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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
191/193

90.代理戦争

 1429年5月30日――。


 リューエル城では、戦支度の整う音がわずかに聞こえはじめていた。

 それは儀式であり、代理戦争の幕開けを告げる音だった。

 その一方で、ハリーファは閉じ込められていた。

 扉には内側からも外側からも鍵がかけられ、侍女と兵が控えている。

 夜はほとんど眠れなかった。

 窓から見えるのは南西の空、ランスのある方角だった。

 この空の向こうで、正午にジェードが火刑に処される。

 窓辺に立ったまま、ハリーファは静かに拳を握りしめていた。

 扉の向こうに控える兵が、何気ない口調で話しているのが聞こえた。

「……もうすぐ時間だな。『ヴァンデの悪魔』とやり合うとか正気じゃねえ」

「でも、軍師様は勝てば自由になるらしいぜ?」

「その代わり負けたら、魔女王国に引き渡しだとよ」

 遠くで鳴る戦の合図。

 それは、城中に張りつめた緊張を満たしながら、ゆっくりと近づいてくるようだった。




*   *   *   *   *




 ホープは駆けていた。まだ時間はある。

 痛む左肩を気にする暇もない。剣も持たず、ただ礼服のまま、群衆をかき分けて。

 けれど、広場のある通りが見えてきたとき、彼の足は止まった。

 石畳の広場が、金の髪の民衆で埋まっている。

「……なんだ、これ……」

 祭りではない。

 異様なざわめき。誰かが十字を切り、誰かが「火刑台が建った」と囁く。

 ホープは歩み寄る。

「通してくれ! 中に入れてくれ!」

「だめだ! 火刑の準備中だ! 王命が下るまで、中には入れない!」

 護衛兵の声が飛ぶ。

 ホープの前に立ちはだかるのは、見たことのない神殿衛士たち。

 ホープは叫ぶ。

「火刑にかけられるのは、誰だ!!」

 誰も答えない。

 そのとき、群衆の誰かがぽつりと呟く。

「黒髪の少女で……名前は、ジェードだってさ」




 同じ時刻。

 中央大教会では、厳かな鐘が鳴り響き始めていた。

 まだ民衆は知らない。だが、関係者には通達されていた。


 ――本日正午。石畳の広場にて、異端者ジェードの火刑が執り行われる。


 異端審問所の地下牢では、ジェードが一人、座っていた。

 手枷はされていない。部屋には窓も、拷問具もない。

 ただ、見張りの修道士が一人、無言で扉の前に立っている。

(ルー姉さんも……こうして、最後の朝を迎えたのかな)

 そんなことを考えながら、彼女は空を見た。

 もうすぐ、この小さな天窓から、太陽が真上近づく。

 ――その時、一つ鐘が鳴った。




*   *   *   *   *




 ハリーファの待つ部屋の扉が開いた。

「準備が整いました。軍師様、式場へご案内いたします」

 見張りの兵が頭を下げる。

 そこに敵意はない。命令に従っているだけの、軍の機構の一部。

 ハリーファはゆっくりと踵を返すと、扉の向こうへ歩き出した。

 その目に、怒りも迷いもなかった。

 ただ確かに、命を賭す者の覚悟が宿っていた。

(間に合わなくても、俺は、必ずジェードのそばに行く……)




 時刻は、午前十一時を少し過ぎた頃だった。

 石の壁に囲まれた、冷えた地下の闘技場。

 炎の灯火が揺れ、床にはうっすらと霧が立ち込めていた。

 その中心に、二人の影が向かい合って立っている。

 ヴィンセントは、抜き身の剣を片手に静かに立っていた。

 鎧のない身体。それでも、威圧感は軍勢すら屈させるような鋭さを放っていた。

 一方のハリーファは、まだ剣に手をかけたまま動かない。

 その顔に、迷いはなかった。だが、どこか静かすぎた。

 沈黙が数拍、流れた。

 その空気を破ったのは、ハリーファの声だった。


「……降伏しないか?」


 ヴィンセントが、ほんのわずかに目を見開いた。

「――今、何と?」

「聞こえただろう。……お前が退けば、剣は要らない。血も流れない。――それが最善だ」

 ヴィンセントは微笑した。皮肉ではない。

 どこか、懐かしい記憶に触れたような微笑だった。


 ――ユースフなら、戦う前に閣下に『降伏しないか?』って言うと思います。


 ルースの言葉が、脳裏をよぎる。

(やはり――、)

