15.公正という名の
秋の終わりに、シナーンが一人で【王の間】にやって来た。
【王の間】に初めて足を運ぶ者は、皆驚いたように朱鷺色の建物を見まわす。シナーンも同じように部屋の中を歩きながら見渡した。
「ここは監獄だと聞いていたが。別に普通じゃないか」
部屋の主に許可を得ることもないまま、ぶしつけにシナーンは応接室まで入り込んでくる。
「何の用件だ」
突然の兄の来訪を、部屋の主は不機嫌な態度で迎えた。
「これを届けに来てやったんだ」
シナーンは懐から何かを取り出すと、じゃらりと音を立ててテーブルの上に置いた。そこには、ジェードの聖十字のペンダントが、黒ずんだまま鈍く光っている。
「それだけの為に、わざわざここまで来たのか」
「腹違いの弟に会いに来てはいけなかったか?」
ハリーファは両腕を組み、腹違いの兄の物言いに不満のため息をつく。そして思い出したように寝室に行くと、何かを持って出てきた。
「シナーン、お前だろ」
ハリーファは、寝室から取ってきた瑠璃色の小瓶を、シナーンに向かって投げた。小さな青い塊が、二人の間を弧を描いて飛ぶ。
シナーンは空中で小瓶をつかむと、さっと帯の中にしまった。
「俺の奴隷に余計なことをするな」
「お前の女奴隷が、お前に神魔が取り憑いてないか知りたいと言うからやったんだ」
「俺は神魔に取り憑かれてなどいない」
ハリーファはきつい口調で言い返す。
「そのようだな」
シナーンは悪びれずにさらりと答えた。
その時、扉が開閉する音が響いた。ジェードが水汲みから戻ってきたようだ。
シナーンが来ているとは知らず、二人の皇子のいる応接を覗きこんだ。
(シナーン!?)
ジェードの心の叫びは、ハリーファにだけ聞こえた。
驚いたジェードの手から、水瓶がすべり落ちる。水瓶はガシャンと鈍い音を立てて砕けた。陶器の破片が床に散らばる。ジェードの足元が水浸しになり服の裾が濡れた。
その音にシナーンはふり返ると、扉の近くに立つジェードに言い放った。
「良いところに戻ってきたな、ジェード。約束どおり、お前を私の奴隷としてやろう」
ハリーファは慌てて声をあげた。
「駄目だ! ジェードは渡さない」
ジェードは青ざめた様子で二人を見ていた。硬直してその場を一歩も動けない。
シナーンからもらった毒で、ハリーファを殺そうとしたことを思い出していた。天使の言うように、ハリーファを殺さなければならない。自分の持つ天命におびえる心の内が、ハリーファには伝わってくる。
シナーンは、呆然とするジェードを相手にせず、ハリーファの方に向き直った。
「父上は私情に駆られて、お前の世話をヴァロニア人にさせたがっている。だが、私は違うぞ。お前には、この女よりもっと優秀な奴隷を与えてやろう」
シナーンはハリーファに近寄ると、続けて話し始めた。
「私は今まで、お前は父の血を引いていないか、神魔に取り憑かれているのだろうと疑っていた。だが、お前に憑いているのは、どうやら神魔ではなかったようだな。お前に取り憑いているのは【王】だ」
ハリーファは何も言えず、シナーンの言葉に息をのんだ。
「ハリーファ、お前の中には二百年前の【王】の魂が宿っている。聖地オス・ローと、天使の末裔【エブラの民】を滅ぼした、呪われた【王】だ」
ハリーファと違い、シナーンはファールークの血統を正しく受け継いでいる。【王】や【宰相】と同じ、漆黒の髪と瞳に小麦色の肌だ。
そんなシナーンを間近に見やり、ハリーファはようやく口を開いた。
「……【エブラの民】は、本当に滅んだのか?」
「二百年前の戦争で姿を消したと聞くが、【エブラの民】などそもそも御伽噺で、本当は存在しなかったのではないのか?」
「【エブラの民】は御伽噺なんかじゃない! シナーン、お前は自分の目でオス・ローを見たことがあるのか? 【エブラの民】が居なくなって、城砦は崩壊したままだった! オス・ローの街も、何故二百年もあって復興しない? 何のために聖地をファールークのものにしたんだ」
ハリーファがいらだって声を荒げた。しかし、【王の間】に施錠されるような真似は避けなければならず、それ以上は言葉をこらえた。
「ハリーファ、お前が大人しくここに居る限り、聖地はファールークのものだということをお前は知っているか?」
「俺がここに居る限り? どういう意味だ……」
「【王】と言うのは、ファールークの人柱だ」
シナーンの表情が一瞬曇ったように見えた。
「人柱……?」
「【宰相】と【悪魔】との契約だ……」
シナーンの心に、言葉にはならない迷いが見える。
(初代宰相の死後、ファールークが他国から侵攻されることがないのは、只の偶然なのか? それとも本当に悪魔の力だとでも言うのか?――)
「お前の言うとおり、私はまだこの目で実際の聖地を見た事はない。聖地も、御伽噺の時代のように復興させたいとも思っている」
「シナーン……」
「……だが、私は宰相の後継者だ。まずは国の永続的な慣習には従い、掟を守らねばならぬ」
宰相とほんの数人にしか知らされない皇族にまつわる秘密を知り、ハリーファに同情している様子だった。
「ハリーファ、お前の命は私が守る」
シナーンの言葉に、ハリーファはちらりとシナーンの後にいるジェードを見た。一番身近で自分の命を狙っているのはジェードだ。シナーンはそれを知っているのだろうか。
ジェードはさっきのまま微動だにせず、顔色を失ったまま二人の様子を見つめている。
「先日の件で、私の母はフェスに追放になった」
「……気の毒な」
ハリーファが言うと、シナーンはきっぱりと答えた。
「私の所存だ。母とはいえ、【王】を殺そうとするなどもってのほかだ」