86.二人の悪魔
ヴィンセントは、リューエル城の地下回廊を、護衛の兵に囲まれながら歩く。その足取りを緩めることなく言った。
「戦うよりも先に、名もなき軍師と呼ばれる人物に、会わせていただけますか?」
前を行くリナリーは立ち止まらず、低く問い返す。
「会って、何になる?」
「敗北を与えてくれた者には、敬意を払うべきです。最低限、名前と顔を知っておきたい」
その声音には、戦場を離れてなお消えない熱があった。
しばしの沈黙の後、リナリーの口角がわずかに持ち上がる。
「……そなたらしいな。では、見せてやろう。そなたらが顔を合わすのも一興だ」
そう言うと、彼女は廊下の曲がり角を指さした。
「そなたの敗因は、その先の部屋にいる。まだ十五の少年だ。気が済むまで眺めるといい」
皮肉とも、挑発ともつかぬ口調だった。だが、その声音には確かな余裕があった。
「十五?」
ヴィンセントがわずかに眉を動かす。
「ああ。そなたも十五の時『ヴァンデの悪魔』と呼ばれたのだったな。やはり似た者同士か」
扉が開く。
そこには、椅子に座り、静かに書簡を読んでいる一人の少年がいた。
金髪、翠の瞳。若さと冷静さ、そして――底知れぬ沈黙が、その空間を支配していた。
ヴィンセントは一歩を踏み出す。
その瞬間、胸の奥で何かが脈打った。
靴音に気づいた少年が顔を上げる。
まっすぐに、ヴィンセントの瞳を射抜くような視線がぶつかった。
ハリーファは、部屋に入ってきた男の姿を見て、思わず立ち上がった。
がたん、と椅子が後ろへ倒れる。
――ラース!? 何故ここに!?
突如現れた【悪魔】の姿に、胸が早鐘を突くようになる。立ち上がったが、足が震えた。
(まるで鏡を見ているようだ。だが、こんな親戚がいただろうか? いや、翠の瞳はシーランド人の血筋、――もしや、私に似ていると言う第二皇子か?)
【悪魔】と似た男の心の声が聞こえてきた。
心の声が聞こえるということは、この男は、【悪魔】ではない。
良く見れば、男の目は蒼く、自分や【悪魔】とは違う。
男もまた、動揺を内に隠しながら、じっとこちらを見つめていた。
(この少年が『名もなき軍師』だと言うのか? 捕えられた第二皇子なのか? この少年、何者だ――)
動揺を隠しながら、ヴィンセントが先に口を開いた。
「これは、驚いた。まるで、過去が見える鏡を見ているようだ。私はラヴァール家のヴィンセントだ。君は何処の者だ」
ヴィンセントは、心の中とは違い、落ち着いた声で話した。
「……俺は、鏡は見ない」
ハリーファは短く答えた。
(信仰的な理由か? 鏡が禁じられている?)
ヴィンセントの脳裏に、即座に仮説が浮かぶ。
「鏡を見ない、と言うことは、君は天使信仰者か」
その言葉に、ハリーファは内心で警戒を強める。
この男は、ただ者ではない――洞察が深く、情報を拾い、瞬時に繋げる。
「君の、名は?」
本当の名を伝えて良いか悩んだが、偽ったところで、後ろにはリナリーが居る。
「……ハリーファだ……」
ハリーファの活舌が悪くなった。
その名前を聞いてヴィンセントの眉根が寄った。
(やはり、この少年がファールークの第二皇子? リナリーはそれを知っているのか?)
ヴィンセントは思い出す。
この地に来た目的は、オニキスの奪還と、第二皇子とその母・ファティマの救出――
(だが、ファールーク皇族なら黒髪に褐色肌のはず。ジェードの話がなければ、見抜けなかっただろう)
ヴィンセントの心から、ジェードの名が聞こえた。この男はジェードと会った。ジェードの捜索依頼を出したと言うヘーンブルグ領主だろうか。
ジェードの名を聞き、ジェードの安否を問いたくなった。
だが、ハリーファはぐっと口をつぐんだ。
リナリーはハリーファの傍によると、肩に手を置き囁いた。
「観察せよ。あの男は、こちらの心を読み取ることこそできぬが――人を読むことにかけては、そなたと同じく、天性の獣だ。……どちらが狩人で、どちらが獲物か、決まっていない」
ハリーファはうなずかない。だが、瞳の奥に燃えるような静けさが宿る。
「……では、私は席を外す。好きに話すといい。互いに、試すのは得意であろう?」
リナリーが扉を後にすると、金属の音とともに錠がかかる。
そこはヴィンセントとハリーファ二人だけの密室となった。
二人きりの沈黙――それはすでに戦いの始まりだった。
先に口を開いたのは、敗者のヴィンセントだ。
「私は、第二皇子ではなく、『名もなき軍師』との面会を申し出たのだが?」
(どういうことだ? まさか第二皇子が『名もなき軍師』だとでも言うのか?)
