19-2
先に家に戻っていたアーディンは昨夜の出来事を思い出し葛藤していた。
リビングのテーブルの上に置かれたランプを睨みつけ考えを巡らせた。聞きたいことがあるのに、ユースフがなかなか帰宅しないことに、余計にいらだちが募ってくる。
(兄さんとサライ……)
もしサライが【エブラの民】なのだとしたら、兄は神を冒涜しているとしか思えない。
アーディンは、ユースフほど信仰心が厚いわけでもなかったが、【エブラの民】に手を出すなど神の領域を侵犯しているとしか考えられなかった。今まで傾倒してきた兄だからこそ、それだけは許せない。
一人でテーブルに向かい、険しい形相のアーディンに、ユースフの奴隷たちも声をかけることも出来なかった。
深夜になりようやくユースフは帰宅した。
ユースフが家の扉を開けると、アーディンがリビングで灯を灯したまま、一人ユースフの帰りを待っていた。オイルランプの灯りがリビングでテーブルに向かって座る弟の姿をぼんやりと照らしている。
「まだ起きていたのか」
そう言いながら、ユースフは馬具を入り口の床に置いた。
「兄さん、今日巡礼の時、【天国の扉】が開き、私も【エブラの民】に会うことが出来ました」
「お前は運がいいな」
ユースフは外套を壁の鉤にかけながら、振り向かないで返事をした。そしてそれ以上何も会話が続かなかった。
「……兄さん、もしかして、サライは……」
アーディンに単刀直入に聞かれ、ユースフは答えた。
「……そうだ、【エブラの民】だ」
その答えを聞いてアーディンは怒りを露にした。アーディンは勢いよく立ち上がり、その勢いで椅子は後ろに倒れる。
「【エブラの民】は不可侵な存在! 兄さんは神を冒涜してる!」
声を大にし、
「聖裁を!」
と言うやいなや、剣を抜いてユースフの喉元に切りかかった。
部屋の中を橙色の閃光と風が走り、壁と床に鮮血が飛び散る。
アーディンの剣は、ユースフの右目の下を横にかすめ、ユースフの顔と衣服も一瞬で真紅に染めた。
「なぜ避けないのですか……?」
アーディンが自ら剣を逸らさなければ、ユースフの首は飛んでいただろう。ユースフを睨むアーディンの顔にやり切れなさが浮かんでいる。
ユースフは弟の問いにすぐに答えられなかった。
「……俺は、多分、裁きを受けたいんだ……」
どうにか答えたユースフの言葉に、アーディンは身をふるわせた。
「兄さん、ひどいな……。これで、もう私も同罪だ」
ユースフを殺すことを躊躇い、聖裁を下せなかったアーディンもまた神に背いた事になる。
「……すまない」
アーディンを自分の罪に巻き込んでしまったことを、ユースフは後悔した。
やはりどこかで救いを求めていたのだ。でなければ、いくら酒が入っていたとはいえ、アーディンにサライを会わせたりはしなかった。弟なら、自分に裁きを下せると思っていたのだ。
「お前が許されるのなら、俺を殺してくれ」
ユースフは目を伏せて、床に胡坐をくむと両手首を合わせて床に着けた。
「兄さん……」
アーディンは、床に座り込んだ兄を上から見下ろした。
「兄さんが父上によって、君主の従兄妹である義姉上と、意に沿わぬ結婚を強いられたことも知っています。代官職を放棄した兄さんでも、君主の為に、主情を無視しそれを拒まなかった。『シュケムの英雄』の子として生まれた以上、私も兄さんも自我尊重の心は捨て置いてきたはず。それなのに……、何故ですか……?」
アーディンの兄に対する怒りと落胆と疑問が交じり合った声に、ユースフは何も答えることが出来なかった。弟にこんなにも憧憬を抱かせるほど、自分は一体何をしたというのだろうか。
「彼女を、……サライのことを本気で愛しているのですか?」
ユースフは下を向いて黙ったまま、微かに頭を動かし頷いた。だが、半分は嘘だ。本気でサライを愛せていたかどうか自信がない。
そんな兄の挙動を見てアーディンは言った。
「もしかして……、彼女の方が……?」
信仰心の厚いユースフが、【エブラの民】を拒絶することなど出来るはずがない。
サライが望まなければ、こんなことにはならなかった。【エブラの民】に対してユースフは禁忌を犯すこともなかっただろう。
「俺に、【エブラの民】を……サライを愛する資格はあるのか……?」
ユースフは独り言のように呟いた。
自分でも、言っていることとやっていることが矛盾しているのは判っている。だが、これこそがユースフがずっと抱えてきた罪の意識だった。
アーディンは、剣についたユースフの血をぬぐうと鞘に収めた。カチンと金属の鍔音が部屋に響いた。
「わかりました、私も同じ罪を背負いましょう。私も兄さんも神に悖る行いをしてしまったのですから」
「俺の所為だ、お前はまだ戻れる」
「兄さんとなら、共犯者となりましょう」
アーディンは、兄の為に神をも捨てる覚悟なのだろう。その澱み無い漆黒の瞳は真っ直ぐにユースフを見つめていた。
「一緒に地獄行きだぞ……」
「覚悟の上です。でも、もしこの罪が償えるなら一生かけても償いましよう。一生かけても償えないなら、何度でも生まれ変わって償いましょう、兄さん」
アーディンの言葉はユースフの罪悪を自由へと導いてくれるようだった。