13-2
「わたくしは、乳母と言う『役目』は、もう十分に果たしたと思っているのだけど」
そう言われ、ジェードは何も言い返せなかった。
真っ直ぐな視線を向けるジェードの心の内をくんだのか、リューシャは続けて語りだした。
「自分の子ではないのに、本気で愛せるとでも思っているの?」
自分の子じゃないのに愛せるかどうか、ジェードにはまだわからない。
「ハリを利用しただけだったの?」
「そうね。ハリーファ様を我が子のように思った時もあったわ。きっと有り得ない幻想を楽しんでいたのね」
衣装を拾いもせず突っ立っているジェードに、リューシャは諭すように語った。
「あなたがもう少し大人になって、ハリーファ様に抱かれるようになれば、わかるかもしれないわね」
リューシャはそう言って、ジェードが落とした衣装を拾って手渡した。
「いいえ、やっぱりあなたには、わたくしの気持ちは一生わからないわ。あなたは宰相付きではないのだから」
以前リューシャから感じた『母』の雰囲気はまったく感じられない。今ジェードと話しているのは『母親』ではなく『宰相の女奴隷』だ。
「わたくしはね、宰相様になら殺されても構わないのよ」
殺される――などと不穏な言葉だったが、不思議とその言葉に隠された想いに気がついた。
(それは宰相を『愛している』っていうこと……?)
「……でも、あなたが死んだら、宰相はきっと悲しむわ」
ジェードの声も悲しそうで、それを聞いたリューシャはどこか憂いた微笑みを見せる。
「わたくしは宰相様の為なら死ぬことも厭わないわ」
天使信仰では自殺は禁忌の一つとして教えられる。
死ぬことを厭わぬというリューシャの意思は、天使を信じていないということを表していた。
「天使様を信じていないの?」
「あなたみたいに若くて美しい娘には、まだわからないわね」
「わたしは美しくなんかないわ……」
誰が見ても本当に美しいリューシャに、そんな風に言われても納得出来るわけがない。
ジェードは黙って、リューシャの目の前でもたもたと汚れた服を脱いだ。毎日食事を取れているおかげで、巡礼の時のように痩せこけた印象はなくなったが、それでもまだジェードの体は女らしさに欠ける。
ジェードは、その体を隠すように、渡された服を急いで羽織った。
リューシャは櫛を手にして、ジェードのそばにやってきた。後ろからジェードの乱れた髪を櫛で整え、耳にかぶさっていた髪をするりと耳にかける。
「あなた、まだ気づいていないのね。ハリーファ様のこと」
ジェードを眺めながら、リューシャが独り言のようにつぶやいた。ベッドのそばの瓶にこぼれるように活けられたピンク色の花を手折ると、ジェードの髪に飾った。聖地につく前にジェードを歓迎してくれていたピンクの花だ。
「あなたはハリーファ様の御力を利用しようなんて考えないで愛せるかしら?」
「……利用って……どういうこと?」
ジェードは思わず聞き返した。
「さぁ、着替えたらさっさと出て行って」
リューシャの本心がわからないまま、ジェードは部屋を追い出されるように出て行った。
ジェードは階段を足早に下った。
扉をぬけると、もうホールを見上げることもなく、逃げるように【王の間】までの道のりを急いだ。
(わたしが気づいてないって、何?)
ハリーファが言っていたとおり、リューシャの行動は宰相の為であることを、リューシャ本人の口から聞いてしまった。
リューシャまでもが、ハリーファの立場を利用しようとしていたのかと思うと、悔しくて唇をきゅっとかむ。
(リューシャさんはハリの味方だと思っていたのに……)
この宮廷に、ハリーファには誰も味方がいないのだろうか。
自分自身もハリーファの味方にはなれないのに、ジェードの視界が少しぼやけた。
* * * * *
さっきの事件の後で、ジェードはハリーファがどうしているのか心配で仕方がなかった。
しかし、ジェードが【王の間】に戻ると、ハリーファはその姿を見て驚きの声をあげた。
「皇族付きの女奴隷っぽくなったじゃないか」
「……馬鹿なこと言わないで」
ジェードが朝のハリーファと同じ台詞を言うと、ハリーファは少し笑った。
ハリーファはめずらしくジェードをじっと見つめてくる。不思議と大人びた優しい目をしていた。身動きもせず、着飾ったジェードから目を離そうとしない。
「随分綺麗だな」
「リューシャさんの服だもの……。とても上等なものだわ」
「服のことじゃない。お前だ」
ジェードは思わず胸が高鳴った。ハリーファの言葉にくすぐったい気持ちになる。ハリーファの深い翠色の視線が、ジェード足先から頭のほうへと動く。
視線に気づいて、ジェードは慌てて両手で胸元を隠した。リューシャの身体に合わせて仕立てられた衣装は、胸の辺りがジェードには大きかった。
「孔雀の狭衣を纏いし黒曜石の瞳、春宵の髪に聖地の花、か。まるで『千夜物語』の麗女のようだな」
ハリーファの言葉は、淡々と教典を詠んでいた時とはまったく違う。心がこもった物柔らかな口調だ。いつもと態度の違うハリーファの言葉に、ジェードは顔がほてる。
「その色には黒い髪が映える」
黒髪のことを言われると、ますます顔が上気する。
「アルフライラのサフラって何?」
「前に見せた物語の本、あれに出てくる夜伽上手な女だ」
「なっ……」
そう言われ、さっきまでの胸の高揚が不快感に変わっていく。
(あなたがハリーファ様に抱かれるようになれば――なんて……)
リューシャの言葉を思い出し、ふり払うように頭を横にふる。
「こんなの、わたしには似合わないわ!」
ジェードはそのまま応接を飛び出すと、奥の部屋へと着替えに行った。
(※)グハンナメイヤとはブーゲンビリアです。18世紀にこの花を見つけたブーゲンビルというフランス人にちなんでつけられた名だそうです。
ちなみにグハンナムはジェハンナムのカイロ方言で『地獄』という意味だそうです。