その声は、まるで試すように、静かにハリーファに向けられた。
「……どう呼ばれてるかは知らないが、俺が、……そうだ」
この瞬間、ヴィンセントに――驚嘆と敬意の感情が浮かんだ。
生まれて初めて、言葉が出ないと言う状況に出会った。
――まさか、この少年が。
戦場で、見えない手に翻弄された。それが、少年の指先だったとは。
勝者としてではなく、敗者にすら敬意を抱かせる采配。それを操ったのが、十五の少年だったと知った瞬間、心の奥が静かに震えた。
『戦いたい』と初めて思った。
奪うためではなく、測るためでもない。
ただ、この天才を――この「対等」を、命をかけて味わってみたいと。
「ファールークの第二皇子ハリーファ。どのような教育を受けたら、あの戦術を立てられる? 君は、あの時、戦場に居たのか?」
「……俺は、戦場には、必ず、出る」
「本当に、神聖ヴァロニア軍を指揮していたのは、君だったのか?」
「そうだ。あの霧の夜。そのまま進軍を続けていれば、魔女王軍が神聖軍に勝利する流れまで作っておいてやったのに……。何故進軍を止めた?」
(魔女王軍の勝利までを計算していただと? 彼は、敵ではないのか?)
「あれは、王の判断だ。私は気付いたが、王が自ら負けを選び、正義の勝利を選んだのだ」
「……戦場で、非情になれない者は死ぬ。そいつは愚かな王だ。いずれ、お前がその代償を払うことになるぞ」
「口を慎め。私の主君だ」
言い返す言葉に、激情はなかった。しかし、忠誠と言うには、信頼というより同盟に近い。
ヴィンセントは目を伏せ、考え込む。
(やはり、敵なのか? ――いや、待て。私が揺さぶられているこの状況は、一体何だ――)
ヴィンセントは、心を鎮めるよう努めた。
「君は、何故神聖ヴァロニア軍についた? 母親の命を担保にリナリーに従わざるを得ないのか?」
「お前には関係ない」
(という事は、おそらく母親は関係ない。となると、やはり、ハリーファは聖地の新興勢力と関わっているのか?)
ハリーファの言葉は少ない。
だが、ヴィンセントの心はその沈黙の隙間を読もうとし続けていた。
「しかし、よく知りもしない土地で、見事な戦略だった。私の完敗だ。まさか東大陸で、あのような戦法を実践する者がいるとは想定外だった」
(ハリーファの目的はともかく、リナリーにとっては『亡国の第二皇子』よりも『名もなき軍師』の方が、即効性があるという事だな。今のところは)
「ファールーク、と言うより、シュケム軍の戦法に近いと思ったが。シュケムの戦術書や記録が、ファールークに残されていたという事か?」
ハリーファは、沈黙を守り続ける。
しかし、ヴィンセントは止まらなかった。
(読めたぞ。ハリーファ。君の沈黙は、肯定だ。君はシュケムの戦法を学んだのだな)
二人は、互いに、敵か味方かを測りかねていた。
そして、ようやく、ハリーファの方から口を開いた。
「……ジェードは、無事なのか?」
(ジェード? 第二皇子は、私がヘーンブルグの領主だと知っている?)
ヴィンセントは違和感を覚えた。
「君は、私の事を、どこまで見透かしている?」
「お前が……、オニキスのペンダントを奪取するのが目的だと言うことくらいは……」
ハリーファはこの返答に賭けた。だが、短い答えには、多くを含みすぎていた。
(そうだ。あのペンダントを手に入れてギリアンを完璧な王とする)
――これはギリアンからの王命。
(そして、第二皇子とその母親の救出の命を受けてここに来た)
――これはジェードの願い。
(だが、私は、今回の敗北で、君に会うことが目的となった。――これこそが、私の野望――いや、欲望か)
「君はリナリーの着けていたペンダントの意味を、知っているのか?」
「あれは、オス・ローの職人が作ったものだ。ヴォードの瞳を模した双つのオニキスだ。この世に、二つと同じものはない」
ヴィンセントの脳裏に、ギリアンの言葉が蘇る。
『ジェードが言っていた。ハリーファは、過去を知っている。まるで、何もかも覚えているようだ、と』
――この少年は、過去を知っている。
ヴィンセントは初めて出会う、理屈で説明出来ないものを目の当たりにした。
ハリーファは続ける。
「ユースフがヴォードの結婚の祝いに送ったもので、その時の書簡にヴォードの髪や目の色のことが、美麗な詩にしてしたためられていたはずだ」
神秘的現象は知識で対抗できるものなのだろうか?
