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天国の扉  作者: 藤井 紫
第二章 落陽の聖国
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17.【エブラの民】サライ

 少女の名前はサライといった。

 年の頃は十代の前半くらいに見える。黒い肌に真白な髪、それに菫色の瞳をした、天使の末裔と言われている【エブラの民】だ。

 【エブラの民】は外界では言葉を発しないはずだったが、ユースフと一週間も一緒に過ごすと、信用したのか、あきらめたのか、普通に言葉を話すようになってしまった。

 ユースフとしては拍子抜けだったが、会話できない不便さを思えば、話し出したサライの覚悟には感謝した。

 職務の合間を見て、ユースフは連日ドームに通ったが、門が開く様子は全くなかった。サライがいなくなったことで、中で騒ぎが起こっているような様子も見受けられない。

 【エブラの民】とは、あの城砦の中で一体どういう生活をしているのか、全く想像が出来ない。

 サライは人目に付かないように、オス・ローの女たちと同じ服を着させた。たとえ家の中でも髪は一本も出ないように染布で巻き、家からは出ないように言い聞かせていた、筈なのだが。

 サライは奴隷たちと一緒になって、よく働いていた。



「ユースフ! おかえりなさい!」

 夕暮れ時にユースフが帰宅すると、満面の笑みでサライは迎えてくれる。

 日が暮れ始め、薄暗いはずの家の中が不思議と明るく感じられる。思わずつられて笑顔になってしまい「ただいま」などと答えてしまった。その様子を奴隷たちがのぞき見て、可笑しそうに笑っているのが聞こえてきた。

 サライの今までの生活環境では、どうやら「おかえり」という言葉自体がなかったようだ。ドームの中の生活では不必要なものが、外界には沢山溢れている。外界の言葉、食事、習慣など【エブラの民】の知らない概念を、サライは楽しそうにユースフにたずねてきては覚えてしまう。

 そんな様子を見るたび、ユースフは焦りを感じずにはいられなかった。外界の空気によって神聖な【エブラの民】が汚されていくような感覚を覚えた。

 早くサライをドームに返さないと……。

 あれからもう二ヶ月も経っているのだ。

 そんなユースフの気など知らないサライは、外套を壁に掛け馬具を片付けるユースフのわきにやってきて、その日得た外界の知識を嬉しそうにしゃべりだした。

「ユースフ、聞いて! 今日アブド達と大きな動物を見たの! なんて名前だったかな…、えっと…」

「……ハイスのことか?」

「そう! それよ! ハイス! 本当にびっくりしたの! あんな大きな動物が居るなんて知らなかったわ!」

 目を輝かせて話すサライだったが、

「そうか……」

 と、ユースフの返事はそっけなかった。

 サライが普通の女だったら、こんなに喜ぶ顔が見られるのなら、次の休みに馬に乗せてやろうと思ったことだろう。だが、サライは【エブラの民】だ。あり得ない。

 ドームに戻れるまで、御高く尊大に構え、【天使】らしく大人しくしてくれていれば良いのに、ユースフの思い通りにはならない。

 サライが何かをしたり、話すたびに、サライが外界の少女達となんら変わらない事を、嫌と言うほどユースフは実感させられた。

 サライが言葉を話し初めてすぐに、敬語使うことすらばかばかしくなってしまったほどだ。サライがユースフの話し方は変だと言うので、聞けば【エブラの民】には敬語といった概念がないらしい。

 【エブラの民】が何か特殊な能力を持っているかといえばそうでもない。サライから神秘的なオーラも全くと言って良いほど感じない。むしろ世間知らずなサライからは、外界の同年代の少女達よりも幼さを感じる。

 ユースフの記憶に残る【エブラの民】とサライは、まるで違う者のようにさえ感じることがあった。

 サライが来てからというもの、ユースフは自分の信仰心は本当に確かなものなのかと、心の奥で形にならない不安がもやもやとし始めていた。

「ユースフ? 疲れてるの?」

 背の低いサライは、そっけない態度のユースフを見上げながら、少し寂しそうな顔をした。

 疲れているかと問われれば、……ひどく疲れている。

 この二ヶ月、いくら信用できる自分の奴隷たちとはいえ、サライを家に残し心配が絶えなかった。夜は夜で、オス・ローで付き合っている女の元にも全く通っていない。そのうち女の方がユースフを尋ねてくるのではないかと、それも気が気でなかった。

