91.遠い約束
ファールークには、こういう諺がある。
『約束は雲、履行は雨』
西大陸では雲は出ても、雨が降ることは珍しい。
――約束は守られないと言う意味だ。
正午の処刑はひとまず中断されたが、ジェードの縄が解かれることはなかった。
ジェードは柱に縛り直され、周囲を兵に囲まれながら、静かに立たされていた。
隙を見て、ジェードは手首に巻かれた縄に、かすかに力を込めた。しかし、きつく縛られた縄は少しも緩まない。
『あの時の魔女』とはきっとルースのことだ。ルースが混乱の種を撒いてくれていたことで、少しだけ時間を稼いでくれた。
そして、ホープも時間を稼いでくれた。
ジェードも、自分の命を守るため戦わなければと覚悟を決めた。
誰にも命を支配されずに死ぬために――。
自分の意志で、生き延びるために。
時間は過ぎる。
午後一時。火刑場の秩序は徐々に戻りつつあった。
逃げて行った観衆が、まだ火刑は執行されていないのかと集まってきた。
張り詰めた空気の中、火刑台の上でジェードは微動だにせず立っていた。
背後にはすでに神官がたいまつを持って立っている。
焚き木に鼻を突く焦げた匂いが混じり始めていた。
観衆は静まり返っていた。
その沈黙は、恐怖なのか、疑念なのか、誰にも分からなかった。
一度、深く息を吸い込む。
息を吐ききったあとで、ジェードは観衆に向かって言葉を発した。
「わたしは、魔女ではありません」
一瞬、ざわめきが走る。
「でも……本物の魔女を、わたしは知っています」
神官が一歩前に出ようとするが、何かに圧されたように足が止まる。
ジェードは視線を上げ、広場を見渡した。
「その魔女は、十五年間、地下の闇に閉じ込められていた。光も、風も届かない場所に……たった一人で。なのに死ななかった。食べなくても、衰えず、彼女は、生きていたんです」
ざわ……と、群衆が揺れた。
最前列の男が、まるで独り言のように呟いた。
「……嘘だろ……」
その声が、水紋のように広がっていった。
「髪は黒く、瞳は翠色。肌は雪のように白く、まるで、時間の檻の外に一人だけ置き去りにされたような、そんな姿でした。
わたしは……その魔女に、救われたんです。誰も助けてくれなかったとき、あの魔女だけが、わたしを抱きしめてくれた」
人々の目が揺れていた。
誰かが小さく十字を切り、誰かが「それは、天使では?」と呟いた。
「……だから、もし魔女が、悪だというなら……なぜ、その人が、誰かを助けるのでしょう? なぜ、その魔女が、命を賭けて、人を愛そうとしたのでしょう?」
ホープは、群衆の端からその姿を見上げていた。
拳を強く握りしめ、唇を噛む。
ジェードの声が、あまりにまっすぐで、あまりに透き通っていて――
どんな理屈も、騙しの言葉も、敵わないような気がしていた。
(……これが、ジェードの意志なんだ)
そう思った時、ホープの胸に静かな痛みが走った。
「わたしは、今ここで焼かれようとしています。理由は、黒髪だから。理由は、魔女と関わったから。でも、それだけで、悪と呼べるでしょうか? わたしは、この目で見たんです。本物の魔女が、誰かを愛して、生きようとしていた姿を」
その言葉に、誰かが泣き出した。
「……親戚が、黒髪なんだ……」
そう呟いた母親が、子どもを抱き寄せた。
「じゃあ、魔女は、ただ誰かを守っただけなの……?」
「この子が、異端って言われるのは、おかしいわ」
「私たち……何を見てたんだ……?」
観衆のなかで、最初に震えたのは、罪の意識だった。
神官の手が、わずかに震えた。
そして次の瞬間、たいまつは静かに地面へ下ろされた。
「……止めよう、これ以上は……」
「これは、処刑じゃない。虐殺だ」
「天使様が、本当に望んでることなのか?」
怒りではなく、哀しみが広がっていった。
民衆の中に、抗議の声ではなく、問いが生まれていた。
その時だった。
ホープが叫んだ。
「聞いたか!? この子は、誰も呪っていない! 誰にも災いをなしていない! なのに、黒髪だと言う理由で、焼こうとしているんだぞ!! 魔女と関わっただけで火を放つなんて、それこそ、神に対する反逆だ!!」
