11.すれ違い
先日、ようやくハリーファの軟禁が解かれた。
【王の間】の入り口にいた見張りもいなくなり、ハリーファも皇宮内を自由に動けるようになった。
とは言え、ハリーファの本宮への立ち入りと、宮廷を出て外にいくことは許されてない。ただ、宮廷の外に出られないことに関しては、ハリーファは生まれた時からずっと禁じられている。
ジェードは、朝食のトレーを持って【王の間】に戻ってきた。
中に入る前に、周りに人が居ないことを確認する。服の中に隠し持っていた瑠璃色の小瓶を取り出し、穀物を煮込んだ乳白色のスープにポタポタと数滴落とす。
この瞬間、自分のしている行為に、背筋に冷たいモノが走る。ゾッとしたかと思うと、次はこめかみに汗がにじんでくる。
それでもジェードは、これは天命なのだと自分に言い聞かせた。心の中の恐怖を隠して冷静さを保つ。
【王の間】に入る前に何度も深呼吸して緊張をほぐし、心音と呼吸が整うのを待った。
トレーを持つ手の震えが止まると、何食わぬ態度でハリーファの前に食事を配膳した。
――それなのに……。
「今日はいらない。下げてくれ」
ハリーファはジェードの顔を見るなりそう言った。
「……またなの?」
ジェードは抗議の声を上げたが、ハリーファの気が変わることはない。
シナーンから渡された液体をハリーファの食事に混入すると、その時に限ってハリーファは食事に手を付けようとしない。
(見た目ではわからないはずなのに、どうしてわかるのかしら?)
味の方はもちろん知る由もないが、液体は色もついていないし臭いもしない。
ジェードは一人眉根をよせ、皿の上に盛られた食べ物を凝視した。
「ジェード、さっさと下げろ」
ハリーファは膳を下げるようしつこく言うと、いらだった様子で【王の間】を出て行った。
(……本当に、シナーンの言うように、心を見透かされているのかしら)
おそらくシナーンは『ハリーファは神魔に取り憑かれている』という答えを望んでいるのだろう。だが、ハリーファが神魔に取り憑かれているのかどうかなど、ジェードにとってはどうでも良い事だった。
ハリーファを殺すことが出来れば、自分の天命を果たすことが出来る。
それなのに、細工した食事はいつも拒否され、ジェードは途方に暮れた。その上、ハリーファがこう何日も食事を食べないでいるのを見ると、矛盾しているが心配にもなってくる。
(これじゃ、シナーンの言うように、ハリが神魔に憑かれてるって証明しているようなものじゃない……)
【王の間】に一人取り残されたジェードは一人唇をかんだ。
正午近く、ジェードは部屋の掃除をしていた。
ハリーファはまだ不機嫌そうな顔をして戻ってきた。
「ジェード、掃除はいいからついてこい」
そう言われ、ジェードはハリーファについて行く。ハリーファとジェードは、途中一言も話さなかった。
本宮を超えて、【王の間】とは反対側に位置する、灰色の建物にたどり着いた。ジェードは、まだここまで足を運んだことはない。
「ここは何?」
「保管庫だ」
入口の前に着くと、ハリーファは懐から古びた鍵を取り出した。
鍵穴には砂が積もっている。ハリーファは鍵穴に息を吹きかけて砂を落とすと、そこに鍵を差し込んで扉を開けた。
扉が動くと、ざりざりと砂をこする音がひびく。保管庫の中は、何年ものあいだ、空気が動いていないようだった。
光の入る窓はなく、二人はそれぞれランプを手に持つ。ゆらめく灯りを頼りに、足元や周りを照らし、保管庫の奥へと進んでいった。
壁際には、古めかしくもう使えなさそうな武器が束ねて立てかけられていた。革の蓋が張られた長い大きな壷や小さな壷も、所狭しと置かれている。その間を縫って闇を奥に進むと、書棚がいくつも並んでいる。紐で綴じられた紙束や、本が積まれていた。
「ジェード。お前、数は判るんだろ。そっちの下から1218の年号が入っているものが無いか探すんだ」
そう言われ、ジェードはランプを床に置きしゃがみこんだ。綴られた紙の束を、端から順に取り出して確認していく。
ハリーファは梯子の上に登り、棚の上段に平積みになった書物を一つずつ確認する。
二人は言葉を交わすこともなく、黙々と作業を続けた。
(1218……、1218……)
ジェードは他の事を考えることもなく、見逃さないように、心の中で数字をくり返し読み上げた。
時折ハリーファがジェードを見おろしても、その視線にさえジェードは気がつかない。
二人は倦むことなく働き続ける。
探し物を始めてから、ずいぶん時間が経った。
「……見当たらないな」
ハリーファは額の汗をぬぐい、紐で綴じられた紙の束をいくつか抱えて梯子から下りてきた。
自分の持っていたランプをジェードに渡すと、その灯りを頼りにさらに紙束を選別した。要らないものは棚の手の届く所に適当に詰めこむ。
「1218年だなんて。二百年も前のものなんてあるの?」
「その年は初代の宰相が死んだ年なんだ。無いはずがない」
ハリーファの言うように、1218年の記録だけが抜け落ちているようだ。ハリーファでも入れるような、こんな保管庫に保存されている書類など、きっと大した事は書かれていないのだろうが。
ハリーファは考え込んだが、一人首を横にふった。
「……終わろう。これ以上無駄だな」
二人は保管庫から出ると、開けたときと同じようにその扉を閉めた。
保管庫にずいぶん長くいたようだ。日が西に傾き始め、ハリーファとジェードの足元の影も少し長くなっていた。
数冊の紙束をハリーファは自分で脇に抱えて歩いた。帰りも二人は一言も言葉を交わさない。
本宮の回廊を渡り戻る途中、前を歩いていたハリーファが急に立ち止まった。
ハリーファの後ろを歩いていたジェードは、ハリーファにぶつかる直前で足を止めた。
ハリーファの視線の先に、人の姿が見える。回廊の正面からやってきたのは、厳しそうな表情の男性とリューシャだった。
男性は青年と言うには歳を取り、中年と言うにはまだ少し早い。傲然そうなのに、どこか思慮深い表情をして、眉間には深いしわが刻まれている。
(……あの人……、どこかで会ったことがあるかしら?)
ジェードは、どこかでその男性を見たことあるような気がして、不思議と胸の鼓動が早くなった。