表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
192/193

91.遠い約束

 ファールークには、こういう諺がある。

  『約束は雲、履行は雨』

   西大陸(モリス)では雲は出ても、雨が降ることは珍しい。

   ――約束は守られないと言う意味だ。




 正午の処刑はひとまず中断されたが、ジェードの縄が解かれることはなかった。

 ジェードは柱に縛り直され、周囲を兵に囲まれながら、静かに立たされていた。

 隙を見て、ジェードは手首に巻かれた縄に、かすかに力を込めた。しかし、きつく縛られた縄は少しも緩まない。

 『あの時の魔女』とはきっとルースのことだ。ルースが混乱の種を撒いてくれていたことで、少しだけ時間を稼いでくれた。

 そして、ホープも時間を稼いでくれた。

 ジェードも、自分の命を守るため戦わなければと覚悟を決めた。

 誰にも命を支配されずに死ぬために――。

 自分の意志で、生き延びるために。


 時間は過ぎる。

 午後一時。火刑場の秩序は徐々に戻りつつあった。

 逃げて行った観衆が、まだ火刑は執行されていないのかと集まってきた。


 張り詰めた空気の中、火刑台の上でジェードは微動だにせず立っていた。

 背後にはすでに神官がたいまつを持って立っている。

 焚き木に鼻を突く焦げた匂いが混じり始めていた。


 観衆は静まり返っていた。

 その沈黙は、恐怖なのか、疑念なのか、誰にも分からなかった。

 一度、深く息を吸い込む。

 息を吐ききったあとで、ジェードは観衆に向かって言葉を発した。

「わたしは、魔女ではありません」

 一瞬、ざわめきが走る。

「でも……本物の魔女を、わたしは知っています」

 神官が一歩前に出ようとするが、何かに圧されたように足が止まる。

 ジェードは視線を上げ、広場を見渡した。

「その魔女は、十五年間、地下の闇に閉じ込められていた。光も、風も届かない場所に……たった一人で。なのに死ななかった。食べなくても、衰えず、彼女は、生きていたんです」

 ざわ……と、群衆が揺れた。

 最前列の男が、まるで独り言のように呟いた。

「……嘘だろ……」

 その声が、水紋のように広がっていった。

「髪は黒く、瞳は翠色。肌は雪のように白く、まるで、時間の檻の外に一人だけ置き去りにされたような、そんな姿でした。

 わたしは……その魔女に、救われたんです。誰も助けてくれなかったとき、あの魔女だけが、わたしを抱きしめてくれた」

 人々の目が揺れていた。

 誰かが小さく十字を切り、誰かが「それは、天使では?」と呟いた。

「……だから、もし魔女が、悪だというなら……なぜ、その人が、誰かを助けるのでしょう? なぜ、その魔女が、命を賭けて、人を愛そうとしたのでしょう?」

 ホープは、群衆の端からその姿を見上げていた。

 拳を強く握りしめ、唇を噛む。

 ジェードの声が、あまりにまっすぐで、あまりに透き通っていて――

 どんな理屈も、騙しの言葉も、敵わないような気がしていた。

(……これが、ジェードの意志なんだ)

 そう思った時、ホープの胸に静かな痛みが走った。

「わたしは、今ここで焼かれようとしています。理由は、黒髪だから。理由は、魔女と関わったから。でも、それだけで、悪と呼べるでしょうか? わたしは、この目で見たんです。本物の魔女が、誰かを愛して、生きようとしていた姿を」

 その言葉に、誰かが泣き出した。

「……親戚が、黒髪なんだ……」

 そう呟いた母親が、子どもを抱き寄せた。

「じゃあ、魔女は、ただ誰かを守っただけなの……?」

「この子が、異端って言われるのは、おかしいわ」

「私たち……何を見てたんだ……?」

 観衆のなかで、最初に震えたのは、罪の意識だった。

 神官の手が、わずかに震えた。

 そして次の瞬間、たいまつは静かに地面へ下ろされた。

「……止めよう、これ以上は……」

「これは、処刑じゃない。虐殺だ」

「天使様が、本当に望んでることなのか?」

 怒りではなく、哀しみが広がっていった。

 民衆の中に、抗議の声ではなく、問いが生まれていた。

 その時だった。

 ホープが叫んだ。

「聞いたか!? この子は、誰も呪っていない! 誰にも災いをなしていない! なのに、黒髪だと言う理由で、焼こうとしているんだぞ!! 魔女と関わっただけで火を放つなんて、それこそ、神に対する反逆だ!!」

