20.それぞれの政略
シュケムとオス・ローの在る中央の地と、西の大陸モリスの間にある砂漠の砂は粉のように細かく、そこを通るものの息を詰まらせる。
砂漠を越える旅人達は、日差しを遮るターバンを頭に巻き、鼻から下は砂避けの布で顔を覆って馬に跨る。馬の口にも防砂のマスクが付けられる。
オス・ローを出発したユースフとアーディンの一行は、シュケムを経由し、三日かけてウバイド皇国の皇都サンドラに到着した。
その道すがら、ユースフはウバイド皇国の実情をアーディンから聞かされた。
モリス信仰のウバイド皇国とエブラ信仰のシュケムとは、現在とりあえず親交状態を保っている。ウバイド皇国の宮廷内部では、ここ数年宰相の座を巡って混乱が続いており、ウバイド皇国の若き皇帝サーリムがシュケムに助けを求めてきたようだ。
「ウバイド皇国の皇帝は現在十五歳のサーリムです。その姉のシャーミール姫は皇国の四番目の姫君なのですが。皇帝以外に帝位を継承できる者は、皇国にはもう皇帝の子か、彼女が産む子しか居ないのです」
だが、そのシャーミールは結婚もしていないのだという。子などいるはずもなかった。
一日で最も太陽の高い時間を過ぎた頃、ユースフとアーディンの一行は、ウバイド皇国の皇宮に着いた。
二人は年老いた文官に案内され、本宮へと入ると、まず大きな丸い天井のホールに圧巻された。長い歴史のあるウバイド皇国の宮廷内は、いたるところに幾何学模様を組み合わせた装飾が施され、床には色の違う大理石が紋様を描きながら敷き詰められていた。
土煉瓦建ての質素なシュケムの宮殿と比べると、全てが壮麗で、その美しさに二人は思わず溜息を漏らした。
その日、体調を崩し床に臥すウバイド皇国の若き皇帝サーリムとアーディンの会談は、本宮の上階にあるサーリムの私室で行われた。
ウバイド皇国の皇帝サーリムは、ユースフ達と変わらぬ小麦色の肌に黒髪の少年であった。謀略や事故で相次いで親族を亡くし、昨年に十四歳で帝位に就いた。年老いた代官達に助けられ、どうにかやっているといった感じだった。
ユースフは、サーリムに御目通りした後退室し、その場に同席したのは、先程の年老いた文官一人だけだった。
サーリムは、部屋を出て行ったユースフと、目の前にいるシュケムの要人のアーディンを見比べた。
「法官殿、先程の方は……?」
「我が国の軍務長官の副長で、私の兄です」
「あぁ、やはりそうでしたか。お二人は随分似ておられると思った!」
「同胞の兄ですから」
そう言って、アーディンが穏やかに微笑むと、サーリムの緊張も少し和らいだようだった。
元気の無かったサーリムの顔にも白い歯がこぼれた。
「法官殿は、私の同胞の姉のシャーミールとは面識があると、姉から聞きました」
「ええ、年に二回、聖地巡礼に来られる時、シャーミール殿下はいつもシュケムに立ち寄ってくれています。ですが、ここ二年程はお会いしておりませんが……? どうかなされましたか?」
ここ二三年の間に、皇家の者が次々と亡くなったのは知っていたが、若いサーリムが自分から切り出しやすいようにと話を投げてやった。
「……実は、今回折り入ってお願いしたいのは、その、姉の身上のことなのです」
年老いた文官だけが見守る中、二人の話は進んでいった。
ユースフはサーリムの部屋の前の廊下で仁王立ちになり、時間が過ぎるのを待っていた。
遠くから廊下を走ってくる足音と、服の裾が床を擦る音が聞こえてくる。音の方に視線を向けると、長い黒髪に小麦色の肌の若い女が、ユースフの姿を見つけ小走りにやってきた。
女の頭に飾られている装飾の宝石が、煌きながら揺れる。黒い髪がその装飾の美しさを際立たせ、またその装飾が黒い髪の美しさも際立たせていた。
女はユースフに後二十パースという所まで近づいてくると、人違いだった事に気が付き、その歩みが止まった。そしてその後を、体格の良い黒人の宦官が追ってきた。
「姫、行ってはならん! 戻りなさい!」
黒人の宦官が、女の腕を捕まえ引き戻そうとしていた。ユースフは、黙って視線だけを動かしその様子を見ていた。
「離しなさい、離してっ! 客人の前よ!」
女が声を荒げると、黒人の宦官はユースフの視線に気が付き、女の腕を離した。
同時に女がユースフに駆け寄ってきた。
「お久しぶりでございます、ユースフ様!」
猫のように大きな黒い瞳が、ユースフを見上げた。ユースフはその女に全く見覚えがなかったが、おそらくアーディンから聞かされていた四番目の姫で間違いなさそうだ。
「ご無沙汰しておりました、シャーミール殿下。息災そうでなによりです」
そう言って少し笑みを見せ、女に話を合わせた。黒人の宦官は悠然と歩み寄ってくると、ユースフを見て言った。
「『シュケムの英雄』のご子息が来られるとは聞いているが、御主は軍兵であろう。本宮内まで立ち入ろうとは関心せぬな」
「なんてことを言うの! ユースフ様はアーディン様の兄御様よ!」
おそらくユースフと変わらぬ年齢と思われる宦官は、ユースフの服装を上から下まで見定め、顔にある新しい傷痕を見て眉根を寄せた。
「兄……? 見たところ、ただの軍人ではないか。なんとも血の気が多そうだ」
「口を謹しみなさい! ムータミン! ユースフ様、どうかお許し下さい」
シャーミールは強い口調で黒人宦官を諌めると、ユースフを見上げ許しを哀願した。
「構いません」
ユースフはシャーミールにそう言うと、宦官の方を見た。
「確かに私は軍人だ。貴殿の言うとおりにさせて貰う。だが、我が主君に何かあった場合は――」
そう言って、鋭い眼光で自分より背の高い宦官を睨みつけた。
「ほぉ、弟君を主君だと申すのか。面白い。欲の無い御方だな」
宦官は笑い出した。ユースフの身分を分かっていて、わざと揶揄したようだった。ユースフはその言葉がまるで耳に入っていないかのように、宦官の横を通りその場を立ち去った。
ユースフは本宮から外に出ると、入り口近くの回廊に待機していた二人の部下と合流した。