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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔

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87.お前が負ける

 地図が広がる机の前で、リナリーは腕を組んでいた。

 背筋を伸ばし、声を落とす。

「次の戦いは――代理戦争とする。我らが選ぶ闘士が、敵の騎士と一騎打ちを行う。名誉も、城も、民の命も、その勝敗に委ねる。……ハリーファ、そなたが行け」

 ハリーファは答えなかった。

 ただ地図の上の駒を見つめ、口を開いた。

「断る」

 リナリーの眉がぴくりと動いた。

「なぜだ。勝てる。そなたには、既に結果が見えているはずだ」

「勝ち負けの問題じゃない。俺は、戦わない」

「くだらん理想主義を語るな。これは式典だ。そなたが剣を取れば、それでこの国は立ち上がる」

「いつから、俺がお前の為に戦っていると勘違いしていた? ファティマの為でもない。俺は、俺自身の為にしか戦わない」

「……ファティマが、どうなっても構わんというのか?」

 その言葉にも、ハリーファの顔色は変わらなかった。

「ああ、構わない。あの人は、俺に戦えとは言わない」

 リナリーが、机を叩く。

「貴様、分かっているのか!? ヴィンセントは既に、そなたと戦うと答えた。敵は、この代理戦争を受け入れている!」

「俺には関係ない」

「このまま逃げれば、そなたのせいで我らが敗れる!」

「違う。戦わない俺がいる時点で、お前の負けは、既に決まってる」

 ハリーファはゆっくりと、地図の上の駒を一つ倒した。

「俺は戦わない。だから、お前が負ける」

 リナリーの眼が、鋭く光った。

「貴様、それでも……!」

「俺は、もう()()()に、十分な借りは返したと思っているんだ。二つの密命も果たされた」

「何の話だ……?」

 ハリーファは誰の許可を取ることもなく部屋を出て行った。

 扉が閉まる音が、ひどく重く響く。

 戦略室に残された空気は、あまりにも沈黙に満ちていた。

 誰も、すぐには口を開かなかった。


 ――あの少年が、最も冷酷にこの場の勝敗を決した。


 その事実を、誰も否定できなかった。

 やがて、年嵩の参謀が、唇を震わせながら言った。

「……お言葉を返すようですが、殿下。彼が出なければ、我が軍はこの戦に出られません」

「そもそも、代理戦争は一騎打ちが前提。候補の騎士が拒めば、式は整いません」

「民の間では、すでに救世の軍師と持ち上げられております。このままでは、世論が……」

 声が次々に上がった。

 そのどれもが、ハリーファを失えば勝てないという、暗黙の共通認識を裏打ちしていた。

 リナリーは答えなかった。机に置かれた手に力がこもる。

 その爪が、地図の端をわずかに破った。

「……黙れ」

 低く、鋭い一言に、室内は静まり返る。

「我が軍の士気は、王太妃の命令で保たれる。少年一人が剣を取らぬというなら、代わりなどいくらでもいる」

 そう言いながらも、内心ではわかっていた。

 ヴィンセントに勝てる可能性を持つのは、ハリーファしかいない。

 それでもなお、命令に従わぬ軍師――それが許せなかった。

 自らの統治に従わせることができない例外の存在。

「……だが、構わぬ。形式は整った。名を立てる者が誰であろうと、我が軍から闘士を出すと宣言してしまえば、それで充分だ」

 リナリーの瞳が冷たく光った。

 地図の上で、倒れた駒が微かに揺れていた。それが誰のものか、もはや語る者はいない。

 リナリーは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

 軍師を失った戦、少年に主導権を奪われた会議。その余韻を払うように、足音もなく歩く。

 廊下へ出たその先に、控えていた側仕えに命じる。

「ハリーファを、客間に通して。療養という名目で……扉に施錠を。見張りは目立たぬように」

「はっ。……しかし、なぜ客間に?」

「この城の宝だ。――大切に保管しておくのさ」

 そう言って微笑んだその表情に、冷たい気配が宿っていた。

 かつて寵妃だった頃、何度も見せた優しさに似た抑圧――それが、王太妃としての本質だった。

 リナリーはそのまま、戦略室には戻らなかった。

 ただ、誰にも見えない場所で拳を握った。

