20-3
ユースフとアーディンの二人は階段を上り、先程立ち去ったサーリムの部屋に戻ってきた。
さっきまで椅子に腰掛けていたサーリムは寝台へと移動し、そこで起き上がって二人を待っていた。
そして、二人に対してまず自らの体たらくを詫び、呼び戻したユースフに話を始めた。
「ユースフ殿、先程はアーディン殿の兄御殿とは気付かず。失礼しました」
アーディンの人柄のお陰か、年若いサーリムは随分緊張がほぐれ、寛いでいる様子だった。だが、アーディンとは違い、公の場では殺伐とした表情を崩さないユースフに、まだ年若い皇帝は話し辛そうな様子を見せた。
「もう姉シャーミールとはお会いになられましたか? 先程、外から声が聞こえましたが」
「はい。六年ぶりにお会いしましたが、時を味方につけられ、随分美しくおなりでした」
姉を褒められ弟として悪い気はしなかったようだった。
そこにアーディンが口出しをしてきた。
「陛下、兄は軍人です。回りくどく言う必要はありませんよ」
そう言われると、サーリムは途端に幼い表情を見せ、申し訳なさそうにユースフに言った。
「……この事は、本来はアーディン殿にお願いしようかと思っていたのです。ですが、アーディン殿よりもユースフ殿の方が適任と判断しまして……」
アーディンはサーリムの言葉には口出しせず、横から黙ってユースフの様子を眺めていた。
「ユースフ殿、我がウバイド皇国の宰相になって頂けないでしょうか。その為に、まず姉を妻として迎え入れて欲しいのです」
「……私が? 宰相に?」
寝耳に水の話だった。ユースフがアーディンの方をちらりと見やる。すると、一瞬、アーディンと目が合った。
「私がこのような状態なので、宮廷内で内乱が起こる気がしてならないのです……。奴隷兵軍が無法の振る舞いをしていると聞きますが、今、軍をまとめられる者が居らず手を拱いている状態なのです」
すでに軍務長官の副長であり、父の後を継ぐ気のないユースフにはうってつけの話だった。サーリムの提案を後押しするようにアーディンが付け加えた。
「ウバイド皇国の軍を取り仕切れる者が居ないと、遠からず我が国にも危害が及ぶでしょう」
年若く病弱なサーリムの身にも危険が及び、ウバイド皇国最後の皇族であるシャーミールの地位が利用されてしまうというのだろう。君主が皇家以外のものに替われば、おそらくウバイド皇国とシュケムの関係も崩れてしまうに違いなかった。
「そして、もしシュケムが倒れれば、左右の大陸の均衡が崩れ、聖地にも危険が及ぶことになる」
「なるほど……」
アーディンの表向きな言葉ももちろんだが、その裏に別の思惑があることをユースフは感じ取った。そして、若き皇帝のサーリムは自分の命と姉の身の安全を願っているだけだった。
「どうか、私と姉を助けてください、ユースフ殿」
言いながらサーリムは頭を低くした。傍に居た老文官も、皇帝のその行為に何も言わなかった。
「不肖ながら、私で宜しければ、謹んでお受けいたします」
ユースフは一分も迷うことなく強い口調で答えた。
* * * * *
砂漠の中を、四頭の馬が粉砂を巻き上げながら東へと向かっていた。頭上の空は茜色から勝色へと変化しつつあり、東の空には星がちらつき始めていた。一つだけ赤く煌く星が、進行方向を指し示している。
ウバイド皇国からの帰途、馬上で兄弟の会話が交わされる。
アーディンはターバンの砂避けを指で顎まで引き下げると、左に居るユースフに話しかけた。
「兄上。おそらくお気付きでしょうが、サーリム帝は現在ほとんど実権を持っていません。宰相となれば、実質兄上があの国を動かすことになります」
「ああ……。皇帝はまだ若いのに、身体が芳しくないようだな」
ユースフの声は砂避けを介して少し聞き取りにくい。
「あの様子では何度も命を狙われてきたようですね。日々の食事もまともに出来ていないようです」
「それにしても、あの似非宦官、厭わしいな……」
ユースフはわずかの滞在の間に、いずれ自分の敵となる人物の目星をつけていた。