その言葉に、神官が顔を歪めたが、何も反論できないままだった。
火は、まだ灯されていない。
ジェードは火刑台の上で、静かに目を閉じる。
自分が何を変えたのか、彼女には分からない。
けれど、ほんの一瞬、風が止まり、空気が静まり、天のどこかが、わずかに震えたような気がした。
――その時だった。
どこからともなく、冷たい風が吹いた。
空はまだ青かったはずだった。
だが、広場の上空に、ゆっくりと、不気味な灰色の雲が湧き上がってくる。
重たく、低く、まるで空が地に落ちてくるような圧迫感。
神官たちが空を見上げた。
「……これは、何だ……?」
「天候の異常か? こんなに急に……」
ごうと風が吹き抜け、火刑台の焚き木が、ぱちりと小さく音を立てる。
たいまつの火が揺れ、神官の手から今にも落ちそうになった。
その刹那――
雷鳴が鳴った。ごろごろ、と、どこか遠くの空が軋んだ。
その音は、まるで大地の奥から何かが目覚めるような、低く鈍い音だった。
群衆がざわめき始める。
「天罰……なのか……?」
「魔女の呪いじゃないのか……?」
「いや、これは――神が怒っておられるのでは……?」
神官がたいまつを掲げるが、吹きつける風に炎が煽られる。
「待て、火が……!」
「この風じゃ危ない! 火がまわったら、広場全体が……!」
ジェードは、火刑台の上で、空を仰いでいた。
その目に、恐れはなかった。
ホープはその姿を見て、息を呑んだ。
まるで、天がジェードの言葉に応えたかのようにさえ思えた。
神官が、動けずにいた。
兵たちも、命令を仰ぐ目をしていた。
そして、司式官の一人が、ついに判断を下す。
「この天候では、火刑は一時中止とする! 火が暴れれば、被害は街にも及ぶ! 再度、時刻を定め、改めて儀式を行う!」
その言葉に、観衆がどっとざわめく。
そして、次第に人々は、広場を後にし始めた。
火刑は延期された。
しかし、それがほんの数刻の猶予にすぎないことを、誰もが感じていた。
猶予を得たのは、ほんのひととき。
だが、そのひとときが、運命を左右するのだと、ホープは信じていた。
そして、とうとう、黒い雲を運んできた風が止んだ。
役人の一人が、再び火刑に使う焚き木の準備を進めていたのを、ホープは見逃さなかった。
「待て、まだ審問記録が――!」
「聖徒様、審問記録に不備はありませんでした。処刑は、予定通り執行されます」
高位神官が静かに宣言した。
「そんな……!」
延期された火刑が、再開という形で進行される空気が濃くなる。
そして、午後二時半。
火刑台の周囲に火がくべられ、火打石を持った修道士が進み出る。
ジェードは柱に括られたまま、じっと空を見つめていた。
誰もが呼吸を呑む中――
王都の主塔から騎馬の一団が現れた。黒地に金の刺繍の施された旗を掲げた軍装の騎士たちが、整然とした列を組みながら石畳の道を割って広場へ進む。
その先頭にいたのは、漆黒の軍馬にまたがる、魔女王ギリアンだった。
民衆はざわめき、道を開けた。
「王……!」
「陛下が、直々に……?」
兵たちが敬礼を取る隙もなく、ギリアンは馬から飛び降り、すぐさま火刑台の前に立った。マントが風にはためき、王冠の蒼い宝石が光を跳ね返す。
「火刑を――中止せよ」
その声は低く澄んでいて、軍令としての重みがあった。
神官たちは一瞬、言葉を失ったように立ち尽くす。
「この裁きは、国法において不備がある。審問の記録にも、正当な尋問の証拠が存在しない。信仰を根拠に命を奪うことは、もはやヴァロニアの正義ではない」
ギリアンは、火刑台の上のジェードに目をやった。ギリアンの目は、微かに揺れていた。
(八年前、僕は何も出来なかった。だが、今は、王として――)
しかし、神官の一人――高位の司式官が、口を開いた。
「……この場においては、信仰が法を凌駕する。王命といえど、神の命に逆らうことはできませぬ」
その言葉は、静かだった。だが、すでに松明は再び持ち上げられていた。
ギリアンは一歩、前に出た。
「王命だと言っている」
その瞬間、彼の周囲を固めていた兵が剣に手をかける。
