88.奪われし光
朝靄がまだ晴れぬ時間、王宮の回廊を、白衣をまとった一団が音もなく進んでいた。
胸に神印の紋章を掲げた高位の神官と、複数の修道士――誰もが丁寧に、だが迷いのない足取りで、客間の扉の前に立つ。
衛兵が、やや驚いた様子で頭を下げる。
「……ジェード・ダークのご移送ですね。王命の通達、確かに拝受しております。療養の延長とのことで……?」
神官は柔らかく微笑んだ。
「ええ。あくまで形式に則った処置でございます。聖堂内での休養と、一部、教義上の確認が目的となります。ご安心を」
衛兵は深く頷き、扉を開けた。
ジェードは、椅子に座って、入ってくる一団を黙って見ている。
特に怪我の痕もなく、体調も回復しているように見える。
しかし、部屋に入った一団により、不思議な静けさが部屋を満たしていた。
「おはようございます、クライスの子、ジェード・ダーク。お身体の具合はいかがでしょうか?」
年配の神官がやさしく声をかける。
「……わたしは、大丈夫ですけど……?」
ジェードは少しだけ警戒した目を向けたが、やがて立ち上がった。
「療養先の変更だと、さっき聞こえましたが……それは、今すぐにでしょうか?」
朝、ホープのところに向かおうとしたところを、衛兵に部屋で待つように言われたのだ。
てっきりホープの事なのかと思い込んでいたが、何やら様子がおかしい。
「はい。馬車はすでに手配済みです。中央大教会の方で、環境も整えております」
「中央大教会……?」
ジェードは聞いたことのない名だった。
そこが王都の郊外にあり、やや辺鄙な場所であること、それが魔女裁判の象徴となった場所であることを、ジェードは知らない。
「どうぞ、着替えなどは不要です。移動は短時間ですので。……あくまで、王命による、形式的な処置でございますから」
「ギリアン陛下が?」
その名を聞いて、ジェードはほんのわずかに安堵した。ギリアンの名が出たことで、罠ではないのだと信じたかった。
修道士たちは決して乱暴な手を使わず、身支度を手伝い、静かに扉を開く。
兵士はその様子を見送るばかりだった。
誰も、警告を発する者はいなかった。
(わたしはホーの療養の為に、ここに居るだけなのに……)
ジェードの胸の奥に、薄い不安が広がった。
しかし、誰もが優しく接する中で、それが口に出ることはなかった。
城門の先に待っていたのは、教会の紋章が刻まれた屋根付きの護送馬車。
白布がかけられた内部は薄暗く、窓は小さかった。
「どうぞ。道中は短いですので、安心してお乗りください」
その言葉に従い、ジェードは馬車に乗り込んだ。
最後にもう一度、王宮の建物を振り返る。
その中にいるはずのホープの姿は、どこにも見えなかった。
そして、扉が静かに閉じられ、馬車が動き出す。
ジェードを乗せて、王都の郊外へと向かうその車輪の音が、石畳に反響していた。
* * * * *
ホープは王宮内の療養室の一室で、左肩に包帯を巻いたまま窓辺に立っていた。
風が揺れるたび、肩口に鈍い痛みが走る。
回復しきっていない左肩を軽く押さえながら、そっと扉を開け、控えていた侍女に尋ねる。
「ジェードはどうしたの? 昨日から姿を見てないけど、何か伝言とか無いかな?」
「え……えっと、昨日、教会の使者の方に呼ばれたようで……」
その言葉に、ホープの中で何かが軋んだ。
「教会? どこの?」
「詳細は……すみません。療養中の聖徒様に余計な混乱を与えぬよう、との王命が出ていたので……」
言い終わる前に、ホープは駆け出していた。
まだ鈍く疼く左肩に痛みが走るが、それでも止まれなかった。
嫌な予感がする。ギリアン陛下がジェードの事で、自分に隠し事をするはずがない。
通路を抜け、門番の衛兵に詰め寄る。
「ジェードを見なかったか? 教会の者に連れていかれたと聞いた!」
衛兵は戸惑いながらも応じた。
「はい。昨日、ヴァロニア教会の高位神官が来られました。王印付きの依頼状があり……聖徒様は療養中と伺い、特に報告はせず……」
「……護送先は?」
「確か、中央大教会――」
その言葉が終わるよりも早く、ホープはその場に立ち尽くした。
――中央大教会。
姉ルースの魔女裁判が行われたと言う場所だった。
頭からすうっと血の気が引いていく。
「なぜ、ぼくに伝えなかった……!」
誰にともなく、叫ぶように吐き出す。
胸の奥が焼けるように熱く、そして、氷のように冷たかった。
ホープには、はっきりとわかっていた。
これは偶然じゃない。誰かが仕組んだ流れだ。
ルースの時には何も知らず、何も出来なかった。今度こそ、自分が守らなければならないと。
長い卓の中央で、ギリアンは山積みの書簡に目を通していた。
戦地からの報告、各地の徴税状況。そして、なにより今、最も気にかかるのは、ガイアール領リューエルからの動きだ。
「陛下!」
勢いよく飛び込んできたのは、左肩に包帯を巻いたままのホープだった。
