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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
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86.二人の悪魔

 ヴィンセントは、リューエル城の地下回廊を、護衛の兵に囲まれながら歩く。その足取りを緩めることなく言った。

「戦うよりも先に、名もなき軍師と呼ばれる人物に、会わせていただけますか?」

 前を行くリナリーは立ち止まらず、低く問い返す。

「会って、何になる?」

「敗北を与えてくれた者には、敬意を払うべきです。最低限、名前と顔を知っておきたい」

 その声音には、戦場を離れてなお消えない熱があった。

 しばしの沈黙の後、リナリーの口角がわずかに持ち上がる。

「……そなたらしいな。では、見せてやろう。そなたらが顔を合わすのも一興だ」

 そう言うと、彼女は廊下の曲がり角を指さした。

「そなたの敗因は、その先の部屋にいる。まだ十五の少年だ。気が済むまで眺めるといい」

 皮肉とも、挑発ともつかぬ口調だった。だが、その声音には確かな余裕があった。

「十五?」

 ヴィンセントがわずかに眉を動かす。

「ああ。そなたも十五の時『ヴァンデの悪魔』と呼ばれたのだったな。やはり()()()同士か」

 扉が開く。

 そこには、椅子に座り、静かに書簡を読んでいる一人の少年がいた。

 金髪、翠の瞳。若さと冷静さ、そして――底知れぬ沈黙が、その空間を支配していた。

 ヴィンセントは一歩を踏み出す。

 その瞬間、胸の奥で何かが脈打った。

 靴音に気づいた少年が顔を上げる。

 まっすぐに、ヴィンセントの瞳を射抜くような視線がぶつかった。




 ハリーファは、部屋に入ってきた男の姿を見て、思わず立ち上がった。

 がたん、と椅子が後ろへ倒れる。

 ――ラース!? 何故ここに!?

 突如現れた【悪魔】(ラース)の姿に、胸が早鐘を突くようになる。立ち上がったが、足が震えた。


(まるで鏡を見ているようだ。だが、こんな親戚がいただろうか? いや、翠の瞳はシーランド人の血筋、――もしや、私に似ていると言う第二皇子か?)


 【悪魔】(ラース)と似た男の心の声が聞こえてきた。

 心の声が聞こえるということは、この男は、【悪魔】(ラース)ではない。

 良く見れば、男の目は蒼く、自分や【悪魔】(ラース)とは違う。

 男もまた、動揺を内に隠しながら、じっとこちらを見つめていた。

(この少年が『名もなき軍師』だと言うのか? 捕えられた第二皇子なのか? この少年、何者だ――)

 動揺を隠しながら、ヴィンセントが先に口を開いた。

「これは、驚いた。まるで、過去が見える鏡を見ているようだ。私はラヴァール家のヴィンセントだ。君は何処の者だ」

 ヴィンセントは、心の中とは違い、落ち着いた声で話した。

「……俺は、鏡は見ない」

 ハリーファは短く答えた。

(信仰的な理由か? 鏡が禁じられている?)

 ヴィンセントの脳裏に、即座に仮説が浮かぶ。

「鏡を見ない、と言うことは、君は天使(モリス)信仰者か」

 その言葉に、ハリーファは内心で警戒を強める。

 この男は、ただ者ではない――洞察が深く、情報を拾い、瞬時に繋げる。

「君の、名は?」

 本当の名を伝えて良いか悩んだが、偽ったところで、後ろにはリナリーが居る。

「……ハリーファだ……」

 ハリーファの活舌が悪くなった。

 その名前を聞いてヴィンセントの眉根が寄った。

(やはり、この少年がファールークの第二皇子? リナリーはそれを知っているのか?)

 ヴィンセントは思い出す。

 この地に来た目的は、オニキスの奪還と、第二皇子とその母・ファティマの救出――

(だが、ファールーク皇族なら黒髪に褐色肌のはず。ジェードの話がなければ、見抜けなかっただろう)

 ヴィンセントの心から、ジェードの名が聞こえた。この男はジェードと会った。ジェードの捜索依頼を出したと言うヘーンブルグ領主だろうか。

 ジェードの名を聞き、ジェードの安否を問いたくなった。

 だが、ハリーファはぐっと口をつぐんだ。

 リナリーはハリーファの傍によると、肩に手を置き囁いた。

「観察せよ。あの男は、こちらの心を読み取ることこそできぬが――人を読むことにかけては、そなたと同じく、天性の獣だ。……どちらが狩人で、どちらが獲物か、決まっていない」

 ハリーファはうなずかない。だが、瞳の奥に燃えるような静けさが宿る。

「……では、私は席を外す。好きに話すといい。互いに、試すのは得意であろう?」

 リナリーが扉を後にすると、金属の音とともに錠がかかる。

 そこはヴィンセントとハリーファ二人だけの密室となった。

 二人きりの沈黙――それはすでに戦いの始まりだった。




 先に口を開いたのは、敗者のヴィンセントだ。

「私は、第二皇子ではなく、『名もなき軍師』との面会を申し出たのだが?」

(どういうことだ? まさか第二皇子が『名もなき軍師』だとでも言うのか?)

