13-3
ジェードは着替えをすませ、応接に戻ってきた。
朝に運んできた食事がそのまま置かれたままだ。切りわけられ、みずみずしかった果物も、表面は乾き潤いをなくしていた。
ハリーファが食事に手をつける様子はなさそうだった。ジェードは、ふくれたまま片付けを始めた。
最後に言われた言葉に思わずむっとしてしまったが、今までお世辞でも男から綺麗だなどと言われたことはない。ハリーファが嘘を言わないことを思い出して、また胸の辺りがこそばゆくなる。
ちらりとハリーファの方を見た。ハリーファは式典の服を着たまま椅子に座って、つまらなそうにジェードの様子をながめている。
「……さっき、リューシャさんのおかげで命を助けられたわね」
「ああ。代わりにお前が殺されそうになったけどな」
明るく言ったはずなのに、仏頂面で返されてしまう。
「そうだけど、どうしてそんな言い方するの? ずっと育ててくれた乳母なんでしょ? ママみたいなものじゃない」
「リューシャはあの葡萄酒に毒が入っていることに勘付いていた。それでお前を俺の身代わりにしようとした。殺されそうになったのはお前だぞ」
ハリーファの言うとおり、礼拝堂でハリーファがリューシャを止めてくれなければ、自分は死んでいたのだ。
それでも、なぜかリューシャのことを恨むことはできない。たぶん、リューシャが宰相を愛する気持ちを聞かされたせいだろう。
それに、ハリーファのことを話すときの、リューシャの曇った表情が気になって頭を離れない。
きっと心が読めれば、あの時リューシャが本当はどんな気持ちでいたのか、わかったのではないだろうか。
「ハリを本当の子どものように思ってたって言ってたわ」
「リューシャにとっては、全て宰相の為だ」
「でも、他にも理由があるって言ってたじゃない。どうして信じないの?」
「お前の言葉も、本当かどうか信用できない」
「……ハリは誰のことも信用していないのね」
ジェードがかすかに涙声で呟いた。
「なら、お前は俺を裏切らないと言えるのか?」
ジェードは返す言葉に詰まった。
(わたしだって……、天命じゃなければ、ハリを殺したくなんかないわ)
自分の思いと天命とが矛盾して、ジェードも胸が苦しくなった。
「信用しても裏切られる。俺はもう誰も信じない」
ハリーファは苦々しい表情で言葉を続けた。
「……俺は、昔、唯一固く信じていた男にも裏切られた。その男の所為で、こんな所にずっと閉じ込められて……」
ハリーファは感情を抑えようとしていたが、両手はきつく握られ小刻みにふるえている。その様子は、強い憎悪を抱いているのが、ジェードにも伝わるほどだ。
まだ十二歳のハリーファが、一体何をこんなに憎んでいるのかジェードには想像もつかない。
「で、でも、本当に裏切られたのかどうか、わからないじゃない」
ジェード自身、両親に村を追い出されたのには、何か理由があったのだと信じている。
ハリーファは、何か言おうとしたが口をつぐんだ。だが、ジェードは言葉を続けた。
「人は嘘をつくのよ。その時には何か言えない訳があったのかもしれないわ」
「黙れ!」
ハリーファに怒鳴られ、ジェードはそれ以上言うのを諦めた。
(でも、わたしはパパとママを信じてるわ。家族を信じないなんてわたしにはできない。家族を疑うなんて、それこそ『罪』だもの)
心の中で考えていたことに、ハリーファが突然激しく怒り出した。
「家族を疑うことが『罪』だと!? 俺を裏切ったのは、同胞の弟だ!」
ハリーファが初めて声を荒げた。怒りの形相でジェードの胸座をつかむ。
「『家族』だから? お前を信用しろとでも言うのか!? 俺を殺そうとしている奴を、一体どうやって信用しろと言うんだ!」
ハリーファの言葉にジェードは息が止まる。
「……まさか、ずっと、知ってたの……?」
ジェードの背中に、ぞくりと冷たいものが走った。
「ああ、お前が俺を殺そうとしていることも、最初から知っていた」
ジェードは急に目元が熱くなるのを感じた。苦しそうに喉を詰まらせた。
「……やっぱり……人の心の中を見透かしているのね」
ジェードの言葉など素通りし、ハリーファは激昂した。
「お前と同じで、血の繋がった家族だって信用ならない! 父上も、シナーンもだ! 奴隷たちが心の中で考えていることだって俺はわかっている!
リューシャにはこの力を巧く利用されて、あげく、さっきはようやく手に入れたお前を殺されそうになったんだ! お前がどんなにリューシャを信じようと、あの時、俺には『お前は死んでも良い』というリューシャの心の声がはっきりと聞こえていたんだ!」
ハリーファに胸座をつかまれ、ジェードは引き寄せられたまま涙をこぼした。
やはりハリーファには、他人の心の声が聞こえていたのだ。
「今まで……全部聞こえてたのね……」
たった一人の『家族』であるジェードは、ハリーファの命を狙っている。ジェードは今まで何度もハリーファに不穏な思いを向けた。
本当の身内である宰相やシナーンは、ハリーファに対してどんな思いを向けているのだろう?
ハリーファが、幼いころから奴隷を持ちたがらなかった理由も、奴隷の本心がわかるからだろう。
そんなことを想像すると、涙がぽろぽろとこぼれて止まらなくなった。
ハリーファに突き放され、ジェードは床に座り込んだ。
「それでも、お前はリューシャを信じると言うのか?」
はき捨てるように言うハリーファに、ジェードはだまって小さくうなずいた。
「お前は、リューシャに殺されそうになったのに……。何故そこまでリューシャを信じられるんだ」
「だって……わたしはハリみたいに人の心がわからないんだもの」
ジェードは涙で声を詰まらせた。
『……一国の宰相ともなれば相当な苦悩もある。それは宰相の女奴隷だって同じだ。お前なんかに解かるわけない』
以前、そう言ったハリーファの言葉の意味が、今は少しわかるような気がした。
(リューシャさんもきっと苦しんでいるのよ……。『宰相の女奴隷』じゃないわたしが、わかるわけない……)
「裏切られる事になったとしても、信じるのか?」
「信じるしかないじゃない……」
ジェードは涙をこぼしながら、それでも顔を上げた。
「私は……信じるわ」
ハリーファの翠の瞳が、ゆらりと揺れた。