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天国の扉  作者: 藤井 紫
第一章 奴隷皇子と亡命の魔女
44/193

15-3

 それでも、心の中では嘘をつけず、ハリーファに言った言葉が自分にものしかかってくる。

(もし、わたしが天命のとおりハリを殺せたら……、ずっと罪を背負っていけるの?)

 足に力が入らない。ハリーファにつかまれている右手を離されてしまったら、その場に倒れてしまいそうだ。

「俺にはやらなくてはならない事がある。あそこで捕まるわけにはいかなかった」

 ハリーファも、まるでジェードに言い訳するかのようにつぶやく。

「……でも、結局捕まったじゃない。彼らの死は無駄になったわ」

「いや、無駄じゃない」

 そう言って翡翠の瞳はジェードを見つめた。あまりに真摯なハリーファの視線に、ジェードは言葉に詰まる。

「俺は、お前を手に入れたんだ。【天使】と話せる力を持つお前を」

 ジェードの右手をつかむハリーファの手に、さらに力がこもった。大人びた眼差しでハリーファはジェードを見つめ続ける。

「天使様と話せる……? わたしは祈るだけよ」

 その後、二人の間に沈黙が流れた。

(天使様、もしハリを殺して村に帰ったら、わたしは昔のように戻れるの……?)

 天使からの返事はない。

 もしも天命が果たせたとして、村に帰って今までと同じように、父と母、弟や幼馴染と、毎日羊を追い、幸福な夜を迎えるような日々に戻れるとは思えなかった。

『お前に俺は殺せない』

 ハリーファの言葉は、『お前は祖国に帰れない』と言っているようだ。

(でも、ハリを殺さないと、わたしは村に帰れないの)

 つかまれた右手は血の気を失い、ジェードは右腕全体の感覚が鈍くなったように感じた。

 ハリーファは、血の気を失っているジェードを長椅子に座らせた。そして、寝室から白い布を持ってくると、その布の端を歯でかみ切り、引き裂いて包帯を作る。

 黙ったままジェードの手を取り、ハリーファは器用に包帯を巻いていった。

 巻き終わると、ハリーファはふと思い出したように、横のテーブルに置かれていた小さな聖十字のペンダントを手に取るとジェードに差し出した。

「さっき、シナーンがこれを持ってきた」

 毒の入った葡萄酒を浴びて、銀色だった聖十字のペンダントは真黒に染まっている。

「【黒】……」

 黒くなったペンダントを見て、いつもと違う韻律でつぶやいた。その韻の持つ意味は、ハリーファに伝わってしまったようだ。

「これはお前の身を守ってくれた。きっと二度目もある。大切に持っておけ」

 ハリーファの言葉に、ジェードは汚いモノに対する言い方をしたことを後悔した。

 ジェードの包帯を巻かれた手では、ペンダントは付けられない。ハリーファは金具を外すと、正面からジェードの首の後ろに手を回した。

 ハリーファの顔がジェードの顔に近づく。ジェードはこのペンダントをもらった時の事を思い出した。

 その時ジェードの瞳に映るのは幼馴染のウィルダーだった。二人の間に白い息がこぼれる。まだ銀色だったペンダントを、同じようにしてジェードの首に掛けてくれた。

 ハリーファに心を読まれていると気づき、ジェードは思い出すのをやめた。

 ハリーファはジェードの首の後ろで金具をとめる。

「あの時、愚者の毒を飲んでいたら、俺は死んでいた」

 あの時とは、このペンダントが黒くなってしまった、ハリーファの成人の儀式の時だ。

「お前にそのつもりが無かったとしても、命を助けられた。感謝している」

 ハリーファから初めてもらったねぎらいの言葉だった。

 そして、ハリーファは怪我をしたジェードの右手を手に取ると、布越しにだが、指先にそっと唇をあてた。

 ジェードは急に胸の真ん中が苦しいほどに熱くなり、瞳からは涙がこぼれる。

「すまない、痛かったか?」

 痛みで泣いているわけではないことはわかっているはずなのに、そんなことを言ってくるハリーファが憎かった。

 もうハリーファを殺すことは無理だと思ったのだ。もう村に帰ることはできない。両親や兄弟、友達のことを想うと涙が止まらない。

 水汲みやハリーファの朝食を取りに行くことなどは、すっかり忘れていた。

 ずいぶん長い時間ジェードは泣いていたが、ハリーファはただだまってジェードの右手を握り続けていた。



 泣いているジェードの心から、村の家族や友達のことが伝わってくる。ジェードの心の中では、皆がジェードの名前を優しく呼んでくる。

「……前から思っていたんだが、お前の名前は変わっているな」

 少し気持ちの落ち着いてきたジェードに、ハリーファは話しかけた。そんなことを尋ねる自分が珍しかった。自分は他人のことを知ろうとしない癖があると気づく。

「私の兄弟はみんな意味のある名前なの。パパがつけてくれたのよ」

 ジェードは鼻をすすりながら涙声で答える。それでも、村の話を口にすることで、心の中の寂しさが和らいでいるようだった。

「ジェードは……フロリスの言葉で『翡翠』か? 男の名前じゃないのか?」

「わたしは双子なの。パパが男の名前しか考えてなかったのよ」

 そう聞いてハリーファは思わず笑いをもらした。

「それは災難だったな」

「双子の弟の名は『希望ホープ』のホープ。わたしの名前の意味は『翡翠ジェード』じゃなくて『公正ジュスト』よ」

 そう聞いて、ハリーファは【王】の記憶を思い出した。

「俺の弟も、お前と同じ『公正アディル』という意味の名だった」

 たった一人、【王】が厚く信頼していた弟だ。

 ハリーファの意識が、過去の記憶の中に引きずり込まれそうになったが、ジェードの言葉がそれを引きとめた。

「ハリにも弟がいるの?」

「いや……。シナーンが言ってただろ。俺の事を【王】だと。そいつの弟だ」

「意味が、あまりよくわからなかったの……」

「……そうか。別にわからなくていい」

 そう言うと、向かいのジェードの顔が寂しそうに曇った。

「ハリの名前はなんて意味なの?」

「俺の名前?」

 ジェードに問われて、この時初めて気がついた。ハリーファには名前などない。呼ばれる名は、名前のふりをした呪いだ。

「俺の名前は……、『ハリーファ』だ……」

 ハリーファが苦し気につぶやいた。

 その様子を、ジェードはひたむきなまでに真っ直ぐに見つめていた。

(……ハリ?)

 まるで祈るような、ジェードの心の声が聞こえる。

 ハリーファが何も話さなくても、ジェードの心は話し続ける。

(わたしはハリのことを何も知らない。ハリも、わたしのことを知ろうとはしてくれない。そういうのが、すごく寂しいわ)

「お前は案外おしゃべりだな」

 ハリーファが言うと、ジェードは心を読まれていることに気づき、少しほほえんだ。

「そういえば、お前は聖典を全て暗記しているのか? 時々、心の中で読んでいただろ」

「全部じゃないわ。聞いた事のあるところだけよ」

 口を開いたジェードの声は、先ほどより元気を取り戻しているように感じられた。

「俺も教典を覚えてはいるが、覚えるのに二十六年はかかったぞ」

 ハリーファは感服したように言った。

「え? 二十六年って? どういうこと? ハリ」

 ハリーファは、ジェードのこの呼び方こそ、本当の自分の名前のようで、ハリーファと呼ばれるよりも好きになっていた。




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