「君とは、()()()()()()()()()()()()()()ようだ」

 ヴィンセントは剣を構えた。その瞳には、もう迷いはない。

「私にとって、もはや代理戦争ではない。私はこの戦いで、ユースフを越える――君に勝つことで、ルースとの約束を果たす」

 そして、視線を鋭く結んだ。

「私も、手に入れたいのだ! 手に入れられない女を! ユースフが聖地を壊したように――!」

 ハリーファの呼吸が変わった。

 剣を抜くその音は、まるで、過去との決別のように澄んでいた。

「……俺は、ユースフじゃない。俺は、(ハリーファ)だ」

 その声は誰にも届かず、だが確かに、空気を震わせた。

「……俺は、これ以上、ジェードを――独りにはしない」

 二人の間に、ぴんと張りつめた気が走った。


 誰も声を上げない。

 誰も音を立てない。

 ただ、時間だけが進み――


 正午へと、迫っていた。




*   *   *   *   *



 

 正午の鐘が街に響いた。


 すでに広場は見物人で埋めつくされていた。

 再び鐘の音が乾いた空に鳴り響く。

 ざわざわする人々の中を「道を開けよ!」と声をはりながら、数人の兵士が人を押しのけて中央に突き進んで行く。

 いよいよ魔女の登場だった。人々は期待と恐怖を抱いてその場に立ち尽くしていた。

 前後を役人に挟まれ、黒髪の少女――ジェードが堂々と歩いてくる。衣は乱れ、手首は縄で縛られているが、彼女の瞳には一分の濁りもない。

――【黒】だ

――魔女だ

――【黒】い髪だ 

 ジェードは黙ったまま前を見据え、すでに焚き木の香りを肺に吸い込んでいた。

 人々がざわめく中、一人の青年がグイグイと群衆をかき分けて前へ出てきた。

 その痩身の青年は息を呑み、ジェードを指差した。

「……おい! やっぱりこの女だ! この女、あの時の魔女だ!!」

 ジェードは不思議そうに男を見つめた。

「あの時って……?」

 周りが騒がしくて、ジェードの声は男まで届かなかった。

「おれを蹴り飛ばした、本物の魔女だ! 八年前、本物の魔女は、火あぶりでも死なないって言ってたんだ!」

 青年の言葉にさらに周りがざわつきだした。

「……本当だ、あの時の魔女だ……!」

 周囲の人々が振り向く。

「思い出したよ! 蘇って、ここに戻ってくるって言ってた!」

 観衆が一気にどよめいた。

「あの時の魔女が、蘇ったのか……?」

 金髪の観衆たちは、さらに慌てだし、ジェードは身動きが取れなくなった。

 兵士までも人の波にのまれて、進めないようだ。

「あの時、あの後のことを覚えてるかい?」

「確か、周りが夜みたいに真っ暗になった!」

「また、悪魔が……現れるのか?」

 誰かがそう叫ぶと、群衆の動きが変わった。

 不安と恐怖の波が広がりはじめた。ひとり、またひとりと後退を始める。

「逃げろ……! また呪いが始まるぞ!」

「前の時も、火が……空まで届いたんだ!」

 観衆が雪崩を打つように広場から散っていく。

「こら! 走るな! うわぁっ」

「きゃぁっ……」

 役人とジェードも、火刑台から来た方向へと押し戻される。

 石畳の広場は騒然とし、見物人はほとんど居なくなってしまった。


「ジェード!!」

 観衆が居なくなり、ホープはやっとジェードの姿を見つけた。

 駆け寄るが、役人は槍で、ホープがジェードに近づくのを防いだ。

 そして、ジェードは火刑台に連れて行かれた。

「離れろ! お前も処刑されたいのか!」

 ホープは怯まず、役人の槍の前に立ったまま声を張り上げた。

「この火刑――待ってください!」

 広場に響く声に、残っていた数人の兵士が振り向く。ジェードも、ハッとしたようにホープを見た。

「ぼくは、王都直属の聖徒ホープ・ダークだ。この処刑には、不備がある!」

 騒ぎに紛れて逃げ損ねた見物人たちが、再び足を止めた。

「審問記録の提出が行われていない! 王印が使われたとの報せを受けて、宰相府から教会への通達が、すでに出ているはずだ!」

 役人たちが戸惑い、顔を見合わせる。民衆の騒ぎで、誰が指揮を取っていたのかも、曖昧になっていた。

「それに、処刑台は正式な王命に基づく場ではなく、宗教裁判所単独の裁定だ! これは儀式であって、法ではない!」

 ホープは、痛む左肩を押さえつつ、それでも一歩も引かずに続けた。

「このまま火を放てば、王の許可なき処刑として、王都全域に異端審問の越権が知られることになる! お前たちは、その責任を取れるのか!?」

 その言葉に、焚き木へ火を近づけようとしていた神官が手を止めた。

「責任、だと……」

