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天国の扉  作者: 藤井 紫
第二章 落陽の聖国
54/193

18-3

「でも……」

 ユースフにしか聞こえない小さな声でつぶやく。

 ユースフはためらうサライにオイルランプを一つ手渡すと、奥の自分の部屋へと困惑する背中を押す。中二階への階段もリビングの横にあり、サライは戸惑いながら階段に足をかけた。

「明日私は、朝から薬師の所に行かないといけないので、今晩はもうお開きにしましょう」

 二人の事情を察したアーディンが、気を遣ってくれた。そして、兄に向かって

「それにしても、兄さんが滅多にシュケムに帰ってこない理由がわかりました。オス・ローにあんな可愛い人が居るんじゃ仕方ないですね。彼女も、兄さんにぞっこんみたいだ」

 と笑いながら意地悪そうに言った。

「帰ったらエイダ義姉さんに伝えておこう。そうしたら、ますます帰れなくなっちゃうかな」

「お前には会ってないだけで、時々帰ってるよ」

 ユースフの言い訳を聞いても、アーディンは悪戯っぽく笑っていた。

「エイダはプライドが高いんだ、勘弁してくれ」

 アーディンが、本当にそんなことを言うはずがないのをわかっていながら、ユースフは肩をすくめてみせた。



 ユースフの部屋の中で、サライは一人突っ立っていた。部屋に扉もないような狭い住居の中で、ユースフとアーディンの話し声は全て筒抜けだった。

(ユースフの弟……)

 ユースフに弟がいることを、サライは知らなかった。

 そして二人の話から、サライはユースフにはシュケムに妻がいることを察した。ユースフはエブラ信仰者だ。妻が一人や二人居てもおかしくはない。

 しかし、ユースフに妻が居ることではなく、それを今まで知らなかったことに胸が痛んだ。

 サライは今更、ユースフのことを何も知らなかったことに気がつかされた。他人と楽しそうに話したり、酒に酔っているユースフの姿を見るのも今日が初めてだ。

 逆に、ユースフからサライの私生活やドームの中のことを聞かれたこともない。その理由は、ユースフが神の領域に踏み込んではいけないと、歯止めをかけているのだとわかってはいた。

 頭ではわかっていたが、やるせなさに気持ちが乱れる。

 どんなに体の距離が縮まっても、ユースフの心の中には、二人の間を遮る何かがあるのだ。そんなことを考え出すと、サライは孤独さに胸が締め付けられるように苦しくなった。

(寂しいよ……)

 目頭が熱くなったが、こぼれそうな涙を必死でこらえた。素直に涙を流せばいいのに、サライは何故か必死でこらえていた。以前ユースフが言っていたように、サライは自分も「ややこしい大人」になっていたことに気がつくと、余計に救われない気持ちになってしまった。

 宴会はお開きになり、二人の男の足音が階段を登ってきた。一人の足音は、そのまま奥の部屋へと消えていく。

 入り口の布を捲って、ユースフが心もとない足取りで自分の部屋に入ってきた。

 ユースフは、部屋の中で一人立ち尽くしていたサライを後から抱きしめる。そして、もたれかかるようにサライの肩に頭をのせた。

 ユースフが、こんな風にサライに甘えてくることは今まで一度もない。

「会いたかった」

 いつものユースフなら、サライに対してそんな仮初めなことも決して言わない。酒の勢いで出た口説き文句だとわかっているのに、ユースフの甘い言葉にさっきまでの悲しみがごまかされてしまう。

 今日は完全に酔いがまわっているようだ。

「……ユー」

 サライがふり返ると、名前も言い終わらないうちに、きつく抱き寄せられ、唇を塞がれた。

 それは深く――、長いキス。

 台の上に置いたランプが、絡まる二人の影を壁に映し出す。甘美で濃密なキスに、息が詰まりそうだ。顔が紅潮する。頭の芯をぎゅっとつかまれているような……。こんなキスは初めてだった。

 流れるような手つきで、頭に被っていた布をするりと外され、サライの白く長い髪がさらさらと背中に滑り落ちる。

 そのまま床に押し倒されると、衣服を剥ぎ取るように脱がされ、乱暴に身体をまさぐられる。床の上に広がった髪をふまれ、サライの目に涙がうかんでも、ユースフは気がつかなかった。

 抱き寄せる力はいつもよりずっと強い。圧し掛かる重みや痛みに、サライの口から苦痛の声がもれる。

 消し忘れたランプの灯りが、いつもは見えない二人の表情を照らした。ほの灯りにユースフの顔がうかぶ。憂いた黒い瞳にはサライの姿が映っている。気恥ずかしさに顔が熱ったが、やがてそんな事も考えていられなくなった。

 いつもとは違い執拗に愛撫される。何度も逃れようとしたが、手首を捕えられて押さえつけられる。サライの身体は悩ましいほど反応してしまい、ユースフはさらに激しくなった。

 隣の部屋にユースフの弟がいるというのに、我慢しきれずに声がもれる。

 サライが快楽に喘ぎ、息を弾ませながら嬌声をもらすと、それが更にユースフの欲情に火をつけるようだった。

 今夜のユースフはまるで別人のようだ。初めて見る一面に少し恐怖を感じたが、サライは抵抗せずユースフを受け入れた。


 ユースフはその晩、何度も情熱的にサライを求めた。いつもなら、サライの身体に決して痕跡を残さないユースフだったが、この夜はそんな配慮はまるでなかった。




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