「さすが、勘が良いですね。彼が黒幕の一人です。黒人奴隷軍を操っているのもあの男です。似非宦官というのも多分当りです。それに……」
アーディンは言葉を止め、隣のユースフを見やった。数日前自分がつけた顔の傷の所為か、右目の表情が少し辛そうに見える。
「……ですが、兄上があの話を、あれ程素直にお受けになるとは思いませんでした。いつも面倒くさいことは、私に全部押し付けていたのに」
アーディンは、伯父と同じように、権威や地位に縛られることを嫌うユースフが、まさかサーリムの申し出をこうも簡単に受諾するとは思っておらず、今更驚きを顔に表した。
ユースフが一度は断るであろうと予測していたので、その策も先に打っていたくらいだ。
「お前は、最初から、このために俺を同行させたんじゃないのか?」
ユースフに見抜かれ、アーディンは淡々と答えた。
「……そうです。皇族の若年化と代官の老齢化があの国の問題を引き起こしているのです。中堅の宦官の暴挙を抑えられないでいる。その点、じき三十路になる兄上なら若すぎず、老いすぎず、宰相として身分も実力も申し分ない。残念ですが、私ではまだ年端が足りないのです」
ユースフを護衛として同行させるという時点で、ユースフはアーディンに何か目的がある事に気が付いていたに違いない。
アーディンの方は、ユースフが自分の頼みを断れるはずがないということも計算の上だった。
ユースフは前を向いたまま、アーディンに言う。
「シャーミール姫はお前の事を良く見知っていたみたいじゃないか」
皇女の淡い恋心を、ユースフが見抜くだろうこともアーディンは予測していた。
「彼女が巡礼に来られる度にお会いしてました。ただそれだけですよ」
アーディンはシャーミールとの関係にそれ以上触れず、ユースフもそれ以上何も聞いてこなかった。
女の為に取った行動が、結果としてその女と結ばれなくなる事など、主情を捨てて生きてきた二人には大したことではない。
「まったく。兄さんは本当に勘が良いですね。やはり、先に話しておかなくて正解でした。昔から、私の事となると急に甘くなるのだから、あやうく断られるところだった」
「いや、そんな事はない。今回の件、お膳立てしてくれたお前に感謝してる。……俺は、お前のためじゃなく、結局何に対しても自分のためにしか行動できないんだ。お前にはいつも申し訳ないと思ってる」
自分の思惑通り事を運んだはずのアーディンは、ユースフの言葉に首を傾いで兄を見た。
「俺がウバイドの宰相になれば、シュケムの王位継承権は剥奪されるはずだ。それなら伯父上も納得するだろうし、親父が死ねば、お前がシュケムの王になる」
「……やはり、そんなことを考えていたんですね」
アーディンは呆れたようにため息を漏らした。今までアーディンがどんなに尽力しても、父親と兄の間を取り持つことは出来なかった。
「これでようやく、親父の呪縛から逃れられる」
ユースフはそう言ったが、この時アーディンは、ユースフがサライの為に行動を起こし始めたのではないかと感づいた。
「兄さん、もう一人忘れていませんか。きっと義姉さんの呪縛からは逃れられませんよ」
アーディンが厭味っぽく言うと、ユースフもようやく肩の緊張をほぐして溜息をついた。
「エイダはお前が寝取ってやれ。シュケム王妃には誂え向きの女だぞ」
「……冗談はほどほどにしてください。あの大国、ウバイド皇国の宰相の妻なら、義姉さんもきっと満足するでしょう」
二人で冗談を言い合いながらも、ユースフが聖地オス・ローを手中に納めようとしていることを、この時アーディンは予感した。目的のために、兄はいずれ父にも手をかけるのではないかとうすうす感じ始めていたが、アーディンはその言葉を飲み込んだ。
オス・ローを落とすのは簡単だ。
だが、そうなればフロリスの大国ヴァロニアやシーランドが侵攻して来ることは間違いない。シュケムの軍事力だけではフロリスの軍隊に太刀打ちできないことをユースフは理解していた。それを迎え撃つだけの兵力が必要だった。
一行の馬が通った後には砂埃が舞い上がり、その姿も話し声もかき消していった。




