19.ユースフの弟(二)
冬の終わり。
夜明け前にサライは目を覚ました。まだオイルランプの灯りが微かに残っている。いつもは必ずサライより先に起きているユースフが、まだ隣で眠っている。
サライは、ユースフの顔にかかっている髪を、指先でそっとすくいあげ耳のほうへと梳いた。十二も年上のはずなのに、ずいぶん子どもっぽい寝顔に、サライは母性をくすぐられるようだった。
額にそっとキスをしてみたが、それでもユースフは目を覚まさない。
昨夜は別人のようだったが、眠っているユースフもまたいつもとは別人のようだ。
薄明かりの部屋の中で、サライは初めて見るユースフの寝顔を、夜明けまで見つめていた。
早春の時間。
ユースフが目を覚ました時、窓の外は明るく、部屋の中にも淡い光が差し込んでいた。
隣にサライが居ないことに気付き飛び起きると、サライが部屋を出ようとしているところだった。
サライはユースフを起こさないようにしていたが、裸のままベッドから降りてきたユースフに後ろから抱きしめられ捕まった。
「サライ!」
ユースフの腕の中でサライはふり返ってユースフを見上げた。ユースフは一晩ですっかり酔いが醒めたようで、昨夜の事を思い出し顔色を失っていた。
「サライ……、昨夜の事を怒っているなら謝る……」
そう言って、いつものように優しく抱きしめてくる。
「怒ってないよ……」
昨夜のユースフは、今までサライが知っているユースフとは別人だった。あれほど激しく愛されたのは初めてだった。乱暴ではあったが、サライには、二人の間に立ちはだかる【何か】がなくなったように感じられた。
「じゃあ、……何故、そんな顔をするんだ」
ユースフがサライの頬に触れてくるが、サライは自分が一体どんな顔をしているのかわからない。
ユースフの妻や、オス・ローの他の女は、いつもユースフに昨晩のように抱かれているのだろうか。そう思うと、サライの心に、初めて「嫉妬」という感情が生まれた。胸の内がざわついて、気分が悪くて吐きそうなのだ。
サライとユースフの二人の間には、どうしても超えられない【壁】がある。それは自分が【エブラの民】であることだ。サライはもどかしくてならなかった。
「どうしてわたし……」
【エブラの民】に生まれてきたのか……。
サライは叶わない我侭を言うのはやめ、違う言葉に換えた。
「キスして……」
ユースフを見上げるサライの唇に、ユースフの唇がそっと触れた。いつもの優しいキスだ。しかし、そのことが返ってサライを傷つけた。
「昨夜みたいにキスして欲しい……」
サライがダダをこねるように言う。すると、ユースフはばつが悪そうな顔つきで、サライをきつく抱き寄せた。互いの顔を寄せ合い、サライの腕がユースフを包み込むと再び唇を重ねた。
* * * * *
アーディンが来て五日目のこと。
その日ユースフは、軍の仕事で国境近くの居留地まで行く予定だった。
奴隷たちが慌しく朝食の支度をする中、ユースフとアーディンの二人は身支度を整え、階下のリビングへと下りてきた。
アーディンは朝から薬師の所へ行き、その後ドームへ五回目の巡礼に行くらしい。
「今日、兄さんも一緒にドームへ巡礼に行きませんか? ウバイド皇国までの安全祈願も兼ねて」
アーディンから誘われたが、サライとのことがあってから、ドームへは一年以上足を向けていない。一昨夜のサライとのことを考えても、とても行ける気分ではなかった。
折角の弟の誘いだったが、丁重に断るとユースフは自分の職務へと向かった。
初夏の時間。
日が一番高く上る夏の時間が巡礼のピークとなる。アーディンは薬師の元で用事を済ませ、他の巡礼者に混じって、ドームまでの石畳の坂道を登っていった。
城下では日陰が作られそれほど気にならなかった気温も、城下街の日陰を抜けると、眩みそうなほど急激に熱さを増した。
目の前にはドームの城壁が見えている。同じように坂を上る人々は、皆ドームの門【天国の扉】を目指していた。
アーディンが【天国の扉】の近くまで辿り着くと、門前には既に沢山の巡礼者が来ていて、様々な形で神に祈りを捧げていた。
彼らの後ろにつき、アーディンも祈りを捧げようとした時。
突然、ずずずと石が擦れ合う音が響き、ドームの門が開き始めた。
石の車輪が砂と地面を擦る重い音が当たりに響いた。
その瞬間、まるで時が止まったかのように、辺りは静まり返った。
目を伏せていた者は目を開き、跪いていた者はゆっくりと立ち上がる。
【天国の扉】は、人が通れるくらいだけ開くと、ぴたりと動きを止めた。
隙間からドームの中の様子が垣間見えて、巡礼者達は微かにどよめいた。中から白い服を身に纏った【エブラの民】が十数人出てきたのだ。
門前に居た巡礼者達は皆押し黙ったまま、誰の指示もなく、自然と通りを空けるように後ろに下がる。先に祈っていた者達が皆立ち上がり、アーディンの前に人垣となって壁を作った。
ユースフから嫌というほど【エブラの民】の話を聞かされていたアーディンは、【エブラの民】を是非自分の目で見てみたいと常々思っていた。
首を伸ばし【エブラの民】を見ている人垣をかき分け、巡礼者で出来た壁の一番前までなんとかたどり着くことが出来た。
【天国の扉】をくぐって出てきた【エブラの民】は、神秘的な不思議なオーラを放っていた。その場に居た巡礼者全員が、滅多にない機会に息をのんで【エブラの民】を崇め、じっとその不思議な儀式を眺めた。
一番先頭は【エブラの民】の長らしい男だった。右腕には細かい装飾の施された腕輪を付けている。長にしては随分若かったが、後に続く【エブラの民】は、無言で彼の後に従う。彼らは黒い肌と白い髪をあらわにして、独特の白い衣装を身に纏っていた。白い衣装は太陽の光を受けて眩く輝いていた。
【エブラの民】は誰も表情を変えず順に地面に灰を撒いた。彼らの手からさらさらと零れ落ちる灰は、時々風に晒されるように辺りに舞い散る。天から注ぐ太陽の光がその灰に反射して、地面までもがきらきらと光っているような錯覚を覚えた。
沈黙という音楽が辺りに流れる。
それは不思議な光景だった。炎天の下にいることを忘れてしまうほどだった。光る地の上に立つ【エブラの民】から誰も視線を逸らす事が出来ないでいた。
誰一人、声を出すことも出来ない。
アーディンも、【エブラの民】のその美しい神秘的な儀式から、目が離せなくなっていた。
まるで感情など持たないかのように、無表情な様子で不思議な儀式を続ける【エブラの民】だったが、アーディンはふとその中の一人に違和感を覚えた。
その【エブラの民】の女性は、とっさに手で拭い取ったが、目に涙が浮かんでいた。それをアーディンは見逃さなかった。
(あれは……)
その【エブラの民】が、一昨日の晩兄を訪ねてきたサライに似ている。あの時は布を頭からかぶっていて彼女の髪の色までは分からなかったが、思わず見惚れるほどの美しい女だ。その顔を忘れる訳がない。
「……サライ?」
アーディンは夢を見ていたような気分から、一瞬で現実に引き戻された。
サライに似ている女性は気づかなかったようだが、【エブラの民】の一人がアーディンの声に気がついたようで、微かにアーディンの方を見たような気がした。
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