「宰相府調査部の命により、中央大教会に対して、正式な延期要請が出ている! 今この場で火を放てば、その命令を無視した反逆と見なされる!」

 兵士たちの顔が一斉に曇る。誰もが火をつけようとせず、足元の火口を見下ろす。

 沈黙のなか、ジェードはホープに目を向けた。

 ホープはその目に気づき、かすかに微笑む。だが、その笑みは涙を堪えたものだった。

「……少なくとも、あと一刻は止められる」

 ホープは、己に言い聞かせるように、ジェードの方へ歩を進めた。

「少しでも時間を稼げば、きっと誰かが来てくれる」

 ホープはそっと言った。

 しかし、その()()が、ギリアンか、ヴィンセントか、ジェードから聞いた第二皇子(ハリーファ)かは、ホープにはわからなかった。




*   *   *   *   *




 正午の鐘が鳴った。

 だが、二人は止まらない。

 むしろ――そこからだった。


 ハリーファの目が変わった。感情が消えている。

 瞳には、ただ勝利と殺意だけがあった。

 ヴィンセントの剣筋を一つ読み、手首へ斬り込む。

 反応が遅れれば、それだけで関節が砕けていた。

(本気になったな)

 ヴィンセントの表情が、喜びに近い熱を帯びる。

「来い、名もなき軍師。お前のすべてを曝け出せ!」

 次の瞬間、ハリーファの剣が閃いた。

 軌道は常軌を逸していた。

 まるで生き物のように螺旋を描き、あらゆる反撃の予測を潰す殺しの剣。

 避けきれず、ヴィンセントの左腕が裂けた。血が舞う。

 それでも、彼は笑った。

(いいぞ。それでこそ、命を懸ける価値がある)

 ヴィンセントは踏み込む。

 ハリーファの剣をわずかにかわし、懐へ飛び込む。

 衝突。肘打ち。膝蹴り。

 近接の連打が叩き込まれる――だが、ハリーファはまったく怯まない。

「――死ね」

 ハリーファの声が低く響き、ヴィンセントの喉元へ刃が振り下ろされる。

 その一瞬。

 ヴィンセントは笑っていた。

「その一言が、聞きたかった」

 剣ではなく、素手でハリーファの刃を止めた。

 血が滴る。だが――止めた。

 そして、ハリーファの反応が一瞬遅れたその刹那。

 ヴィンセントの右足が地を蹴る。

 回転しながら腰を沈め――振り上げた刃が、火花を散らしながらハリーファの剣を叩き落とした。


「――終わりだ!!」

 斬撃が炸裂する。


 ハリーファの剣が折れた。

 そのまま地に膝をついて崩れたが、ヴィンセントを下から睨み上げた。

 深く、肩を斬られていた。だが、致命傷ではない。

 静寂が満ちる。


「闘士ハリーファ、武器破損により戦闘不能――勝者はヴィンセント・フォン・ヘーンブルグ!」

 立会人の声が高らかに響いた。 

 床に、二人の影と血の跡だけが残った。

 ヴィンセントは剣を下ろし、乱れた息を整える。

「本物だった。君こそが、戦場の怪物だ」

(剣は折れたが、精神が折れていない。これが儀式でなければ、私の負けだったかもしれん)

 ハリーファは、黙って拳を握り締めていた。

「だが、私は一騎打ちで(ユースフ)に勝つ。それがルースとの約束だ」

 ただ一つの個人的な感情、叶わぬ想いを超えるための戦い。

 それが終わった瞬間、ヴィンセントはようやく自分がギリアン陣営の駒だったことを思い出した。

 剣が折れ、地に膝をついたハリーファを前に、ヴィンセントは高らかに宣言した。

「勝者として、要求する! 契約通り、オニキスのペンダントの返還! 並びに、第二皇子の身柄を!」

 高座に立つリナリーは、黙したまま首もとに手を伸ばす。

 襟元にかけられた、ひときわ黒い石――オニキスのネックレスを外した。

「……王太妃リナリー・フォン・シーランドとして、契約に従い、それを認める」

 低い声で言うと、リナリーは手の中のオニキスをしばし見つめ、次の瞬間、それを迷いなく投げつけた。

 オニキスのペンダントは、ヴィンセントの足元で硬く床を跳ねる。

 音だけが、静寂の中で残響のように鳴った。

「……受け取りなさい……。私の敗北だ」

 ヴィンセントに向けた声は凛としていた。だが、その瞳の奥には悔しさと、どこか名残惜しさが混じっていた。

「……ハリーファの身柄も、そなたのものだ」

 ハリーファが、ふらふらと立ち上がり、外へと歩み出した。

 ヴィンセントは問いかけた。

「ハリーファ、何処へ行く」

「……王都へ、向かう」

 リナリーはわずかに笑った。

「王都までは三刻。火はもうくべられているだろう」

 ハリーファは振り返らずに走り出した。

 背後に、敗者の誇りと、勝者の沈黙を残して。


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