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前ぶれなく、謳うように演説する声が聞こえてきた。
先ほどの司祭のような白服の男の声だ。ジェードにとって耳慣れない韻律の詞は、まるで不思議な音楽のようだ。
続いてハリーファの声が聞こえてくる。
モリス信仰の教典を朗読しているのだろう。教典は感情をこめずに延々と読み上げられている。その響きは教会で朗読される聖典と同じように、耳ではなく胸で聞き、頭で思考するのではなく心で受け止めるもののように感じられた。
ジェードは礼拝堂の入り口近くの段差に腰かけた。膝を抱えて目を閉じ、礼拝堂の中から聞こえてくるハリーファの声に耳を傾ける。
聞こえてくる内容は、人物の名前が少し違うが、クライスの聖典に収められている話に似た一説だ。
朗々と教典を読み上げるハリーファの声を聞きながら、ジェードは聖地に忘れてきてしまった聖典のくだりを頭の中で反復した。
文字は読めなかったので、その内容にあわせて刷られた白黒の版画を頭の中に思い描く。
クライスの聖典には、向かい合って壁に手をそえる男女。
二人の間の壁の上には黒い肌の悪魔と蛇の姿が描かれていた。
礼拝堂の中では、ハリーファの詠唱は延々と続いていた。
机の手前に宗教家が立ち、ハリーファは宗教家と向かい合い、『証人』達の居る後方を向いて立っていた。
初めハリーファは机上の教典の上を目で追い、読みながら一度だけそのページをめくった。読み進むにつれて、ハリーファの視線は徐々に教典から離れ、空ろな瞳で礼拝堂の入り口を見つめていた。
ジャファルは椅子にひじを突いて腰かけ、ハリーファが教典を詠むのを眺めていた。しばらくして、息子が机上に広げられた教典を見ずに、暗唱していることに気がついた。
「お前がハリーファに教典を覚えさせたのか?」
ジャファルは顎でハリーファを指し、憮然とした面持ちで隣のリューシャに問いかけた。
「……え、ええ」
(……わたくしは教えていないわ……。ハリーファ様……、一体いつの間に教典などお覚えになったの?)
「ふん」
リューシャは不機嫌そうなジャファルから、逃れるように身体ごと顔を背けた。その時ふと左手を見やると、先ほどグラスを運んできた女奴隷の姿が目につく。なかなか礼拝堂に現れないシナーンの代わりに、式典に参加するよう引き止められた女奴隷だった。色鮮やかな布で髪を巻いていたが、見覚えがある顔だった。
(あの女奴隷は……。シェーラ様の女奴隷? どうしてハリーファ様の式典に?)
式典の途中だったが、ジャファルの隣に座っていたリューシャはそっと席を外した。
ハリーファはひとくだりの詠唱を終えた。
机上に開かれた大きな教典を閉じる音が、静まり返っていた礼拝堂に響く。
続いて、宗教家はハリーファに向かって歓待の辞を述べた。
そしてハリーファの目の前で、用意された儀式用の透明のグラスに茜色の葡萄酒を注いだ。
モリス信仰は飲酒が禁じられているため、酒を口にするのは生涯でこの儀式の一度だけである。それも、葡萄酒は前もって火にかけられ、酒気を飛ばしたものだ。
「聖者モリスは貴方を成人と認めました。貴方の父ジャファル・アル・ファールーク、そして六人の先達が汝を成人として歓迎し導きます。貴方にもモリスの血が流れることでしょう」
葡萄酒の入ったグラスがハリーファに丁重に差し出された。
ハリーファは片手でグラスを受け取った。儀式の直前に酒気を飛ばした葡萄酒は、まだ生ぬるく本当に人の血を思い出させる。
ハリーファがそのグラスを口にしようとした時だった。
「お待ち下さい! ハリーファ殿下!」
割って入ってきたのはリューシャだった。その横に外で待っていたはずのジェードが、手首を捕まれて連れられていた。
「……乳母上? ジェード……?」
ハリーファは驚いて二人の方を見やった。
ジャファルもまた、リューシャの思いがけない行動に背筋を伸ばしその様子を眺めた。
「ハリーファ殿下。わたくし、殿下の女奴隷に一つ教え忘れていたことがございます」
厳しい口調で言い放つと、ジェードを半ば引きずるようにして、正面の机の横まで連れてきた。
リューシャはジェードの手首を引っ張って、ハリーファのそばに立たせた。
ジェードは冷徹な表情のリューシャに戸惑いながら、解放された手首を反対の手で押さえた。
「あなたはハリーファ殿下の奴隷なのです。己の主人が口にするものは、全てあなたが先に口になさい」
リューシャは、ハリーファの手から葡萄酒の注がれたグラスを奪うように取り上げた。そして、それをジェードに突きつけた。
「……!?……」
ハリーファはリューシャの行動に息をのんだ。
「乳母上、お止め下さい!」
ハリーファは慌てて二人の間に割って入った。
しかし、リューシャはグラスをジェードの顔の前に突きつける。促すようにじっとジェードをにらみつけた。
「さあ! ジェード」
リューシャの強引さに、ジェードはおびえて立ちつくした。