 その言葉に、神官が顔を歪めたが、何も反論できないままだった。

 火は、まだ灯されていない。

 ジェードは火刑台の上で、静かに目を閉じる。

 自分が何を変えたのか、彼女には分からない。

 けれど、ほんの一瞬、風が止まり、空気が静まり、天のどこかが、わずかに震えたような気がした。

 ――その時だった。

 どこからともなく、冷たい風が吹いた。

 空はまだ青かったはずだった。

 だが、広場の上空に、ゆっくりと、不気味な灰色の雲が湧き上がってくる。

 重たく、低く、まるで空が地に落ちてくるような圧迫感。

 神官たちが空を見上げた。

「……これは、何だ……?」

「天候の異常か? こんなに急に……」

 ごうと風が吹き抜け、火刑台の焚き木が、ぱちりと小さく音を立てる。

 たいまつの火が揺れ、神官の手から今にも落ちそうになった。

 その刹那――

 雷鳴が鳴った。ごろごろ、と、どこか遠くの空が軋んだ。

 その音は、まるで大地の奥から何かが目覚めるような、低く鈍い音だった。

 群衆がざわめき始める。

「天罰……なのか……?」

「魔女の呪いじゃないのか……?」

「いや、これは――神が怒っておられるのでは……?」

 神官がたいまつを掲げるが、吹きつける風に炎が煽られる。

「待て、火が……!」

「この風じゃ危ない! 火がまわったら、広場全体が……!」

 ジェードは、火刑台の上で、空を仰いでいた。

 その目に、恐れはなかった。

 ホープはその姿を見て、息を呑んだ。

 まるで、天がジェードの言葉に応えたかのようにさえ思えた。

 神官が、動けずにいた。

 兵たちも、命令を仰ぐ目をしていた。

 そして、司式官の一人が、ついに判断を下す。

「この天候では、火刑は一時中止とする! 火が暴れれば、被害は街にも及ぶ! 再度、時刻を定め、改めて儀式を行う!」

 その言葉に、観衆がどっとざわめく。

 そして、次第に人々は、広場を後にし始めた。

 火刑は延期された。

 しかし、それがほんの数刻の猶予にすぎないことを、誰もが感じていた。

 猶予を得たのは、ほんのひととき。

 だが、そのひとときが、運命を左右するのだと、ホープは信じていた。



 そして、とうとう、黒い雲を運んできた風が止んだ。 

 役人の一人が、再び火刑に使う焚き木の準備を進めていたのを、ホープは見逃さなかった。

「待て、まだ審問記録が――!」

「聖徒様、審問記録に不備はありませんでした。処刑は、予定通り執行されます」

 高位神官が静かに宣言した。

「そんな……!」

 延期された火刑が、再開という形で進行される空気が濃くなる。

 そして、午後二時半。

 火刑台の周囲に火がくべられ、火打石を持った修道士が進み出る。

 ジェードは柱に括られたまま、じっと空を見つめていた。


 誰もが呼吸を呑む中――


 王都の主塔から騎馬の一団が現れた。黒地に金の刺繍の施された旗を掲げた軍装の騎士たちが、整然とした列を組みながら石畳の道を割って広場へ進む。

 その先頭にいたのは、漆黒の軍馬にまたがる、魔女王ギリアンだった。

 民衆はざわめき、道を開けた。

「王……!」

「陛下が、直々に……?」

 兵たちが敬礼を取る隙もなく、ギリアンは馬から飛び降り、すぐさま火刑台の前に立った。マントが風にはためき、王冠の蒼い宝石が光を跳ね返す。

「火刑を――中止せよ」

 その声は低く澄んでいて、軍令としての重みがあった。

 神官たちは一瞬、言葉を失ったように立ち尽くす。

「この裁きは、国法において不備がある。審問の記録にも、正当な尋問の証拠が存在しない。信仰を根拠に命を奪うことは、もはやヴァロニアの正義ではない」

 ギリアンは、火刑台の上のジェードに目をやった。ギリアンの目は、微かに揺れていた。

(八年前、僕は何も出来なかった。だが、今は、王として――)