しかし。神官たちは、まるでそれすら見えていないかのように、淡々と火刑の儀式を進めようとした。
「焚き木に火を……」
修道士が火打石を打った。
ギリアンの目が見開かれる。
「やめろ!」
その叫びは、広場全体に響き渡った。
だが、無情にも火花が焚き木に落ち――ぱち、と小さく火が点いた。
乾いた薪が、音を立てて燃え上がる。
ジェードの足元をなぞるように、焚き木の炎が走る。
神官の顔に、満足げな安堵が浮かんだ。
ギリアンの拳が震える。
「……王の命令が、宗教の名のもとに……踏みにじられるとは」
ぱきぱきと焚き木の爆ぜる音と共に、炎がカーテンのようにジェードの姿を隠す。
まさにその瞬間だった。
空が、唸った。
風が唸り、光が拒絶され、雷鳴が、大地の底から轟くように鳴り響く。
人々が振り返る。天を仰ぐ。
そして――
炎の中に、少年が歩み出てきた。
金の髪。翠の瞳。光と影を裂いて現れた、名もなき裁き。
ギリアンは、その姿を見て、目を見開く。
(ヴィンセント? いや……これは、誰だ?)
風が吹く。
神官の松明が炎を失い、観衆が悲鳴を上げる。
裁きは、もはや人の手から離れた。
「……ハリ……?」
ジェードの声は震えていた。
少年は何も言わず、ジェード歩み寄ってきた。
――そして、風が吹いた。
炎が少年を避けるように左右に割れた。
『すまない、遅くなった』
その声は、ハリーファに間違いなかった。
ジェードは、縄に縛られたまま、呆然と少年を見上げる。
涙がこぼれそうになるのを、必死で堪える。
「……来てくれたの……?」
『ああ。助けに来た』
少年は指を伸ばし、ジェードの手首に軽く触れた。
縄が、何も使わずにするりと解けた。
抱きとめるように腕を引き、火刑台の縁に飛び降りる。
兵たちはその姿に声を失い、数少ない群衆は八年前を思い出して、再び逃げていく。
『大丈夫。もう安全だ』
少年の声は落ち着いていて、優しく、どこか、作られたように完璧だった。
でも、ジェードは疑わなかった。
その目に映るのは、ただ一人、自分を迎えに来てくれた少年の姿だけ。
――ハリーファが来てくれた。
それだけが、今のジェードにとって真実だった。
* * * * *
煙はもう消えていた。
火刑台は焼け落ち、兵たちは騒ぎに呑まれて四散している。
その片隅の、影の濃い裏路地に、一人の少年が、ジェードを抱きかかえて立っていた。
ジェードは意識を失っていたが、呼吸はしっかりしている。
そこへ、肩に血をにじませ、足を引きずるハリーファが現れた。
足元はふらつき、すでに限界に近かった。
それでもハリーファは、迷うことなくその姿を見つけ、そして、凍りついた。
自分と同じ姿を認めた瞬間、ハリーファの動きが止まる。
ジェードを抱いていた少年は、まさしくハリーファと瓜二つだった。
髪、瞳の色、顔立ち、背格好――。
翠の奥に、夜の深淵のような、光を孕んでいた。
『遅かったな、ハリーファ』
その少年は、まるで兄のように、あるいは父親のように、微笑んだ。
どこか懐かしい声。耳の奥に、触れた記憶のように響いた。
「【悪魔】……」
ハリーファは目を細めた。父親のはずだが、今はまるで鏡に映った双子のようだ。
【悪魔】が居るという事は、
「ジェードは……死んだのか……?」
『今回は、この子の姉の願いの履行だ。彼女の望みは二つあった。一つはこの娘を守ること。そして、もう一つは、この娘が最後に幸せになること』
【悪魔】は、ジェードをそっとハリーファに預けた。
『二つ目は、お前の役目だ』
ジェードの身体が、ハリーファの腕に落ちた。
温かい。まだ生きている。
そして、その軽さが、ハリーファの胸に重くのしかかる。
ハリーファは黙って頷いた。
その瞬間、【悪魔】の姿は風に溶けた。
煙と共に夜に消え、何も残さなかった。
ただ、ジェードの肩にすがるように、ハリーファはそっと囁いた。
「……今度こそ、離さない。俺が死ぬまで、お前の傍にいる」
その時、雨が降り始めた。ぽつぽつと顔に水がかかる。
それはハリーファにとって不思議な感覚だった。
ハリーファは空を見上げた。
――俺は、約束を守れたのか?
