89.薔薇の棘
ハリーファが閉じ込められている客間の鍵が開いた。
時間は黄昏、入ってきたのは、王太妃リナリーだった。
絹の裾が石床をかすめる。
後ろには文官らしき人物と、衛兵が控えていた。
ハリーファは窓辺から視線を逸らさず、背中で気配を迎えた。
「報せだ」
リナリーは巻物を卓に置いた。どこか他人事のような声音だった。
「王都で、ジェード・ダークが拘束された。この小娘、そなたが一緒に行動していた黒髪の娘だろう?」
ハリーファはゆっくりと顔を向ける。
「療養の名目で教会に引き渡され、審問は既に終わったそうだ」
一瞬の沈黙。
「療養? ……どういうことだ?」
ハリーファにはリナリーの言うことがわからなかった。
リナリーは唇の端をわずかに持ち上げた。
「西国の皇子は知らぬのだな。異端の札が貼られた時点で、命の猶予はないという事だ」
ハリーファの瞳が細くなる。
「信仰と統治が同一である国のやり方か」
「察しが早いな。神を否定した者は、国家をも否定したと見なされるのだ」
「……悪趣味な」
ハリーファは気付かれないように奥歯を噛んだ。
「……処刑の日時は?」
「明後日、正午。王都ランスの広場だ」
リナリーはわざとらしく肩をすくめて、言う。
「そなた、ジェードとやらを助けに行きたいのだろう? 旅の仲間なのだから」
リナリーの声は柔らかかった。
だが、その言葉が告げるものは、あまりにも冷たかった。
ハリーファの指先が、わずかに震える。
だがその震えすら、すぐに押さえ込まれる。
リナリーは、巻物を示した。
「これは、そなたと私との契約書だ。明日の午前、敵方と正式な代理戦争の宣誓が交わされる。その内容を、そなたにも了承してほしい」
文にはこう記されていた。
代理人任命契約書
王太妃リナリー・フォン・シーランドは、軍師ハリーファを、ヴァロニア王国軍との代理戦における己が「剣」として認める。
一、剣は、主の名において戦いに臨むこと。
一、剣が勝利したとき、主はその自由を認め、以後その行動に干渉しないこと。
一、剣が敗れたとき、その身は主の裁に委ねられること。
この契約は、主剣両者の署名をもって効力を持つ。
日付:1429年5月28日
主:リナリー・フォン・シーランド
剣:
後は、ハリーファが署名をするだけだった。
「勝てば、そなたは自由だ。どこへ行こうと、私が口を出すことはない」
「……本当に守られるのか?」
「――勝てば、な」
リナリーの微笑は、薔薇の棘のように優雅にして無慈悲だった。
ハリーファは書状に視線を落とす。
そして、ゆっくりと、拳を握る。
「明後日、ジェードと言う娘は、処刑台で魔女と同じ結末を迎える」
「……」
「私はそなたを縛らない。選べ。戦って自由を得るか、私の負けを傍観するか。それが、そなたの選択だ」
リナリーは契約書を残し、静かに部屋を後にした。
兵士が再び扉を閉め、鍵がかけられる音が響いた後、ハリーファは椅子を蹴るようにして立ち上がった。
契約書を睨む。
その目は、憎しみで血が滲むほど燃えていた。
* * * * *
その翌日。
外界から切り離された室内に、差し込む朝の光が静かに広がる。
壁に飾られた天使と悪魔の浮彫りが、窓から射す光の角度で陰影を深め、空気には沈黙という名の重さが満ちていた。
中心には、深紅の絨毯の上に据えられた一つの長卓。その上には、誓約文が置かれていた。
文面は丁寧な筆致で書かれ、四隅にそれぞれの印を押す箇所が用意されている。
この場に集まっているのは、王太妃リナリー。
対する騎士・ヴィンセント・フォン・へーンブルク、そしてハリーファ。
証人として立ち会うのは、リナリー配下の高位聖職者二名のみで、形式を整えるための存在でしかない。
まず、リナリーが筆を取り、静かに名前を記した。
続いてヴィンセントが、何の躊躇もなくサインをする。その手に、一片の迷いもなかった。
そして、最後にハリーファが筆を取る。
ハリーファは一度だけ、文面を読み返し、わずかに唇を噛む。
文面は儀礼調でありながら、明瞭だった。
代理戦争誓約書・正本
王太妃リナリーの名において、以下の通り契約を締結する。
一、神聖ヴァロニア軍は、王国軍との戦闘において代理戦争を提起する。