 その声は、まるで試すように、静かにハリーファに向けられた。

「……どう呼ばれてるかは知らないが、俺が、……そうだ」

 この瞬間、ヴィンセントに――驚嘆と敬意の感情が浮かんだ。

 生まれて初めて、言葉が出ないと言う状況に出会った。

 ――まさか、この少年が。

 戦場で、見えない手に翻弄された。それが、少年の指先だったとは。

 勝者としてではなく、敗者にすら敬意を抱かせる采配。それを操ったのが、十五の少年だったと知った瞬間、心の奥が静かに震えた。

 『戦いたい』と初めて思った。

 奪うためではなく、測るためでもない。

 ただ、この天才を――この「対等」を、命をかけて味わってみたいと。


「ファールークの第二皇子ハリーファ。どのような教育を受けたら、あの戦術を立てられる? 君は、あの時、戦場に居たのか?」

「……俺は、戦場には、必ず、出る」

「本当に、神聖ヴァロニア軍を指揮していたのは、君だったのか?」

「そうだ。あの霧の夜。そのまま進軍を続けていれば、魔女王軍が神聖軍に勝利する流れまで作っておいてやったのに……。何故進軍を止めた?」

(魔女王軍の勝利までを計算していただと? 彼は、敵ではないのか?)

「あれは、王の判断だ。私は気付いたが、王が自ら負けを選び、正義の勝利を選んだのだ」

「……戦場で、非情になれない者は死ぬ。そいつは愚かな王だ。いずれ、お前がその代償を払うことになるぞ」

「口を慎め。私の主君だ」

 言い返す言葉に、激情はなかった。しかし、忠誠と言うには、信頼というより同盟に近い。

 ヴィンセントは目を伏せ、考え込む。

(やはり、敵なのか? ――いや、待て。私が揺さぶられているこの状況は、一体何だ――)

 ヴィンセントは、心を鎮めるよう努めた。

「君は、何故神聖ヴァロニア軍についた? 母親の命を担保にリナリーに従わざるを得ないのか?」

「お前には関係ない」

(という事は、おそらく母親は関係ない。となると、やはり、ハリーファは聖地の新興勢力と関わっているのか?)

 ハリーファの言葉は少ない。

 だが、ヴィンセントの心はその沈黙の隙間を読もうとし続けていた。

「しかし、よく知りもしない土地で、見事な戦略だった。私の完敗だ。まさか東大陸(フロリス)で、あのような戦法を実践する者がいるとは想定外だった」

(ハリーファの目的はともかく、リナリーにとっては『亡国の第二皇子』よりも『名もなき軍師』の方が、即効性があるという事だな。今のところは)

「ファールーク、と言うより、シュケム軍の戦法に近いと思ったが。シュケムの戦術書や記録が、ファールークに残されていたという事か?」

 ハリーファは、沈黙を守り続ける。

 しかし、ヴィンセントは止まらなかった。

(読めたぞ。ハリーファ。君の沈黙は、肯定だ。君はシュケムの戦法を学んだのだな)

 二人は、互いに、敵か味方かを測りかねていた。

 そして、ようやく、ハリーファの方から口を開いた。

「……ジェードは、無事なのか?」

(ジェード? 第二皇子は、私がヘーンブルグの領主だと知っている?)

 ヴィンセントは違和感を覚えた。

「君は、私の事を、どこまで見透かしている?」

「お前が……、オニキスのペンダントを奪取するのが目的だと言うことくらいは……」

 ハリーファはこの返答に賭けた。だが、短い答えには、多くを含みすぎていた。

(そうだ。あのペンダントを手に入れてギリアンを完璧な王とする)

 ――これはギリアンからの王命。

(そして、第二皇子とその母親の救出の命を受けてここに来た)

 ――これはジェードの願い。

(だが、私は、今回の敗北で、君に会うことが目的となった。――これこそが、私の野望――いや、欲望か)

「君はリナリーの着けていたペンダントの意味を、知っているのか?」

「あれは、オス・ローの職人が作ったものだ。ヴォードの瞳を模した双つのオニキスだ。この世に、二つと同じものはない」

 ヴィンセントの脳裏に、ギリアンの言葉が蘇る。


『ジェードが言っていた。ハリーファは、過去を知っている。まるで、何もかも覚えているようだ、と』


 ――この少年は、過去を知っている。

 ヴィンセントは初めて出会う、理屈で説明出来ないものを目の当たりにした。

 ハリーファは続ける。

「ユースフがヴォードの結婚の祝いに送ったもので、その時の書簡にヴォードの髪や目の色のことが、美麗な詩にしてしたためられていたはずだ」

 神秘的現象は知識で対抗できるものなのだろうか?