ジェードの顔にも雨がかかり、ジェードは意識を取り戻した。
ゆっくりと開いた黒い瞳は、ハリーファの翠の瞳を見つめた。
「ハリ……?」
「……行こう」
「……どこへ、行くの?」
「ヘーンブルグの、お前の家でもいいし……何処でもいい。お前が行きたいところに」
ジェードはハリーファの腕から立ち上がろうとしたが、足の痛みによろめくと、再びハリーファの腕の中に倒れこんだ。
「歩けない……」
ジェードの瞳に涙が滲んだ。足に火傷を負っていた。
「歩けないなら、おぶってやる」
ハリーファはジェードを背中におぶると、雨の中を歩き出した。
おぶられて、ハリーファの肩にジェードは顔を寄せた。
「……帰りたい」
ハリーファの背中で、ジェードがぽつりとこぼした。
雨脚はいっそう激しくなり、去っていく二人の姿を隠した。
廃礼拝堂の扉は、軋んだ音を立てて開いた。
ハリーファは背に抱いたジェードの体温が失われていくのを恐れるように、そのまま誰もいない堂の奥へと歩を進めた。
かつて天使に祈りを捧げるための祭壇は、いまは埃を被っている。
けれど、礼拝堂の隅には、埃避けのためにかけられた大きな布と、少しばかりの干し草が残されていた。
ふたりはそこに身を寄せ、互いの濡れた衣を静かに外した。
肌が見える前に、ハリーファは大きな布でジェードを包んでやった。
ジェードの髪から滴る雫が、ハリーファの胸を打つ。
冷たい水音とは裏腹に、ハリーファの鼓動は熱を帯びていく。
「……寒くないか?」
そう問うと、ジェードはかすかに首を横に振る。
そして、伏し目がちにささやいた。
「……ハリがいれば、あたたかいわ……」
それだけで、すべてが決まった。
ジェードは、自分を包んでいた布を広げハリーファにも掛けると、自分の方へ引き寄せた。ふたりの体は自然と重なっていった。
何も急がず、ただ、確かめるように。
ハリーファの手が、ジェードの濡れた髪を撫でる。
頬をなぞり、肩へ、背へ。細くなった腰のくびれをゆっくり抱き寄せ、胸元に顔を埋めた。
「怖かった。……また、おまえを失うんじゃないかって」
その震える吐息に、ジェードは指先でそっと彼の髪を撫でた。
「わたしも……。もう、会えないって、思ったの」
その言葉に、ハリーファは顔を上げ、ジェードの瞳を見つめた。
唇がふれる。
最初は確かめるように、触れるだけの口づけ。
次第に深く、息を重ねるように、熱が交わっていく。
ふたりの間には、言葉も、過去も、何もいらなかった。
あるのはただ、いま、この一瞬だけ。
ジェードの手がハリーファの背をなぞり、ハリーファの体に溶け込むように寄り添った。
息が、熱が、肌が、まるで祈りのように重なっていく。
(……ハリ……)
ジェードが言葉や心で、ハリーファの名前を呼ぶたびに、胸の奥の何かが溶けていった。
夜は長く、雨は降り続いた。
その礼拝堂の中で、ふたりは何度も互いの名を呼び、確かめるように、抱きしめ合った。
過去に背負ったすべてを、傷を、後悔を、ただふたりで溶かしていくように――
夜が明ける頃には、濡れた衣も、冷えた身体も、すべてが忘れられていた。
朝が来ても、ふたりはただ隣に眠っていた。
互いの鼓動を確かめながら、静かに、深く息を交わしながら。
それはきっと、二百年前に叶えられなかった約束の、やり直しだったのだろう。