14.二つの秘密
強い日差しが、大理石の床に朝から濃い影を作っていた。
宰相の部屋では、女奴隷たちが食事の片付けをしている。昨日の出来事が耳に入っていないかのように、女奴隷たちの周りには、いつもと同じゆったりとした空気が流れていた。
シナーンは父親に呼び出され、ジャファルの私室へと向かっていた。
階段を上がり、長い廊下を一人颯爽と歩く。シナーンは、父親に呼び出された用件について考えた。
ハリーファの式典でのことであるのは間違いない。葡萄酒に盛られた毒の一件だろうが、自分が式典に遅れたことにも、父親が腹を立てているのではと思うと気が重くなる。
シナーンが父親の部屋に着くと、奴隷たちは全員部屋から追い払われた。
整然と片付いている室内には、ジャファルとシナーンの二人だけになった。ジャファルは籐で編まれた大きな椅子に腰をかけていた。
嫡子であっても、宰相の私室に呼ばれることはほとんどない。めずらしさに、シナーンは目だけを動かして宰相の私室を見まわした。執務室は別にあるためか、完全なる私室は思っていたほど広くはない。
ジャファルは、シナーンが口を開くよりも先に、いつもと変わらぬ厳しい口調で話し始める。シナーンは父の少し手前で歩みを止めた。
「昨日の件は、お前の母の所業だったようだ」
ジャファルは簡潔な言葉で、昨日の犯人の名を告げた。ハリーファの言っていたとおり、犯人はすぐに見つかったようだ。
それが実の母親であったことに、シナーンはさして驚きはしなかった。
シナーンはひざまずくと、両手と額を床に押しつけた。
「陛下、我が母の愚かな行為を、どうかお許しください」
額を床に付けたまま懇願する。
「ハリーファが死んでいたら、只事では済まさなかった」
頭を下げたままずっと動かないシナーンを見て、鈍い怒りの声も少しは静まったようだ。
「もうよい、頭を上げよ」
父の言葉に従い、シナーンは顔を上げる。床に両手をついたまま、ジャファルを見あげた。そのまま目が合う。
父の瞳はいつもどこか沈鬱さを感じさせる。こっちまで気持ちが沈みそうだと思っていると、
「シナーンよ。そなたは、ハリーファの事をどう思う?」
「……どう、とおっしゃられますと?」
唐突に問われ、シナーンは父がどんな答えを望んでいるのか考えた。
ハリーファの誘拐に関する見解を求められているのか、まさか神魔に取り憑かれていると疑っていることなのか。昨日数ヶ月ぶりに会ったハリーファは、最後に見たときよりも急に成長していた気もする。
そんなことを考えているうちに、父親は深く息を吐く。
「そなたは、何故ハリーファを宮廷に留めているのか考えたことはあるか?」
シナーンはすぐには答えなかった。父はリューシャをそばにおくために、ハリーファを利用しているのだろうと思っていた。だが、そんなことを口にするほど浅はかではない。
シナーンが黙っていると、
「歴史家からファールーク皇家の【王】のことを聞いた事があるだろう」
「【王】と言うと、聖地を我が国のものにした始祖ユースフの事ですか? それとも弟の……」
アーディン、という前にジャファルが答えた。
「そうだ」
この国は、ユースフと言う亡国の軍人が、ウバイド皇国の皇女との政略結婚の末、ウバイド皇国を潰し興した国だ。国としての歴史は以外と浅い。
そして、ユースフの実弟アーディンが初代の宰相となり、ユースフの死後はアーディンが王となった。しかし、その後現在まで王は不在になっている。
現在まで、アーディンの息子が世襲宰相となってファールークを治めてきたのだ。そして、ジャファルもシナーンも純粋な宰相の血統だ。
「そなたは、ファールークに今も【王】は居ないと思っているか?」
「どういうことでしょう? 王など居ないではないですか」
「三代目以後も【王】はずっと【王の間】に居たのだよ。そして今もだ」
宮廷内では【王の間】は監獄だと言われており、辺鄙な場所に在る【王の間】には家奴隷たちもほとんど寄りつかない。
「奴隷たちがごちゃごちゃと噂を立てているようだが、ハリーファを皇宮に残していたのはそういう理由だ。ハリーファは【王】なのだ」
「……は?」
シナーンは言葉につまった。父親の言う意味がわからず、一瞬眉がゆがむ。
父の機嫌を損ねないように、シナーンは真顔に戻り問いかける。
「ハリーファが【王】とは、一体どういう意味ですか」
「言葉どおりだ。ハリーファはファールークの【王】なのだ」
「陛下のおっしゃる意味が、私にはわかりません」
この国を治めてきたのは宰相であって王ではない。
「ならば、狂人のことは? 知っているのか?」
狂人とは、【王の間】に捕えられ、シナーンやハリーファが生まれるより前に、【王の間】で死んだ老人のことだった。
「はい。今から二十年ほど前に、亡くなったと聞きました」
ただ、シナーンは公には、「そういう男がいた」という話しか聞いていない。長く宮廷で暮らしている奴隷たちによると、ジャファルの異母姉と、ハリーファの母親に関わる人物だったということらしいが、父親がその男のことを狂人と呼ぶようにろくな話ではない。
「その狂人も【王】だったのだ」
ハリーファと狂人が【王】であり、それが一体どういうことなのか、シナーンには今一つ理解できない。
「ええと、確か、狂人はハリーファの祖父にあたるとか……」
シナーンは何とか情報を繋ぎ合わせようとしたが、ジャファルは言葉を断ち切った。
「そなたは悪魔の存在を信じるか?」
「悪魔?」
シナーンは、ハリーファや狂人の話はどうなったといぶかしむ。
「信じるも何も。私はファールークの教義通り、天使信仰者ですが」
天使を信じる者は、相対する悪魔の存在を否定することはできない。
「そうか」
シナーンの返事を聞いて、ジャファルがゆっくりと口を開いた。
「悪魔との契約によって、【王】の魂は止むことなくこの地に甦るのだ」