15-2
シナーンは、悄然とするハリーファに背を向けると、今度はジェードに話しかけた。
「ジェード、私の奴隷となるなら、お前が欲しいものを何でも与えてやろう。そうだな。何なら、お前を解放してヴァロニアに帰してやってもいいぞ」
ハリーファは、ジェードがシナーンの提案をのんでしまうのではないかと不安になった。シナーンがジェードに小瓶を渡したのも、本当はハリーファからジェードを引き離すためだったことに、ハリーファは気づいていた。
ジェードは少しためらいを見せたが、小さな声でシナーンに答えた。
「……わたしが欲しいのは、ハリの命よ」
「ふん。思ったよりは頭が回るようだな」
ジェードの言葉を断りの皮肉と聞いたシナーンは、両手を腰にあて不愉快そうに息を吐きハリーファを見やった。
ジェードの答えにハリーファは安堵した。その様子を見ていたシナーンの心の声が聞こえてくる。
(ハリーファ、逃げようなど考えず、ここで不自由なく暮らすといい。おそらくそれがお前にとっての幸福だ)
「たとえお前に父上の血が流れてなかったとしても、お前にはファールークの血が流れている。それは間違いない」
そう言って、シナーンは【王の間】を出ようとしたが、ふと足を止めた。
「ハリーファ、最後に一つだけ聞いておきたい。お前は【王】の記憶があるのか?」
シナーンの問いにハリーファは小さく答えた。
「……ある……」
「そうか」
ハリーファの返答を聞いて、シナーンの口調が激しくなった。
「ならば、自分ばかりが犠牲者だとは思わぬ事だな」
そう言うと、シナーンはジェードの横を通り抜け、【王の間】から出ていった。
【王】の記憶を持つハリーファだからわかることだが、ファールークの一族は、皆どことなく【王】や【宰相】の面影がある。
シナーンの言う通り、シナーンも、そしてジャファルも、宰相こそ【王】の罪に巻き込まれた犠牲者だ。
去っていくシナーンの姿を見て、ハリーファは【王】の罪の重さをかみしめた。
シナーンの靴音が消え、入り口の扉の閉まる音が応接にも聞こえた。
ハリーファとジェードが取り残された部屋は、静寂に包まれた。
しばらくして、ジェードはようやく割れた水瓶の欠片を拾おうと、床にしゃがみこんだ。欠片は大きく鋭い刃物型に砕けているものもある。
ジェードはその切先をじっと見つめた。
(これで――)
ハリを殺せれば天命が果たせる――。そう浮かんだ時、考えるのを止めた。心で考えるとハリーファに聞こえてしまう。
ジェードは慌てて欠片をつかんだ。すると、右手の人差し指に破片の切先が突き刺さった。傷口から赤い血がこぼれだす。
「……痛っ」
血はまたたく間に大きく盛り上がり、ぽたぽたとしたたり落ちた。石の床の上に、小さなアザミのような赤褐色の花が咲いていく。
次々に床に落ちる赤黒い血の鉄のような匂いが、ジェードに聖地での光景を甦らせる。目の前で、三人の兵士がハリーファに殺された時のことを思い出した。
ジェードは眩暈を覚え、床に手をついた。
「大丈夫か?」
そばにしゃがみこんだハリーファは、ジェードの手から握られたままだった大きな欠片を奪った。
「……ご、ごめんなさい、すぐ片付けるわ……」
言うが、景色が揺れて見える。
「先に止血をしろ」
ハリーファはジェードにそう言うと、自分は割れた欠片を拾い始めた。
落ちていた他の欠片をハリーファが拾う間も、ジェードの指先からしたたる血が床を赤く染める。傷口を反対の手で押さえても、血はどんどん流れ出る。
ハリーファは拾った欠片をまとめて端によけた。それが終わると、いつまでも床を汚しているジェードの右掌をつかみ、顔の高さまで引き上げた。手首をとらえ、一点を強く押さえる。
流れる血は指先から腕をつたい白い腕に赤い線を描く。そのまま肘までいくと、赤い雫となって落ちた。
ハリーファに手首を力強くつかまれ、ジェードの指先がしびれてきた。同時に指先と心臓が同じ速さで強く脈打つのを感じる。ジェードの肘から落ちた血は衣服に赤くにじんでいった。
腕をつたって流れ続ける自分の血が、聖地でのことをますます鮮明に思い出させる。
――あの時、ハリーファから殺意を感じた。次に殺されるのはジェードだったはずだ。
きっとハリーファにとっては、自分などいつでも簡単に殺せるのだ。オス・ローで兵士たちを殺したように。
「お前には俺は殺せない」
目の前に居るハリーファがつぶやくように言う。翡翠色の瞳が、真っすぐにジェードを見つめている。
「俺を殺して罪を犯しても、神はお前を救ってはくれないぞ」
辛辣な視線がジェードに向けられた。
だが、ジェードには、その言葉がジェードの瞳に映っている、ハリーファ自身に向けられているように思えた。
「……聖地で、兵士たちを殺したことを、悔いているの……?」
「俺は悪魔じゃない。過去も、今も、人を殺めて悔いない日なんて一日だってない」
「……じゃあ、殺さなければ良かったじゃない」
口ではハリーファを攻めるが、心の中では自分自身に対して言い訳を考えていた。
(わたしはハリを殺さなきゃ……。天命なんだもの……)