87.お前が負ける
地図が広がる机の前で、リナリーは腕を組んでいた。
背筋を伸ばし、声を落とす。
「次の戦いは――代理戦争とする。我らが選ぶ闘士が、敵の騎士と一騎打ちを行う。名誉も、城も、民の命も、その勝敗に委ねる。……ハリーファ、そなたが行け」
ハリーファは答えなかった。
ただ地図の上の駒を見つめ、口を開いた。
「断る」
リナリーの眉がぴくりと動いた。
「なぜだ。勝てる。そなたには、既に結果が見えているはずだ」
「勝ち負けの問題じゃない。俺は、戦わない」
「くだらん理想主義を語るな。これは式典だ。そなたが剣を取れば、それでこの国は立ち上がる」
「いつから、俺がお前の為に戦っていると勘違いしていた? ファティマの為でもない。俺は、俺自身の為にしか戦わない」
「……ファティマが、どうなっても構わんというのか?」
その言葉にも、ハリーファの顔色は変わらなかった。
「ああ、構わない。あの人は、俺に戦えとは言わない」
リナリーが、机を叩く。
「貴様、分かっているのか!? ヴィンセントは既に、そなたと戦うと答えた。敵は、この代理戦争を受け入れている!」
「俺には関係ない」
「このまま逃げれば、そなたのせいで我らが敗れる!」
「違う。戦わない俺がいる時点で、お前の負けは、既に決まってる」
ハリーファはゆっくりと、地図の上の駒を一つ倒した。
「俺は戦わない。だから、お前が負ける」
リナリーの眼が、鋭く光った。
「貴様、それでも……!」
「俺は、もうあいつに、十分な借りは返したと思っているんだ。二つの密命も果たされた」
「何の話だ……?」
ハリーファは誰の許可を取ることもなく部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、ひどく重く響く。
戦略室に残された空気は、あまりにも沈黙に満ちていた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
――あの少年が、最も冷酷にこの場の勝敗を決した。
その事実を、誰も否定できなかった。
やがて、年嵩の参謀が、唇を震わせながら言った。
「……お言葉を返すようですが、殿下。彼が出なければ、我が軍はこの戦に出られません」
「そもそも、代理戦争は一騎打ちが前提。候補の騎士が拒めば、式は整いません」
「民の間では、すでに救世の軍師と持ち上げられております。このままでは、世論が……」
声が次々に上がった。
そのどれもが、ハリーファを失えば勝てないという、暗黙の共通認識を裏打ちしていた。
リナリーは答えなかった。机に置かれた手に力がこもる。
その爪が、地図の端をわずかに破った。
「……黙れ」
低く、鋭い一言に、室内は静まり返る。
「我が軍の士気は、王太妃の命令で保たれる。少年一人が剣を取らぬというなら、代わりなどいくらでもいる」
そう言いながらも、内心ではわかっていた。
ヴィンセントに勝てる可能性を持つのは、ハリーファしかいない。
それでもなお、命令に従わぬ軍師――それが許せなかった。
自らの統治に従わせることができない例外の存在。
「……だが、構わぬ。形式は整った。名を立てる者が誰であろうと、我が軍から闘士を出すと宣言してしまえば、それで充分だ」
リナリーの瞳が冷たく光った。
地図の上で、倒れた駒が微かに揺れていた。それが誰のものか、もはや語る者はいない。
リナリーは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
軍師を失った戦、少年に主導権を奪われた会議。その余韻を払うように、足音もなく歩く。
廊下へ出たその先に、控えていた側仕えに命じる。
「ハリーファを、客間に通して。療養という名目で……扉に施錠を。見張りは目立たぬように」
「はっ。……しかし、なぜ客間に?」
「この城の宝だ。――大切に保管しておくのさ」
そう言って微笑んだその表情に、冷たい気配が宿っていた。
かつて寵妃だった頃、何度も見せた優しさに似た抑圧――それが、王太妃としての本質だった。
リナリーはそのまま、戦略室には戻らなかった。
ただ、誰にも見えない場所で拳を握った。
ハリーファが剣を取らぬなら、自ら、その手を引きちぎってでも従わせる。