 ユースフは、ようやく頭に巻いていた布を外し、こぼれてきた黒い髪を手櫛で整えると、衣服の首もとの紐を緩めた。

 そんな時。

「ユースフ、いるかい?」

 入り口の扉を叩き、初老の男がオイルランプを手にして入ってきた。

 ユースフは、素早くサライに厨房の方へ行くように指で指示した。

「ちょっと通りかかったんでな、水をもらえないか?」

「どうぞ」

 と、入り口のすぐ脇に置いていた水瓶から、ユースフはグラスで水をすくって男に渡した。乾いた土地故の慣習で、水を求める者には何時でも誰でも水を与えるのだ。

「新しい女奴隷ジャーリアかい?」

 サライの後ろ姿が目に入った男は、ランプをくいっと上下させた。向かいの壁でサライの影が揺れる。サライはそのまま厨房へかけこんだ。

 天使エブラ信仰者として、口が裂けても【エブラの民】のことを奴隷だなどとは言えない……。

「ハザン先生、お久しぶりです。先生が巡礼とは珍しいですね」

 ユースフがオス・ローで付き合っている女の父で、医者のハザンだった。

「いやいや、往診帰りだ。儂が巡礼はしない主義なのを知っているだろう」

「アリシャはお元気ですか?」

「最近君が来てくれないと嘆いていたよ」

 ハザン医師とユースフは利害関係が一致している。この男がわざわざそんな事を言いにだけ来る人物ではないのは知っていた。おそらく本当に通りかかっただけなのだろう。

「それは申し訳ありません。少し思うところがあって巡礼を続けていますので」

 ユースフの言葉にハザンの眉が興味深げに上がった。

「ユースフよ、何か罪を犯したのか?」

「まぁ、そんなところです」

 医者が罪とかけてきたところを見ると、おそらくユースフは他の女の所に通っていると思ったのだろう。都合が良いので、ユースフはあえて否定しなかった。

「お前さん程の立場の男なら、昼も夜も忙しいんだろうね。エブラの教えも人によっては過酷なものだな」

 エブラ信仰は伝承者エブラが多妻だったことから、一夫多妻制度を認めている。奴隷の保有数以上に、妻の数というのは単純に権力と財力を表す指数とされていた。特にユースフのような王侯貴族の関係者ともなると、体裁だけの為に妻を養うことも少なくない。

 ハザンはグラスの水を飲み干すと、テーブルの上に空になったグラスを置いた。

「生き返ったよ」

 ハザンの言葉に、ユースフは苦笑する。

「先生に死なれると、オス・ローの価値が下がってしまいます」

「儂みたいな鞍替えモンにも、扉は開くんだろうかね。お前さんには【天国の扉】が開くことを祈っているよ」

 お決まりの文句を言うと、ハザンはぎいっと扉を軋ませて帰っていった。

(【天国の扉】が開くことを祈ってる――か)

 全くだ…とユースフは思った。

 ハザンが帰った後、ユースフはようやく食事にありつけた。

 サライは向かいに座って、ユースフの食事風景をまじまじと眺めている。テーブルの上でランプの灯りが揺れ、サライのどことなく落ち着かない表情を照らした。

 皿の上には今まで味わったことのない味のするスープが並んでいる。

「……もしかして、お前が作ったのか?」

 サライがあまりに見つめてくることを不審に思い、なんとなく聞いてみた。

「すごいわ! どうしてわかるの!? わたしの心の声が聞こえた?」

 相変わらず、サライが奴隷と一緒に働いている事を知り、ユースフは肩を落とし軽くため息をついた。

「サライ、お前はちゃんと食ってるのか?」

「うん、ちゃんと食べてるよ」

 そうは言うが、ユースフのいないうちに奴隷たちと一緒に食事を済ませているようで、サライが物を食べている姿をユースフは一度も見たことがない。

 ドームの中の【エブラの民】は何を食べて、どのように生活しているのかは全くわからないが、そこは追求してはいけないと思った。奴隷たちに聞けばわかることだが、そこまで詮索する気はなく、詮索してはいけない事なのだと思っていた。


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