18-3
「でも……」
ユースフにしか聞こえない小さな声でつぶやく。
ユースフはためらうサライにオイルランプを一つ手渡すと、奥の自分の部屋へと困惑する背中を押す。中二階への階段もリビングの横にあり、サライは戸惑いながら階段に足をかけた。
「明日私は、朝から薬師の所に行かないといけないので、今晩はもうお開きにしましょう」
二人の事情を察したアーディンが、気を遣ってくれた。そして、兄に向かって
「それにしても、兄さんが滅多にシュケムに帰ってこない理由がわかりました。オス・ローにあんな可愛い人が居るんじゃ仕方ないですね。彼女も、兄さんにぞっこんみたいだ」
と笑いながら意地悪そうに言った。
「帰ったらエイダ義姉さんに伝えておこう。そうしたら、ますます帰れなくなっちゃうかな」
「お前には会ってないだけで、時々帰ってるよ」
ユースフの言い訳を聞いても、アーディンは悪戯っぽく笑っていた。
「エイダはプライドが高いんだ、勘弁してくれ」
アーディンが、本当にそんなことを言うはずがないのをわかっていながら、ユースフは肩をすくめてみせた。
ユースフの部屋の中で、サライは一人突っ立っていた。部屋に扉もないような狭い住居の中で、ユースフとアーディンの話し声は全て筒抜けだった。
(ユースフの弟……)
ユースフに弟がいることを、サライは知らなかった。
そして二人の話から、サライはユースフにはシュケムに妻がいることを察した。ユースフはエブラ信仰者だ。妻が一人や二人居てもおかしくはない。
しかし、ユースフに妻が居ることではなく、それを今まで知らなかったことに胸が痛んだ。
サライは今更、ユースフのことを何も知らなかったことに気がつかされた。他人と楽しそうに話したり、酒に酔っているユースフの姿を見るのも今日が初めてだ。
逆に、ユースフからサライの私生活やドームの中のことを聞かれたこともない。その理由は、ユースフが神の領域に踏み込んではいけないと、歯止めをかけているのだとわかってはいた。
頭ではわかっていたが、やるせなさに気持ちが乱れる。
どんなに体の距離が縮まっても、ユースフの心の中には、二人の間を遮る何かがあるのだ。そんなことを考え出すと、サライは孤独さに胸が締め付けられるように苦しくなった。
(寂しいよ……)
目頭が熱くなったが、こぼれそうな涙を必死でこらえた。素直に涙を流せばいいのに、サライは何故か必死でこらえていた。以前ユースフが言っていたように、サライは自分も「ややこしい大人」になっていたことに気がつくと、余計に救われない気持ちになってしまった。
宴会はお開きになり、二人の男の足音が階段を登ってきた。一人の足音は、そのまま奥の部屋へと消えていく。
入り口の布を捲って、ユースフが心もとない足取りで自分の部屋に入ってきた。
ユースフは、部屋の中で一人立ち尽くしていたサライを後から抱きしめる。そして、もたれかかるようにサライの肩に頭をのせた。
ユースフが、こんな風にサライに甘えてくることは今まで一度もない。
「会いたかった」
いつものユースフなら、サライに対してそんな仮初めなことも決して言わない。酒の勢いで出た口説き文句だとわかっているのに、ユースフの甘い言葉にさっきまでの悲しみがごまかされてしまう。
今日は完全に酔いがまわっているようだ。
「……ユー」
サライがふり返ると、名前も言い終わらないうちに、きつく抱き寄せられ、唇を塞がれた。
それは深く――、長いキス。
台の上に置いたランプが、絡まる二人の影を壁に映し出す。甘美で濃密なキスに、息が詰まりそうだ。顔が紅潮する。頭の芯をぎゅっとつかまれているような……。こんなキスは初めてだった。
流れるような手つきで、頭に被っていた布をするりと外され、サライの白く長い髪がさらさらと背中に滑り落ちる。
そのまま床に押し倒されると、衣服を剥ぎ取るように脱がされ、乱暴に身体をまさぐられる。床の上に広がった髪をふまれ、サライの目に涙がうかんでも、ユースフは気がつかなかった。
抱き寄せる力はいつもよりずっと強い。圧し掛かる重みや痛みに、サライの口から苦痛の声がもれる。
消し忘れたランプの灯りが、いつもは見えない二人の表情を照らした。ほの灯りにユースフの顔がうかぶ。憂いた黒い瞳にはサライの姿が映っている。気恥ずかしさに顔が熱ったが、やがてそんな事も考えていられなくなった。
いつもとは違い執拗に愛撫される。何度も逃れようとしたが、手首を捕えられて押さえつけられる。サライの身体は悩ましいほど反応してしまい、ユースフはさらに激しくなった。
隣の部屋にユースフの弟がいるというのに、我慢しきれずに声がもれる。
サライが快楽に喘ぎ、息を弾ませながら嬌声をもらすと、それが更にユースフの欲情に火をつけるようだった。
今夜のユースフはまるで別人のようだ。初めて見る一面に少し恐怖を感じたが、サライは抵抗せずユースフを受け入れた。
ユースフはその晩、何度も情熱的にサライを求めた。いつもなら、サライの身体に決して痕跡を残さないユースフだったが、この夜はそんな配慮はまるでなかった。