を縛っている綱を切ろうとした。すると、周りにいた男たちが、ユースフにすがり付いてそれを止めた。

「やめろ! 罰当たりめ! これは【エブラの民】の所業だ!」

「その女は悪魔の手先だ!」

 口々に投げかけられたが、ユースフは男たちを振り払い、構わず綱を切りサライの身体を抱きとめた。

「呪われちまえ!」

 制止を聞かなかったユースフに汚い言葉を吐くと、男たちは怯えながら逃げるようにその場を去っていく。

 空が茜色に染まり秋気に包まれる中、まだ野次馬でユースフを遠くから眺めている者もいれば、丘を下って逃げていった者もいた。

 ユースフによって解放されたサライはまだ息があった。地にサライをそっと下ろす。

「サライ」

 ユースフが呼びかけると、サライは目を虚ろに開いた。

「ユースフ……、ごめんね……」

 サライの菫色の瞳が、ユースフを映す。

「……もう、会えない、って……思ったの……」

 サライの瞳から、涙が耳に向かって流れ落ちた。

「……お願い、助けて」

「サライ、喋るな」

「【エブラの民】を助けて……」

 最期の力を振り絞って、サライはユースフに何か伝えようとしていた。

「……、【エブラ……】……、ラースと……」

 サライの声はますます小さく、聞き取りにくくなっていった。



 その時。

 サライがその名を口にした時だった。


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