「ユースフの性格からして、それはないな。どうせ偽物だろう」
まるで知っているかのように否定するヴィンセントに、ハリーファは思わず反論した。
「お前が何を知ってるんだ。……書簡は、弟が代筆した物だ」
「宰相か。それなら有り得るな。だが、ユースフとは義理堅い人物だ。おそらく別に直筆で手紙は必ず出しているはず」
「……ヴォードはファールーク語が読めた」
――それが事実なら、ジェードの見つけた手紙は本物だ。
ヴィンセントは、右手で拳を作ると力を入れ、独り言ちる。
「感謝するぞ、――ユースフ」
(後はペンダントを手に入れるのみ)
ヴィンセントの口元が緩む。
「ああ、同じ時代に生きてみたかったものだ」
ハリーファは、感嘆するヴィンセントを横目に見つめる。
その声に、静かな皮肉を込めて返した。
「……もしそうだったとしたら、残念だが、ユースフとお前は敵同士だったな」
ヴィンセントは鼻で笑った。
「勿論そうだろう。私はファールーク皇国がシュケムを併合するのを、全力で阻止しただろう」
阻止してくれていたら、何か変わったかもしれない。だが、もうそんな事もハリーファには関係なかった。
自分はユースフではないのだから。
「ハリーファよ、教えてくれ。なぜユースフはオス・ローを滅ぼした? その目的はなんだったんだ? 宗教戦争を終わらせようとしたのか?」
しばし、沈黙が降りる。
ハリーファは、じっとヴィンセントを見つめたまま、何も言わない。
その瞳には、どこか怒りとも痛みともつかぬ色が宿っていた。
「……そんな高尚な考えは、何一つ持っていない」
ヴィンセントは、さらに一歩踏み込む。
「私は真実が知りたいんだ」
今まで黙っていたヴィンセントの心が、突如ハリーファに問いかけた。
(答えてくれ。ユースフ)
ハリーファはヴィンセントを睨んだ。
この男、やはり気付いていたのか。
長い、長い沈黙のあと。
「……女だ」
ハリーファは小声で答えた。
「女?」
「決して、手に入れられない女を、手に入れようとした。その結果がオス・ローの崩壊だ」
ハリーファが悔しそうな顔をした。
「まさか? 【エブラの民】か!?」
ヴィンセントの問いに、ハリーファは唇を噛んだ。
聡明すぎるこの男に言ってしまったことを後悔した。
「ユースフは、聖地より、一人の女を選んだのか? 女の為に、聖地を犠牲にしたというのか?」
「……聖地は、只の象徴だ。もともと、そこに神など居ない」
「だが、世界はそうは思わない。世界中の人間の価値観概念まで変えようとしたのか、ユースフという男は」
「……いや、本人が、一番聖地に依存していたんだ」
その言葉は、どこか空虚で、どこか重かった。
ヴィンセントの頭の中で、ルースの声と姿が蘇る。
『私は、戦うまでもなく負ける?』
『閣下は、頭脳も剣術も天才だと思いますが、閣下に足りないものをユースフは持っていると思うんです』
ユースフにあって、自分に足りないものとは何なのか――
『君を私のものにするにはどうしたら良いのか教えてくれないか?』
『一騎打ちでユースフに勝ってください』
ヴィンセントは、捕縛されているこの状況も、どうにか出来ると思っていた。
もはや、リナリーの提案など関係ない。
自分自身がこの少年と戦いたいと、そして、戦わなければならない理由を、ヴィンセントは思い出した。
静寂が降りる中、ヴィンセントは最後の問いを口にした。
「最後に一つ、質問しても良いか? どうしてもわからない事がある」
ハリーファは黙って応じる。
「君はモリス信仰者で鏡を見ないはずなのに、何故私を見て驚いた?」
この少年が椅子を倒すほどの衝撃は何だったのか。
「……お前は【悪魔】の姿を見たことは、……あるか?」
「いや、無い」
「俺は、【悪魔】がどんな姿か知っている。そう言うことだ」
(なるほど、悪魔と言うものは、私のような姿をしているのだな。そして、ハリーファ、君のような――)
ヴィンセントの脳裏に、ハリーファの顔と、自らの姿が重なった。