11-3
「リューシャは俺を生んだ母親じゃない」
「そうなの?」
宰相の女奴隷だと聞いてはいたが、ハリーファの母親なのだと思っていた。だが言われてみれば、二人は金色の髪の質が違う。ハリーファの明るい金色に比べると、リューシャの髪は光を透かしてしまいそうな繊細な色だ。それにハリーファとリューシャは目の色も違う。家奴隷たちが二人はよく似ていると言うが、ジェードから見ると顔立ちもそれほど似てはいない。
「ああ。だが男の方は俺の実父だ。この国の宰相、……最高権力者だ」
「宰相って? 王様のこと?」
自分とは縁遠い上流階級のことなどジェードにはまるでわからない。
「王とは違うが……似たようなものか。ファールークの宰相は王族の家系だからな」
ハリーファはそれだけ言うと、また視線を書物に戻した。部屋がうす暗くなり、指でなぞりながら字を追っている。
そんなハリーファをながめながら、ジェードはすれ違ったジャファルの姿を思い出した。あの時のジャファルの姿を思い出すと、なぜか気持ちがそわそわとして落ち着かなくなった。【天使】と出会った時とも違う、不思議な感覚だ。
国の頭とも言える人物に見えるなど、ヴァロニアでのジェードの生活では考えられないことだ。自国ヴァロニアの王族などには、この先も見えることはないだろう。
(ハリのパパ、シナーンには似ていたけどハリとは全然似てなかったわね。本当に親子なの? もしかして、本当の親子じゃないから、この離れに一人で住まされているのかしら)
ハリーファが一瞬ジェードに視線をやったが、ジェードはそのことには気がつかなかった。
「宰相がリューシャさんを離さないから、他の夫人があの人を妬んでるって噂されてるわ」
「どこでそんな噂を聞いたんだ?」
「井戸端よ」
「奴隷同士でそんなくだらない話をしてるのか」
ハリーファが厭味っぽく答えた。
「さっき言ったように、宰相は王の家系だ。その血筋を守るために、宰相の妻は皇族の血を引いていなければならない。だから、リューシャはどうやったって宰相の妻にはなれない」
その決まり事は洗濯女たちから聞いて知っている。家奴隷たちはただ宰相と女奴隷のゴシップを楽しんでいるだけなのだ。
「それに宰相はリューシャを妻にしたいなんて思っちゃいない。リューシャが優秀な奴隷だから傍に置いているだけだ」
ハリーファの話しぶりは、洗濯女たちの噂話を否定するかのようだ。ジェードの不満そうな顔に構わず、ハリーファは続けた。
「優秀な女奴隷に皇子の乳母と言う地位を与えただけだろ」
「地位だなんて……。みんなリューシャさんはとても良い母親だったって言っていたわ」
(そんな言い方しなくてもいいじゃない。わたしにも、リューシャさんはハリのことが大切だって感じたのに)
育ててくれた乳母さえ信用していないような口ぶりに、ジェードはむなしさを感じた。
「でも、本当は第二皇子って皇宮に残れないんでしょ? ハリのパパはリューシャさんのためを思って、ハリを皇宮に居させてるんじゃないのかしら」
ハリーファは忌々しげにジェードをにらんだ。
「そんな専横で、宰相が勤まるわけがないだろ」
ハリーファの語気が強くなる。きつい口調にジェードはビクッと身を震わせた。
「自我の心を捨てて、情を無視出来ないなら、宰相なんて勤まらない。リューシャを傍に置くのも、リューシャが宰相にとって役に立つからだ」
ハリーファは怒ったように言葉を吐いたが、ジェードの顔を見て苦い表情になった。
「……いや、確かに父は情を捨てきれてはいない。だけど俺を皇宮に残している理由は決してリューシャの為じゃない」
「じゃあ、何のため? ハリ一人だけこんな離れたところに住ませるの? まるで出てこないように閉じ込めているみたい」
ハリーファは心底面倒くさそうにため息をつく。
「一国の宰相ともなれば、血の繋がった家族だろうと平民のような振る舞いはしない。お前なんかに解かるわけがない」
自分のことは語らないくせに、宰相の事をかばうかのように反論してくるハリーファに、ジェードはいらだちを覚えた。
「宰相になったことないのに、ハリにだってわからないでしょ」
「解かるさ」
ハリーファは顔を暗くして、そのまま黙り込んでしまった。
ハリーファのことを少しでも知りたかったのに、この調子ではますますわからなくなるばかりだ。
皇族の慣習を知らなかったジェードは、宰相の女奴隷であるリューシャがハリーファの母親であり、ハリーファは庶子なのだと思っていた。だから、ハリーファにとっての味方はリューシャなのだろうと考えていた。
だが、宰相とリューシャとハリーファの関係は、ジェードが想像していたほど単純ではなかったようだ。
外は日がすっかり落ちて室内はますます暗くなり、三箇所の灯りではお互いの表情は見えにくくなってきた。
ジェードは立ち上がり、ハリーファにぽつりと呟いた。
「ハリの本当のママは皇宮に居るの?」
「いや、もう死んだ」
「そうなの……」
ハリーファと血の繋がった家族が宰相以外誰もいないのかと思うと、ジェードは悲しくなった。
「ハリは家族が亡くなって寂しくないの?」
ハリーファは書物を閉じてテーブルに置いた。暗くてこれ以上は読めないのだろう。
「母親が死んだのは、俺が生まれてすぐの事だ。顔も覚えてない」
ハリーファはうんざりした様子でジェードを見た。
「泣いてるのか?」
「泣いてないわ」
頭を横に振る。
「でも、もう会えないのよ」
ジェードはハリーファに重ねて、死んだ姉のことを思い出した。
姉は赤子を産む前に死んだのか、産んでから死んだのかも知らされていない。もし姉の子が生きていたとしたら、ハリーファのように母を恋しがることもなく育っているのだろうか。
「お前も家族を亡くしたのか?」
「うん……姉さんを……」
「病か?」
ジェードは首を横にふる。
「魔女の疑惑がかかって……」




