8-2
「ねぇ、ジェード。奴隷皇子様は、まだお怪我は治らないの?」
「うん。多分、そうみたい」
奴隷たちの間で、ハリーファは『奴隷皇子』と呼ばれているようだった。
ハリーファはもう杖なしで歩いているが、本当のところは良く分からない。わかるのは、とくかく毎日機嫌が悪いことだけだ。
ルカは「早く良くなるといいのにね」と心配そうな表情をうかべる。ルカの髪と瞳の色は、ジェードの故郷アレー村では見慣れた黒色で肌の色も白い。だが、同じ黒髪に黒い瞳の白人でも、きめの細かい肌質のジェードに対し、モリスで強い日差しを浴びて生活している白人の奴隷達の顔には、うっすらとそばかすが浮かび、睫毛も心なしか長い。
一見似たような風貌の二人だったが、ルカはヴァロニア人にはない異国的な雰囲気を帯びている。本当はジェードの方が、彼女たちから『異国的』と思われているのだろう。
井戸の横に木製の大きな水桶が運ばれ、年長の二人が向かい合って洗濯物を始めた。
「ほら! あんたたち早く水をくんどくれよ!」
ルカと、ジェードより年上のアルダは井戸水をくみ上げ、手馴れた様子で桶に水を移していった。ジェードも話しに加わりながら手を貸す。洗濯女たちは色々話しながらも、手は忙しなく仕事を続けている。
「それにしても、ルカは奴隷皇子様にえらくご執心だね。毎日ジェードに聞いちゃって」
熟年の洗濯女がしゃがんで洗濯をしながら、水を注ぐルカに向かってからかうように言った。ジェードの母親くらいの年齢の家奴隷だ。からかってはいるが、言葉尻はどこか優しげだ。
「だってまだ一度もお姿を見たことないんだもん。気になるじゃない」
「一度も会ったことないの?」
「ないわ」
ジェードは驚いてルカを見た。
「ジェードが来るまで、奴隷皇子様の話題なんて、全っ然なかったのよ。奴隷皇子様は奴隷がお嫌いらしいし」
あぁ、確かに、とジェードは思う。
「あたしは見たことあるよ。奴隷皇子様ってリューシャ様みたいな金色の髪だよ。肌も白いし」
割って入った熟年女の言葉に、ルカは井戸で水をくみ上げていたジェードの方に首を向けて確認した。
「ジェード、本当なの?」
「本当よ」
「じゃあ、宰相様や、第一皇子様とは全然似てないのね」
ルカが驚いていると、後ろから年配の家奴隷が口を出してきた。
「奴隷皇子様のお祖父様が白人だったからね」
ファールーク皇国の皇宮内の奴隷は、髪の色は金やら胡桃やら黒など色々いたが、全員白い肌をしている。皇族は皆、黒髪に黒い瞳、それに小麦色の肌だ。ハリーファとその母親を除いては。
ハリーファは今まであまり人目にさらされてこなかったため、どうやらハリーファのことをよく知らない奴隷は多いようだった。
ジェードが来る前はどうだったのかは知らないが、他の皇族が濃い色に美しく染め上げられた服を着ているのに比べると、ハリーファは奴隷たちと同じような、素地のままの白色の服ばかり着ている。服装や肌の色のせいもあって、ハリーファの姿を見ていたとしても、家奴隷たちは皇子だとは気づかなかったのかもしれない。
「ねぇ、ジェード。奴隷皇子様はどんなお方? 優しい?」
ルカにそう聞かれて、ジェードは何と答えて良いのかわからない。
「優しくは……ないかもね」
……言葉に困る。
しかし、初めこそハリーファにおびえていたが、ジェードに危害を加えるわけでもない。最近ではハリーファの冷たい態度にもすっかり慣れてしまっていた。
丸一日ハリーファと口をきかない日だってある。正直なところ、家奴隷たちの質問に答えられるほどジェードはハリーファのことを良く知らない。逆に家奴隷たちから、ハリーファのことを教えられることの方が多かった。
「朝は起きてこないし、食事もしないで、いつも本ばっかり読んでいるの。わたしとはあんまり話すこともないわ」
「ふーん。シナーン様はよく皇宮内で馬を乗り回したり、剣術の稽古とかしたりして、小さいころは井戸端にも来て、一緒に遊んだりもしたんだけどな」
ルカは思い出したように「わたし、昔井戸につき落とされたことがあるのよ」と言って頬をふくらませた。
「そういえば、ここのとこ第一皇子様もあんまり見かけないね。もう子どもの遊び相手はいらないってことね」
アルダがルカのふくらんだほっぺたをつつきながら言った。その様子は、まるで姉妹のようだ。
「奴隷皇子様は乗馬の練習とかしないのかな? そしたら奴隷皇子様を見に行けるのに」
乗馬と聞いて、ジェードの心がおどった。
「乗馬?! そうね、怪我が治ったら乗馬もするようにすすめるわ」
ジェードはくみくみ上げた水を、足元にルカが置いた木桶に流し込んだ。
「今までは第二皇子様は生まれてすぐに養子に出されてたんでしょ? どうして奴隷皇子様だけは宮廷に残っているの?」
水の注がれた木桶を持ち上げながら、ルカは一番年配の家奴隷に話をふった。
「そんなこと。リューシャ様の為にきまってるだろ」
年配の家奴隷の投げ槍で簡潔な答えを聞いて、その場にいた中でも一番年若いルカは「やっぱりそうよね!」と言って顔を赤くした。大人の様々な事情が見えてくる年頃だ。ルカは抱えていた木桶をすぐ近くの洗濯桶に向かって、気恥ずかしさに少々乱暴にひっくり返した。
「わ~、ルカでもそんな事わかる歳になったんだ~」
アルダがルカをひやかす様に言った。