13.信仰告白(二)
目の前のグラスの中で、葡萄酒は血のように波打っている。
ジェードはリューシャを見あげた。
(ハリのために毒味をしろってこと? わたしの他にも、ここで誰かがハリを殺そうとしているの?)
リューシャの手に持たれたグラスの中で、葡萄酒はゆらゆらと螺旋を描くように波立つ。
ハリーファが間に入っても、リューシャは構うことなく、更にジェードに詰め寄る。
なみなみと注がれていた葡萄酒は、ジェードの顔の前で大きく波打ちグラスを飛び出した。真紅のうねりがジェードの口や首、さらに胸元をぬらした。
「きゃっ……」
ジェードはちいさく悲鳴をあげ、顔をしかめた。
生温かい液体が、服を赤く染める。服の上に着けていた聖十字のペンダントも葡萄酒を浴びた。
その時、銀色だった聖十字のペンダントは真っ黒に変化した。
「やはり!?」
リューシャは目を吊り上げて、ジェードの胸元のペンダントをむしり取り、それをにらみつけた。
何事かと席を立ち、近づいてきた歴史家のイヤスは、リューシャの手元をのぞきこんだ。
「これは、どういうことだ! 酒に毒が入っているではないか!」
「なんと……。一体誰がこんなことを……」
リューシャとジェードのやり取りをすべて見ていた宗教家も顔色を失った。
「静粛に! 式典は中止じゃ。日を改めよ」
老人は静まれと、手を二回打つ。そして、椅子から立ち上がり、宗教家達の元へと歩み寄った。
ジャファルは眉間に皺をよせ、ガタリと音を立て席を立った。
「……誰の所業か早急に調べろ」
ジャファルは静かに怒りを含んだ声で、近くに居た書記官に告げる。そして、踵を返し一人でさっさと退室してしまった。
「ハリーファ様はお部屋へお戻り下さいませ。ジェード、あなたはわたくしと一緒に来るのよ」
リューシャは、困惑するジェードを引き連れ、礼拝堂を出て行った。
宰相と、その女奴隷が礼拝堂を去ると、つかの間礼拝堂が静まり返った。やがて歴史家や書記官が机の前に集ってざわめきだした。
「……ハリーファ殿下。殿下は相当強い天使の御加護を受けておられるようですな。先の誘拐の件といい、今回といい……。貴方は本当に運の強い御方だ。何度も命を救われておられる」
呆然として立ち尽くすハリーファに宗教家が言った。
「いや、俺じゃない……。本当に天使の加護があるのは……」
ハリーファは独り言のようにつぶやいたが、途中で言葉を止めた。
ハリーファが礼拝堂を出ると、そこでシナーンと出くわした。シナーンはハリーファとは対照的な緋色の服を纏っている。
シナーンとハリーファが顔を合わせたのは何か月ぶりだろうか。
「ハリーファ、遅れてすまない。しかし、今し方、父上が随分ご立腹のようだったが。何があった? 私が遅れた所為なのか?」
「いや、酒に毒が入っていて式典が中止になった」
「毒? 一体誰が……」
ハリーファの答えに、シナーンは驚いた表情を見せた。
(ジェードか? まさかな……)
シナーンは、自分がジェードに渡した小瓶のことを思い出した。
(いや、しかしあれは毒ではない……。式が中止になるなどと、どういうことだ?)
シナーンが思慮していると、ハリーファが答えた。
「愚者の毒だ。儀式用の酒に毒を入れられる人物なんてすぐに判る」
「……そうか。お前に大禍なくて安心した」
シナーンはハリーファにそう言うと、礼拝堂には入らず、踵を返してハリーファの前から去っていった。
ハリーファもそのままホールを抜け本宮を出ると、【王の間】へと戻った。
* * * * *
ジェードは、リューシャに連れられ礼拝堂を出た。ホールの壁の模様と同調の、一見ではわからない扉をぬけた。それは、まるで隠し扉のようだ。
扉の裏側はホール横の廊下に通じていた。その奥に本宮への階段がある。
二人は廊下を歩み奥の階段をのぼっていく。何ヶ月も前にも、ジェードはリューシャに連れられて、その階段を重い足取りで逆に下った事を思い出した。
以前と逆の道をたどり、リューシャは自分の部屋にジェードを招き入れた。
部屋の奥の衣装棚から、リューシャは一着の服を手にした。
「これにお着替えなさい」
手渡された服は、絹糸で模様が刺繍された孔雀色の豪華な衣装だった。
「わたくし事にあなたを巻き込んだことはお詫びするわ」
以前に比べ、リューシャは穏やかさがなくなり口調は冷たかった。言葉では詫びているようだったが、ジェードにはその心は感じられない。
「あなた、天使に助けられたわね。クライスのペンダントのおかげで、あなたが死ななくても毒が入っていたことを証明できたわ」
ジェードは突然の出来事にいまだ困惑していた。
聖十字のペンダントをしていなかったら。もし葡萄酒を口にしていたら……。
そう気づいたとたん、にわかに血の気が引いた。この人は自分を殺そうとしたのだ。手足がガクガク震え持っていた衣装が手からすべり落ちた。
(この人はわたしを殺そうとした……)
ハリーファを助けるためだったとしても、命を奪われそうになったことに足がふるえる。
「……ハリを、助けるためだったんでしょ……?」
ハリーファを助けるために、ああするしかなかったのだろう。だが、
「そうよ。ハリーファ様が死んでしまっては、宰相様がお怒りになるでしょう」
「怒るって……。悲しむ、の間違いでしょ……? あなたはハリの乳母なんでしょ?」
リューシャの美しい表情が曇った。