「ユースフの性格からして、それはないな。どうせ偽物だろう」

 まるで知っているかのように否定するヴィンセントに、ハリーファは思わず反論した。

「お前が何を知ってるんだ。……書簡は、(アーディン)が代筆した物だ」

宰相(アーディン)か。それなら有り得るな。だが、ユースフとは義理堅い人物だ。おそらく別に直筆で手紙は必ず出しているはず」

「……ヴォードはファールーク語が読めた」

 ――それが事実なら、ジェードの見つけた手紙は本物だ。

 ヴィンセントは、右手で拳を作ると力を入れ、独り言ちる。

「感謝するぞ、――ユースフ」

(後はペンダントを手に入れるのみ)

 ヴィンセントの口元が緩む。

「ああ、同じ時代に生きてみたかったものだ」

 ハリーファは、感嘆するヴィンセントを横目に見つめる。

 その声に、静かな皮肉を込めて返した。

「……もしそうだったとしたら、残念だが、ユースフとお前は敵同士だったな」

 ヴィンセントは鼻で笑った。

「勿論そうだろう。私はファールーク皇国がシュケムを併合するのを、全力で阻止しただろう」

 阻止してくれていたら、何か変わったかもしれない。だが、もうそんな事もハリーファには関係なかった。

 自分はユースフではないのだから。


「ハリーファよ、教えてくれ。なぜユースフはオス・ローを滅ぼした? その目的はなんだったんだ? 宗教戦争を終わらせようとしたのか?」

 しばし、沈黙が降りる。

 ハリーファは、じっとヴィンセントを見つめたまま、何も言わない。

 その瞳には、どこか怒りとも痛みともつかぬ色が宿っていた。

「……そんな高尚な考えは、何一つ持っていない」

 ヴィンセントは、さらに一歩踏み込む。

「私は真実が知りたいんだ」

 今まで黙っていたヴィンセントの心が、突如ハリーファに問いかけた。

(答えてくれ。ユースフ)

 ハリーファはヴィンセントを睨んだ。

 この男、やはり気付いていたのか。


 長い、長い沈黙のあと。

「……女だ」


 ハリーファは小声で答えた。


「女?」

「決して、手に入れられない女を、手に入れようとした。その結果がオス・ローの崩壊だ」

 ハリーファが悔しそうな顔をした。

「まさか? 【エブラの民】か!?」

 ヴィンセントの問いに、ハリーファは唇を噛んだ。

 聡明すぎるこの男に言ってしまったことを後悔した。

「ユースフは、聖地より、一人の女を選んだのか? 女の為に、聖地を犠牲にしたというのか?」

「……聖地は、只の象徴だ。もともと、そこに神など居ない」

「だが、世界はそうは思わない。世界中の人間の価値観概念まで変えようとしたのか、ユースフという男は」

「……いや、本人が、一番聖地に依存していたんだ」

 その言葉は、どこか空虚で、どこか重かった。



 ヴィンセントの頭の中で、ルースの声と姿が蘇る。

『私は、戦うまでもなく負ける?』

『閣下は、頭脳も剣術も天才だと思いますが、閣下に足りないものをユースフは持っていると思うんです』

 ユースフにあって、自分に足りないものとは何なのか――

『君を私のものにするにはどうしたら良いのか教えてくれないか?』

『一騎打ちでユースフに勝ってください』



 ヴィンセントは、捕縛されているこの状況も、どうにか出来ると思っていた。

 もはや、リナリーの提案など関係ない。

 自分自身がこの少年と戦いたいと、そして、戦わなければならない理由を、ヴィンセントは思い出した。



 静寂が降りる中、ヴィンセントは最後の問いを口にした。

「最後に一つ、質問しても良いか? どうしてもわからない事がある」

 ハリーファは黙って応じる。

「君はモリス信仰者で鏡を見ないはずなのに、何故私を見て驚いた?」

 この少年が椅子を倒すほどの衝撃は何だったのか。

「……お前は【悪魔】の姿を見たことは、……あるか?」

「いや、無い」

「俺は、【悪魔】がどんな姿か知っている。そう言うことだ」

(なるほど、悪魔と言うものは、私のような姿をしているのだな。そして、ハリーファ、君のような――)

 ヴィンセントの脳裏に、ハリーファの顔と、自らの姿が重なった。


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