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天国の扉  作者: 藤井 紫
第二章 落陽の聖国
51/193

17-3

 それから約一年。

 ある夜、ユースフのもとに思いがけない来客があった。来客なのだが、先に家に入り込んでユースフの帰りを待っていたという方が正しい。

「ユースフ! おかえりなさい!」

 と、扉を開けると満面の笑みが眼中に飛び込んできた。

 サライだった。

 髪は隠していて見えないが、顔立ちは幼さが抜け更に美しく成長している。身体つきも小柄ながら、服の上から見てもわかる程度に大人っぽくなっていた。だが、笑顔は以前と全く変わっていない。

「……サライ?」

 わかっているのに確認してしまう。

 ユースフは眩暈を感じた。まさか本当にやってくるとは思っていなかった。

 ユースフの言ったとおり、サライは十五歳になって出直してきたのだろう。

 もうどうやってドームを出てきたのか、あえて聞かなかった。


 ユースフがランプを持たずに部屋に行くと、後からサライがついてくる。

 暗い部屋で着替えをするユースフの背中に向かって、入り口で仕切り布をぎゅっと握り締めてサライはつぶやいた。

「わたし、ユースフが好き……」

 サライの口から一番聞きたくなかった言葉だ。

 現実にその言葉を聞いて、ユースフは心臓が止まる思いだった。

 あの城壁の中で、ユースフに対して、ずっと思いを募らせていたのだろう。

 サライがこんなにも自分のことを慕ってくれていたことが驚きであった。いや、本当は気がついていたのだが目を背け続けていた。

 今までユースフは、サライを一人の女として見た事がない。ユースフにとって、サライは【エブラの民】で、信仰の対象なのだ。

 だが、ユースフに対するサライの想いは違ったようだった。

 ユースフが動揺を隠せず振り返ると、サライが抱きついてきた。胸中に顔をうずめ、決して離れようとしない。

 サライが何を望んでいるのかわかり、ユースフは狼狽した。

 今までサライを天使だと思い、ユースフなりに大切にしてきたつもりだ。ここで一緒に暮らした間も、サライが汚い空気を吸わないように努力したつもりだった。自分自身は、聖人の名とは裏腹に、血と悪意に塗れた汚い人間だ。

「サライ、やめてくれ。俺は聖人じゃないんだ……」

 そこらへんにいる女とサライは違うのだ。神聖なサライを、【エブラの民】を汚したくはない。

「わたしだって聖人なんかじゃないよ……」

 サライの声が震えている。ユースフの胸元に顔をうずめ、ぴったりと抱きついてきた。

「わたし、ずっと前から見てた。ユースフが海を眺めてたのをずっと見てたの」

 その言葉に、ユースフは再び言葉を失った。

 まさか、サライが城壁から過って落ちたのは、自分の姿を見ていた所為だったのだろうか? それとももっと以前から、ユースフの岸壁での挙動を見られていたのだろうか?

「……ユースフはいつもあそこで、泣いてたでしょ?」

 その言葉を聞いて、サライがあの事故のずっと前から自分を見つめ続けていたことを、ユースフは知った。己の不甲斐なさにも心が押し潰されてしまいそうだった。

 あの場所だけが、誰にも甘えることのないユースフが、心の内を曝け出すことが出来る場所だった。微かに嗚咽をもらしたとしても、荒ぶる波の音が声を掻き消してくれる。いくら成人していようと、軍務長官の座に就こうと、自分の心を殺しきれず、未だに子どものようにもがいている。そんなユースフの姿をサライは知っていたのだ。

「……ユースフが好き」

 薄暗い部屋の中では、ユースフを見上げるサライの肌も髪も瞳の色も見えなかった。きっとサライからも、ユースフの情けない顔は見えていないのだろう。

 いつしか、ユースフは両の腕でサライを抱きしめていた。



 自分の精神を守るために、ユースフはこの行為は【エブラの民】が望んだ事だと自分に言い聞かせた。

 二度目はないと思っていたが、その後もサライは度々ユースフのもとを訪れ夜を過ごす。一度一線を超えてしまうと、深みにはまるのはあっという間だった。

 【エブラの民】が望んだ事だと、ユースフは自分に言い聞かせていたが、逢瀬を重ねる度にユースフの中でサライの神格は薄れていくようだった。




*   *   *   *   *




 夜にユースフの家の扉が五回叩かれる。サライが来た時の合図だ。

 ユースフに家の中に招き入れられると、サライは冷えた身体を震わせながら、オス・ローの女が着ている上着を脱いだ。

 その下に着ているのは、【エブラの民】の着ている白い一枚布の服だった。

 ユースフの狭い部屋で、灯りを全て消すと、二人は身体が熱くなるまで抱き合う。狭いベッドから、サライが落ちないようにとユースフは気遣った。

 今やサライとも付き合っているユースフだったが、彼女が【エブラの民】であるという事実は常に頭から離れなかった。サライ自身はただの少女にしか思えないというのに。

「俺はきっと地獄に落ちるな……」

 狭いベッドの上でサライと向き合いながら、ユースフは自虐的な笑みを浮かべた。

 ユースフはサライと関係を持ってから、ドームへ巡礼にも行かなくなっていた。誰かに相談することも、神に救いを求めることも出来ない。

「安心して。もしユースフが地獄に落ちても、わたしが絶対助けてあげる!」

 まだ暗がりの中、顔は見えないがサライが少しむきになって言った。サライはいつも少し子どもっぽいことを言うのだ。

 ユースフはそんなサライを愛しく思っていたし、そんな言葉に癒されもしていた。

「それに地獄は、この世界のことだよ」

「この世界が地獄? ああ、そうか。天国は扉の向こう側か」

 ユースフの話に、サライはいつも真剣に答えてきた。

「ちがうよ。天国は地にあるんだよ」

「地に?」

「そう。死ぬ時、人間も動物も鳥も、皆大地に抱かれて死んでいくでしょ?」

 確かに生物は死ぬと横たわる。それを大地に抱かれていると言うのが可笑しくて、ユースフは頬が緩んだ。

「でもね、神様は平等に死を与えてくれるから。ユースフが地獄に落ちるなんてことはないよ」

「死を下すのは神じゃない、悪魔だろ」

「悪魔って何?」

 閉鎖的な社会で暮らしているサライは、時々自分たち、外の人間とは全く違う概念を持っていて、ユースフ驚かせたり呆れさせたりした。

 二人はそんな話をしながら、明け方まで何度も身体を重ね合った。



 はじめこそ【エブラの民】のサライが望んだ事だと、ユースフは自分の行為を正当化しようとしていたが、会うたびにサライが普通の少女にしか思えなくなっていく。

 だが、やはり【エブラの民】は天使の末裔なのだ。この罪は許されるのだろうか……。ユースフはいつも心の中で葛藤していた。

 そうして、サライと会うたびに、ユースフの罪の意識はどんどん深まっていた。




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