 しかし、神官の一人――高位の司式官が、口を開いた。

「……この場においては、信仰が法を凌駕する。王命といえど、神の命に逆らうことはできませぬ」

 その言葉は、静かだった。だが、すでに松明は再び持ち上げられていた。

 ギリアンは一歩、前に出た。

「王命だと言っている」

 その瞬間、彼の周囲を固めていた兵が剣に手をかける。

 しかし。神官たちは、まるでそれすら見えていないかのように、淡々と火刑の儀式を進めようとした。

「焚き木に火を……」

 修道士が火打石を打った。

 ギリアンの目が見開かれる。

「やめろ!」

 その叫びは、広場全体に響き渡った。

 だが、無情にも火花が焚き木に落ち――ぱち、と小さく火が点いた。

 乾いた薪が、音を立てて燃え上がる。

 ジェードの足元をなぞるように、焚き木の炎が走る。

 神官の顔に、満足げな安堵が浮かんだ。

 ギリアンの拳が震える。

「……王の命令が、宗教の名のもとに……踏みにじられるとは」

 ぱきぱきと焚き木の爆ぜる音と共に、炎がカーテンのようにジェードの姿を隠す。

 まさにその瞬間だった。


 空が、唸った。

 風が唸り、光が拒絶され、雷鳴が、大地の底から轟くように鳴り響く。

 人々が振り返る。天を仰ぐ。


 そして――

 炎の中に、少年が歩み出てきた。

 金の髪。翠の瞳。光と影を裂いて現れた、名もなき裁き。

 ギリアンは、その姿を見て、目を見開く。

(ヴィンセント? いや……これは、誰だ?)

 風が吹く。

 神官の松明が炎を失い、観衆が悲鳴を上げる。

 裁きは、もはや人の手から離れた。


「……ハリ……?」

 ジェードの声は震えていた。

 少年は何も言わず、ジェード歩み寄ってきた。


 ――そして、風が吹いた。


 炎が少年を避けるように左右に割れた。

『すまない、遅くなった』

 その声は、ハリーファに間違いなかった。

 ジェードは、縄に縛られたまま、呆然と少年を見上げる。

 涙がこぼれそうになるのを、必死で堪える。

「……来てくれたの……?」

『ああ。助けに来た』

 少年は指を伸ばし、ジェードの手首に軽く触れた。

 縄が、何も使わずにするりと解けた。

 抱きとめるように腕を引き、火刑台の縁に飛び降りる。

 兵たちはその姿に声を失い、数少ない群衆は八年前を思い出して、再び逃げていく。

『大丈夫。もう安全だ』

 少年の声は落ち着いていて、優しく、どこか、作られたように完璧だった。

 でも、ジェードは疑わなかった。

 その目に映るのは、ただ一人、自分を迎えに来てくれた少年の姿だけ。

 ――ハリーファが来てくれた。

 それだけが、今のジェードにとって真実だった。




*   *   *   *   *




 煙はもう消えていた。

 火刑台は焼け落ち、兵たちは騒ぎに呑まれて四散している。

 その片隅の、影の濃い裏路地に、一人の少年が、ジェードを抱きかかえて立っていた。

 ジェードは意識を失っていたが、呼吸はしっかりしている。

 そこへ、肩に血をにじませ、足を引きずるハリーファが現れた。

 足元はふらつき、すでに限界に近かった。

 それでもハリーファは、迷うことなくその姿を見つけ、そして、凍りついた。

 自分と同じ姿を認めた瞬間、ハリーファの動きが止まる。

 ジェードを抱いていた少年は、まさしくハリーファと瓜二つだった。

 髪、瞳の色、顔立ち、背格好――。

 翠の奥に、夜の深淵のような、光を孕んでいた。

『遅かったな、ハリーファ』

 その少年は、まるで兄のように、あるいは父親のように、微笑んだ。

 どこか懐かしい声。耳の奥に、触れた記憶のように響いた。

【悪魔】(ラース)……」

 ハリーファは目を細めた。父親のはずだが、今はまるで鏡に映った双子のようだ。

 【悪魔】(ラース)が居るという事は、

「ジェードは……死んだのか……?」

『今回は、この子の姉の願いの履行だ。彼女(ルース)の望みは二つあった。一つはこの娘(ジェード)を守ること。そして、もう一つは、この娘(ジェード)が最後に幸せになること』

 【悪魔】(ラース)は、ジェードをそっとハリーファに預けた。

『二つ目は、お前の役目だ』

 ジェードの身体が、ハリーファの腕に落ちた。

 温かい。まだ生きている。

 そして、その軽さが、ハリーファの胸に重くのしかかる。

 ハリーファは黙って頷いた。

 その瞬間、【悪魔】の姿は風に溶けた。

 煙と共に夜に消え、何も残さなかった。

 ただ、ジェードの肩にすがるように、ハリーファはそっと囁いた。

「……今度こそ、離さない。俺が死ぬまで、お前の傍にいる」

 その時、雨が降り始めた。ぽつぽつと顔に水がかかる。

 それはハリーファにとって不思議な感覚だった。

 ハリーファは空を見上げた。

 ――俺は、約束を守れたのか?