その覚悟が、背筋に滲んでいた。
それはまるで、自らの敗北を絶対に認めまいとする意志の色だった。
少年一人の拒絶が、王太妃という女の執念に火を点けた。
戦は、もう始まっていた。
* * * * *
カーテンが風に揺れ、微かな陽光が床を撫でていた。
石造りの壁には、天使の彫像が幾つも沈黙を守っており、その翳りが部屋の隅に静けさを落とし込んでいる。
葡萄酒の香がほのかに漂うその部屋に、リナリーがゆっくりと足を踏み入れた。
窓辺ではファティマが椅子に腰掛けたまま、深紅の液体をグラスの中で揺らしている。振り返ることもなく、言った。
「来ると思っていたわ」
その声音は飾り気がなく、ただ未来を読みきっていた者の確信に満ちていた。
リナリーは足音を止める。背筋を伸ばしたまま、目だけで相手を射抜く。
「……そなたを、殺さねばならないかもしれぬ」
その一言にも、ファティマの睫毛は一度も震えなかった。
彼女はただ、グラスを唇に運び、葡萄酒を一口飲むと、ようやく微笑んだ。
「必要としていると言ってくれるのなら。それでいいわ」
その笑みは、どこか寂しげで、どこか甘やかでもあった。
「私がそなたを必要としているのは、女としてでも、王族としてでもない。生贄として……そして、母親として。ハリーファの前に、立たせるためだ」
ファティマはやっとリナリーの方へ顔を向けた。
その目には透明な光が宿っていた。年齢も、生きた年月さえも、すべてを霧に包むような冷ややかな、澄んだ眼差し。
「ええ、わかってるわ。誰かに必要とされること、それだけで、魔女は生きていけるものだから」
リナリーはわずかに眉をひそめた。
部屋の中央にある銀の燭台に目をやる。火は灯されていない。だが、指をかざせば、すぐに燃え上がりそうな予感があった。
「……ハリーファが、戦えば私の望みはすぐに叶うというのに。あいつは、何をしても、動かない」
ファティマの微笑が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
「だから言ったでしょう? わたくしでは、あの子は動かせない」
「なぜ、そう言い切れる」
ファティマはワインを飲み干し、グラスを卓に置いた。
立ち上がり、リナリーの前に、すっと歩み出る。
「母親というのはね、剣じゃないの。命令もできず、罰も与えられず、ただ静かに見つめるだけ。それより、わたくしは、あの子にとって母親にもなれなかった」
リナリーは言葉を失う。
それでも、吐き出すように問い返す。
「……だとすれば?」
「ジェードよ」
その名が出たとき、室内の空気がわずかに揺れた。
もともと、ファティマはジェードと間違われ、ここへ捕えられてきた。
「ジェードだけが、あの子の今に触れられる存在。あの子の剣を抜かせる呼び水にもなり、手を縛る鎖にもなり得るわ」
「ハリーファは、その娘の命で動くと?」
ファティマは頷き、そっとリナリーに近づく。
そして、まるで恋人に触れるように、その頬へ指先を伸ばした。
「ええ、動かざるを得なくなるわ。それが、まだあの子の中に残された、人間としての弱さ」
リナリーはその手を払わなかった。
ただ、静かに目を伏せる。
「私は、我が息子アンリを王にするために、そなたの息子を戦わせる。私を恨まぬか?」
ファティマは小さく笑う。耳元で囁くように。
「ラースは、そういう人間の矛盾が大好きだったわ」
その名が出た瞬間、リナリーの指が一瞬強張る。皇女を魔女に変えた悪魔の名前。
だが、ファティマは気にした様子もなく、窓辺へと戻る。
「それが、わたくしの命で為せることなら、喜んで差し出すわ。でも、母親としては、もう死んだの。あの娘、ジェード。あの子が、ハリーファを今の場所から引きずり出せる、唯一の存在」
「そのジェードも、ハリーファを求めているのか?」
「ええ。地獄に落ちても、守るはず……」
リナリーはファティマの背中に、まっすぐな声を投げる。
「……わかった。私が動かすのは、そなたではない。ジェードと言う娘だ」
ファティマはグラスを持ち直し、陽の光の中で、最後の一口を味わう。
「それでいいわ。わたくしの命で戦争を始めるくらいなら――あの娘の命で、戦争を終わらせてあげて。それが、せめてもの救いよ」