 ハリーファが剣を取らぬなら、自ら、その手を引きちぎってでも従わせる。

 その覚悟が、背筋に滲んでいた。

 それはまるで、自らの敗北を絶対に認めまいとする意志の色だった。

 少年一人の拒絶が、王太妃という女の執念に火を点けた。

 戦は、もう始まっていた。




*   *   *   *   *




 カーテンが風に揺れ、微かな陽光が床を撫でていた。

 石造りの壁には、天使の彫像が幾つも沈黙を守っており、その翳りが部屋の隅に静けさを落とし込んでいる。


 葡萄酒の香がほのかに漂うその部屋に、リナリーがゆっくりと足を踏み入れた。

 窓辺ではファティマが椅子に腰掛けたまま、深紅の液体をグラスの中で揺らしている。振り返ることもなく、言った。

「来ると思っていたわ」

 その声音は飾り気がなく、ただ未来を読みきっていた者の確信に満ちていた。

 リナリーは足音を止める。背筋を伸ばしたまま、目だけで相手を射抜く。

「……そなたを、殺さねばならないかもしれぬ」

 その一言にも、ファティマの睫毛は一度も震えなかった。

 彼女はただ、グラスを唇に運び、葡萄酒を一口飲むと、ようやく微笑んだ。

「必要としていると言ってくれるのなら。それでいいわ」

 その笑みは、どこか寂しげで、どこか甘やかでもあった。

「私がそなたを必要としているのは、女としてでも、王族としてでもない。生贄として……そして、母親として。ハリーファの前に、立たせるためだ」

 ファティマはやっとリナリーの方へ顔を向けた。

 その目には透明な光が宿っていた。年齢も、生きた年月さえも、すべてを霧に包むような冷ややかな、澄んだ眼差し。

「ええ、わかってるわ。誰かに必要とされること、それだけで、魔女は生きていけるものだから」

 リナリーはわずかに眉をひそめた。

 部屋の中央にある銀の燭台に目をやる。火は灯されていない。だが、指をかざせば、すぐに燃え上がりそうな予感があった。

「……ハリーファが、戦えば私の望みはすぐに叶うというのに。あいつは、何をしても、動かない」

 ファティマの微笑が、ほんの一瞬だけ歪んだ。

「だから言ったでしょう? わたくしでは、あの子は動かせない」

「なぜ、そう言い切れる」

 ファティマはワインを飲み干し、グラスを卓に置いた。

 立ち上がり、リナリーの前に、すっと歩み出る。

「母親というのはね、剣じゃないの。命令もできず、罰も与えられず、ただ静かに見つめるだけ。それより、わたくしは、あの子にとって母親にもなれなかった」

 リナリーは言葉を失う。

 それでも、吐き出すように問い返す。

「……だとすれば?」

「ジェードよ」

 その名が出たとき、室内の空気がわずかに揺れた。

 もともと、ファティマはジェードと間違われ、ここへ捕えられてきた。

「ジェードだけが、あの子の今に触れられる存在。あの子の剣を抜かせる呼び水にもなり、手を縛る鎖にもなり得るわ」

「ハリーファは、その娘の命で動くと?」

 ファティマは頷き、そっとリナリーに近づく。

 そして、まるで恋人に触れるように、その頬へ指先を伸ばした。

「ええ、動かざるを得なくなるわ。それが、まだあの子の中に残された、人間としての弱さ」

 リナリーはその手を払わなかった。

 ただ、静かに目を伏せる。

「私は、我が息子アンリを王にするために、そなたの息子を戦わせる。私を恨まぬか?」

 ファティマは小さく笑う。耳元で囁くように。

「ラースは、そういう人間の矛盾が大好きだったわ」

 その名が出た瞬間、リナリーの指が一瞬強張る。皇女を魔女に変えた悪魔の名前。

 だが、ファティマは気にした様子もなく、窓辺へと戻る。

「それが、わたくしの命で為せることなら、喜んで差し出すわ。でも、母親としては、もう死んだの。あの娘、ジェード。あの子が、ハリーファを今の場所から引きずり出せる、唯一の存在」

「そのジェードも、ハリーファを求めているのか?」

「ええ。地獄(グハンナム)に落ちても、守るはず……」

 リナリーはファティマの背中に、まっすぐな声を投げる。

「……わかった。私が動かすのは、そなたではない。ジェードと言う娘だ」

 ファティマはグラスを持ち直し、陽の光の中で、最後の一口を味わう。

「それでいいわ。わたくしの命で戦争を始めるくらいなら――あの娘の命で、戦争を終わらせてあげて。それが、せめてもの救いよ」


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