一、両軍は各一名の代表騎士を立て、正規の場において一騎打ちを行うものとする。
一、神聖ヴァロニア軍の闘士は、ハリーファ・アル・ファールークとする。
一、王国軍の闘士は、ヘーンブルグ領主ヴィンセント・フォン・ヘーンブルグとする。
【勝敗の判定】
一、本戦の勝敗は、以下のいずれかの条件をもって決定される。
・武器の完全な破損または喪失
・致命に至る、もしくは戦闘継続が不可能と見なされる傷の負傷
・明確な降伏の意思表示
一、勝者は敗者の命を奪うか否かを、自らの裁量によって決定できる。
【ハリーファの条件】
勝者ハリーファが得るもの
一、亡ファールーク皇国第二皇子たる自己の身柄の自由を得る(追手なし・所在不問)。
一、王太妃リナリーおよび神聖ヴァロニア軍は、ハリーファの今後の行動に一切干渉しない。
一、王都ランスの占有権を、王国軍より正式に放棄させる。
一、王国軍の明け渡しに基づき、神聖ヴァロニア軍はランス市内の統治権・治安維持権を掌握する。
敗者ハリーファの処遇
一、勝者が命を取らない限り、敗者ハリーファは王国軍に引き渡される。
一、王国軍は、敗者を捕縛し、ギリアン・フォン・ヴァロアの裁定に従い処遇する。
【ヴィンセントの条件】
勝者ヴィンセントが得るもの
一、オニキスのペンダントを正式に返還される。
一、亡ファールーク皇国第二皇子の身柄を得る(生死問わず)。
敗者ヴィンセントの処遇
一、勝者が命を取らない限り、敗者ヴィンセントは王国軍に拘束される。
一、王国軍および神聖ヴァロニア軍において、政治的敗者としての扱いを受ける。
以上、両軍立会のもと、正当な形式をもって宣誓する。
日付:1429年5月29日
――署名は完了した。
「これで成立だ。代理戦争は明朝、城下の闘技場にて挙行される。双方の代表が一騎打ちで決着をつけ、勝者の条件が履行される」
リナリーが静かに告げる。
ヴィンセントの眼差しには、もはや戯れや駆け引きの影はなかった。
「これで、正式に道が開かれたな」
ハリーファに向けられた声には、確かな決意が宿っていた。
「私はこの戦で、君に勝つ。ただの勝利ではない。完全なる勝利をもって、君の影を超える」
その蒼い瞳は、まっすぐにハリーファを射抜いていた。
ユースフの記憶を背負う存在。ルースの心を奪う影を。
「これは私のための戦だ。そして、ルースとの約束を果たす唯一の機会だ」
ヴィンセントはハリーファに一礼した。騎士としての敬意を込めて。
だがその背には、どこか静かな怒りにも似た情熱が燃えていた。
「決して侮らぬことだ。私は、必ず勝ちに行く」
言い残し、ヴィンセントは振り返ることなくその場を去った。
それは、もはや代理戦争ではなかった。
一人の男が、一人の記憶を越えるために挑む、ただ一度の本戦だった。
重い扉が閉まる。
その瞬間、空気が切り替わる。
残されたハリーファが、ゆっくりとリナリーの方へ向き直った。
「――ここから、王都までの距離は?」
何気ないようでいて、研ぎ澄まされた問いだった。
リナリーは、微かに眉を上げた。
だが、表情を崩さず、滑らかに答える。
「馬で全力を出しても、鐘三つ」
(だが、ジェードには、そんなに時間はない)
刹那、空気が軋んだ。
ハリーファの指が、手にしていた筆を強く握りしめる。
その目には、殺気すら宿っていた。
「……お前、最初から――」
声は震えていなかった。怒声も吐かれなかった。ただ、底の見えぬほど冷えた声音だった。
リナリーはただ、優雅に微笑んでいた。
「私は、選ばせただけだ。そなたが、何のために剣を取るのかを」
「……やり方が汚いぞ」
静かだが、その声音には押し殺された怒りがはりついていた。
リナリーはわずかに肩をすくめ、あざけるでもなく、皮肉を込めるでもなく、ただ事実を告げるように、冷たく返す。
「そなたも、大概にして汚いと思うが?」
ハリーファの拳が、小さく震える。
だが、それ以上は何も言わず、ただ静かに視線を落とした。
リナリーはそれを見届けると、踵を返す。
その後ろ姿を見送りながら、ハリーファは思う。
――間に合わないかもしれない。
けれど、ジェードを誰の手から救うのかは、もうはっきりした。
その場に、一枚の誓約書が残されていた。
闘技と政治と、個人の思惑が交錯する――血で綴られる運命の契約だった。