平時ならば止められてもおかしくないその無礼も、ギリアンは顔を上げて止めなかった。
「……中央大教会、か?」
ホープは息を呑む。
「なぜ、知って――」
「王印が使われ、君には知らせがなかった。姉上以外に、それができる者はいない」
ギリアンの声が低く沈む。
「君の姉ルースが審問にかけられた異端審問所だ。あそこに連れていかれて、生きて戻った者はいない」
数秒の沈黙のあと、ギリアンは椅子から立ち上がる。
その身のこなしに、王としての威厳がにじむ。
「だが、王印が使われた件で、すでに、火刑に関する審問手続きに瑕疵があるとの書簡は送ったところだ。教会内部で稟議が始まれば、少なくとも一刻は動けまい」
ギリアンは低く呻くように言った。
傍に控えていた侍従が顔色を変える。
「陛下、すぐに兵を――!」
「まだだ。敵の動きがまだ見えない以上、焦って軍を動かせば、民心が崩れる」
ギリアンは地図に視線を落とした。
「これはただの誘拐じゃない。姉上からの宣戦布告だ」
「……!」
ホープは拳を握りしめたまま、言葉を吐き出す。
「……きっと、シーランドの元王妃は、黒髪のジェードを殺して、それを皆に見せることで、陛下を貶めようとしているんです。ジェードが異端なら、ぼくたちも、魔女と同じだと」
ギリアンは頷くと、落ち着いて侍従に命じる。
「調査部を通じて、中央大教会内部の文書と護送記録を洗ってくれ。教会に入った金の流れも追うんだ。姉上が使った裏金が、どこから出たかも」
「かしこまりました」
そして、ギリアンはもう一度ホープを見据える。
「ホープ、君は休め。肩が治らないと、剣も振れないだろう。……だが、もし火刑が本当なら、必ず間に合う手段を講じる」
その声に、ホープは小さく頷き、部屋を出て行った。
だが、ホープの胸の奥では、騎士ではなく、双子の姉弟としての想いが、別の炎となって静かにくすぶっていた。
少し遅れて、参謀が駆け込んできた。
「陛下、ジェード・ダークが、中央大教会で、異端審問にかけられたとの報が入りました」
「……処刑の予定は?」
「まだ明言はされていませんが、すでに儀式の準備が進んでいるとの噂が」
ギリアンの眉がわずかに動く。
「ヴィンセントを奪い、今度はジェード……。だけど、それにしては、やけに静かだ」
ギリアンは立ち上がり、地図を眺める。
ランス、リューエル、そしてガイアール方面の印を見比べる。
「……妙だな。これだけ戦力を注いで捕らえたのなら、次はどう使うかを示してくるはずなのに」
そこへ、別の使者が駆け込む。
その息は荒く、汗にまみれていた。
「失礼します! 王都宰相府より密報――リューエルにて、『代理戦争の布告あり』との報が!」
部屋の空気が一変した。
「……なんだと?」
「開催は明日、五月三十日。敵軍より『王国軍の代表者を指定せよ』と……!」
ギリアンの瞳が鋭く光った。
「――遅らせていたな。意図的に」
参謀が顔色を変える。
「陛下、これは、ジェード・ダークの処刑と、代理戦争の日程が一致しております!」
「……ジェード・ダークを生贄にして、我らに剣を抜かせようとしているということか」
ギリアンは深く息を吐いた。
「これは罠だ。ジェードが燃やされても、火刑を阻止しても、我らが民心を失う」
その声は低く、しかし明確だった。
扉の外にいた側近を呼びつける。
「軍令部に伝えよ。全軍、出動は保留。今動けば、相手の策に乗ることになる。……その代わり、ジェードの所在を明らかにしろ。できる限りの密偵を放ち、火刑場の時刻を探り出せ」
参謀が進言する。
「陛下、それでは手遅れに――!」
ギリアンは王座の前に立ち、沈黙を抱え込んだ。
火刑――また、あの言葉だ。
王太子だったあの日、黒髪の少女を助けてほしいと懇願に来た男の顔が、脳裏をよぎる。
その男は、王族に頭を下げるような男ではなかった。それでも、その時ばかりはギリアンに伏してまで少女を救いたいと――
(僕は、あの時、自ら黒髪を貶め、民の怒りを恐れた……)
黒髪の命を救えば、民は不信を抱く。そして、次は黒髪の自分が裁かれる。
それが、当時の自分には恐怖であった。
(だけど、今は――)
王である。
誰の顔色を窺う必要もない。
髪色をとやかく言われても、その首を跳ねれば良いだけだ。
それでも、王都の秩序や宗教の正統性を守らねばならないと、まだ自分を縛るのか?
ギリアンは唇を噛んだ。
(……それで、また誰も救えなかったら、僕は二度死ぬことになる)
ヴァロニアの歴史を変える。黒髪や魔女が悪であるという概念ごと変えてやる。
「ホープ」
ギリアンは、そこに居ないホープに向かって、静かに独り言ちた。
「これは、私情ではない。だけど、友として、今度こそ、僕が王であることを……祈っていてくれ」
そう言って、彼は剣を身に着けた。
まだ、動かす軍はない。だが、心はすでに戦いに向かっていた。