14-3
ハリーファの成人の儀式から半月ほどすぎたころ、徐々に秋も深まり、南方の国アルザグエから再び行商隊がやってきた。
宮廷の門前広場では、春にもかいだ甘い香りが辺りにただよい、動物たちの鳴き声が聞こえてくる。広場を取り囲うように店のテントが張られ、鮮やかな色の絨毯の上には様々な品物が並べられた。
行商隊が王宮の広場で市場を開く三日間、いつも静かな昼の時間は、人や動物たちの声で活気づく。
ジェードは賑わう門前広場を横目に、誰にも気づかれぬようにそっと本宮に入っていった。
今日は、人付きの奴隷たちの姿も門前広場にたくさん見えた。今なら、奴隷たちに顔を合わすことなくリューシャに会いにいけるかもしれない。
ホールに足を踏み入れると、途端に外の喧騒が遠くなった。静寂で満ちたホールを素早く走り抜け、壁の扉を開けて階段をかけあがった。
リューシャの部屋に来るのは三度目だが、自ら足を運んだのは初めてだ。緊張しながら扉を小さくノックしてみたが返事はなかった。
(もしかしたら、宰相のところに行っているのかしら……)
リューシャが昼間にどこにいるのか、何をしているのかも知らない。ただ、どうしても、ハリーファの成人の式典の時に取られた聖十字のペンダントを返して欲しかった。
部屋からの返事はない。リューシャの不在に気落ちしながら、ジェードが元来た道を戻ろうとすると、人の話し声が階段の方から聞こえてきた。
階段をのぼってくる声は徐々に大きくなってくる。慌ててリューシャの部屋の扉を押すと、鍵がかかっておらず扉は簡単に開いた。
ジェードは部屋の中に滑り込むと、音を立てないように静かに扉を閉めた。
――人が通り過ぎるまでだけ……。罪悪感を抱きながらリューシャの部屋に静かに身をひそめる。
腰をかがめて廊下の様子をうかがっていると、ジェードの足を何か柔かいものがかすめた。
「きゃっ……」
不思議な感触に驚いて、ジェードは小さく悲鳴をあげ立ち上がった。
見ると、芥子色の毛皮の小さな獣がジェードの足にまとわりついている。ジェードは、叫びそうになるのをこらえながら飛びのくと、横にあった棚にぶつかった。ガシャンと硝子どうしのぶつかる音がリューシャの室内に響いた。
「誰?」
リューシャの声が部屋の奥から聞こえた。窓の方に白い布の張られたついたてがあり、美しい声の主はその向こう側にいるようだった。
窓からの陽光に、白い布地に人影が映っていた。
「ご、ごめんなさい。ノックしたんだけど……。返事がなくて……」
「ジェード?」
自分の名前と同時に、水のはねる音が聞こえた。ついたてに映った影がゆっくりと動き、リューシャが姿を見せた。
湯浴みをしていたのか、すけるような薄い布地の衣装を着て、素足には水が滴っている。肩には布を羽織るようにかけ白く細い指で押さえていた。
しっとりと濡れた清艶な金色の長い髪に、ジェードはリューシャの姿に見惚れた。
リューシャに気を取られていると、小さな獣はしなやかな動きでジェードの足元に身体をこすり付ける。
「きゃ……」
ジェードが足元の小さな獣に怯えるのを見て、リューシャはくすっと笑った。
「猫が嫌いなの?」
「キット? 獅子の子じゃないの? 王家では獅子を飼ったりするって聞いたから……、獅子の子かと……」
ジェードの答えを聞いて、リューシャは口元を隠すようにして上品に笑った。
猫は飼い主の方へ向かうと、先ほどジェードにしたのと同じようにリューシャの足元に絡みついた。リューシャは足元から猫を抱きあげた。
「獅子の子は大人になってしまったら手放さないといけないでしょう」
ジェードはリューシャの腕に抱かれた猫を興味深げに見つめた。窓際で見る猫の瞳は緑色だった。
「さわっても大丈夫?」
近くで見ても、やはり今まで見たことのない顔だ。ハリーファの持っている本で見た獅子にはそっくりだ。瞳の中が爬虫類のように細く、ハリーファとよく似た翡翠色をしている。
「この子、とても人懐こいわ」
リューシャにそう言われ、毛並みをそっとなでると、猫は目を閉じて小さくナアと鳴いた。
「何か用があってここに来たのでしょう?」
リューシャに問われてやっとここに来た目的を思い出した。
「わたしのペンダントを、返して欲しいの」
リューシャは一瞬何のことか考えていたが、すぐに聖十字のペンダントのことだと気がついた。
「あぁ、あのペンダントは、今わたくしの手元にはないわ」
「そんな……」
ジェードの表情がみるみる哀しみに沈んでいった。
聖十字のペンダントはジェードが持っている唯一ヴァロニアのものだ。忌年の誕生日に幼馴染から贈られたもので、今は自分と祖国を繋ぐたった一つのものであり、天使信仰の証でもあった。