 ジェードの顔にも雨がかかり、ジェードは意識を取り戻した。

 ゆっくりと開いた黒い瞳は、ハリーファの翠の瞳を見つめた。

「ハリ……?」

「……行こう」

「……どこへ、行くの?」

「ヘーンブルグの、お前の家でもいいし……何処でもいい。お前が行きたいところに」

 ジェードはハリーファの腕から立ち上がろうとしたが、足の痛みによろめくと、再びハリーファの腕の中に倒れこんだ。

「歩けない……」

 ジェードの瞳に涙が滲んだ。足に火傷を負っていた。

「歩けないなら、おぶってやる」

 ハリーファはジェードを背中におぶると、雨の中を歩き出した。

 おぶられて、ハリーファの肩にジェードは顔を寄せた。

「……帰りたい」

 ハリーファの背中で、ジェードがぽつりとこぼした。

 雨脚はいっそう激しくなり、去っていく二人の姿を隠した。






 廃礼拝堂の扉は、軋んだ音を立てて開いた。

 ハリーファは背に抱いたジェードの体温が失われていくのを恐れるように、そのまま誰もいない堂の奥へと歩を進めた。

 かつて天使に祈りを捧げるための祭壇は、いまは埃を被っている。

 けれど、礼拝堂の隅には、埃避けのためにかけられた大きな布と、少しばかりの干し草が残されていた。

 ふたりはそこに身を寄せ、互いの濡れた衣を静かに外した。

 肌が見える前に、ハリーファは大きな布でジェードを包んでやった。

 ジェードの髪から滴る雫が、ハリーファの胸を打つ。

 冷たい水音とは裏腹に、ハリーファの鼓動は熱を帯びていく。

「……寒くないか?」

 そう問うと、ジェードはかすかに首を横に振る。

 そして、伏し目がちにささやいた。

「……ハリがいれば、あたたかいわ……」

 それだけで、すべてが決まった。

 ジェードは、自分を包んでいた布を広げハリーファにも掛けると、自分の方へ引き寄せた。ふたりの体は自然と重なっていった。

 何も急がず、ただ、確かめるように。

 ハリーファの手が、ジェードの濡れた髪を撫でる。

 頬をなぞり、肩へ、背へ。細くなった腰のくびれをゆっくり抱き寄せ、胸元に顔を埋めた。

「怖かった。……また、おまえを失うんじゃないかって」

 その震える吐息に、ジェードは指先でそっと彼の髪を撫でた。

「わたしも……。()()()()()()()()()()()()

 その言葉に、ハリーファは顔を上げ、ジェードの瞳を見つめた。

 唇がふれる。

 最初は確かめるように、触れるだけの口づけ。

 次第に深く、息を重ねるように、熱が交わっていく。

 ふたりの間には、言葉も、過去も、何もいらなかった。

 あるのはただ、いま、この一瞬だけ。


 ジェードの手がハリーファの背をなぞり、ハリーファの体に溶け込むように寄り添った。

 息が、熱が、肌が、まるで祈りのように重なっていく。

(……ハリ……)

 ジェードが言葉や心で、ハリーファの名前を呼ぶたびに、胸の奥の何かが溶けていった。


 夜は長く、雨は降り続いた。

 その礼拝堂の中で、ふたりは何度も互いの名を呼び、確かめるように、抱きしめ合った。

 過去に背負ったすべてを、傷を、後悔を、ただふたりで溶かしていくように――



 夜が明ける頃には、濡れた衣も、冷えた身体も、すべてが忘れられていた。



 朝が来ても、ふたりはただ隣に眠っていた。

 互いの鼓動を確かめながら、静かに、深く息を交わしながら。




 それはきっと、二百年前に叶えられなかった約束の、やり直しだったのだろう。










評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