85.不敗の男
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――十年前――
1419年8月21日、ヴァロニア王国 王都ランス――。
ヴァンデ条約締結前夜
高窓から注ぐ午後の光が、漆黒の床に金の影を描いていた。
玉座の下手、侍従と側近たちが静かに控える中、ひときわ目を引く美しい若者が立っていた。
「……そなたが、ラヴァール侯爵家の長男か」
声を発したのは、ヴァロニア王カルロスの侍従長。その隣に控えていたのは、政略結婚の渦中にある王女——リナリー・フォン・ヴァロアだった。
「左様にございます。ヴィンセント・フォン・ラヴァールです」
剣を差したままの若者が一礼する。まだ十五の少年とは思えぬ冷静さと、獣のような鋭さがあった。
リナリーは目を細めた。金の髪をなびかせながら、無言のまま彼に近づく。
「一万人を殺したという『ヴァンデの悪魔』は……そなたのことだったのか」
七年程前だろうか。弟ギリアンの遊び相手だという、この少年と〈アストラクス〉を打ったことがあった。
あの時、たった十歳の幼心にも、美しい男子だと思ったが、期待のそのまま成長を成し遂げている。
「誇るべきことではありません」
ヴィンセントの返しに、リナリーは小さく鼻で笑った。
「戦でしか名を上げられぬ者が、謙虚ぶっても滑稽だ。だが、そなたには、持って生まれた才覚があるようだな」
「王女殿下のご期待に沿えるよう、今後も尽力いたします」
「そなたの勝利のおかげで、我が国とシーランドは二重王国となる。そして王となるのは、ギリアンではなく、未来の私の子だ」
ヴィンセントはその言葉に眉ひとつ動かさず、ただ静かに答える。
「光栄です。未来の王妃の記憶に残るならば」
今日、この場に王太子ギリアンは居なかった。それが、この国のゆく方向を示していた。
リナリーは言葉を返さず、扇を一度だけ、ぱちりと閉じた。
(この男……十五にしては、妙に底が見えない……)
視線が交差し、沈黙が訪れる。
それは、この先十年に渡る、戦火の予兆であった。
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落日の光が、高窓から石壁に差し込み、朱と金の帯が重苦しい空気に滲んでいた。
リューエル城――今や軍旗と命令書が飛び交う、神聖ヴァロニア軍の心臓部である。
その一角、帷幕に囲まれた応接の間に、ヴィンセントが座っていた。
王国で最も恐れられた『魔女王の剣』が、今は鎖をつけられ、囚人として椅子に座っている。
だが、その佇まいには敗者の影はなく、むしろ戦場を統べた男にしか持ちえぬ威厳と静謐が漂っていた。
部屋の外から、軍靴の音が近づく。
規則正しいその足音は、威圧でも威厳でもなく、理性を帯びていた。
やがて、黒と銀の軍衣を纏ったリナリーが現れた。
神聖ヴァロニア軍の名目上の最高司令官。
「皆が、そなたを恐れるのだ。だから、私が直々に来てやった」
リナリーは、机を回ってヴィンセントの前に出る。
彼の正面に立ち、まるで兵を見下ろすような姿勢で言った。
「――戦術を、読ませたのだろう? わざと、敗北を選んだ。だが、その上を取られた」
「おっしゃる通りです、殿下」
「初めての負けで、悔しくないのか?」
「悔しい? むしろ、愛に近い興奮を覚えましたが」
「……愛、だと?」
リナリーは、不審な目でヴィンセントを一瞥する。
「私の読みを越えた者がいた――そう思った瞬間、血が沸騰するようだった。敗北というものは、これほどまでに純粋な敬意を抱くものなのだと」
「……そなたは、どこまで倒錯しているのだ?」
ヴィンセントがまともな思考能力を優に超えていることは知っていたが、リナリーは理解に苦しむ。
「知りたくなったのです。神聖ヴァロニア軍の背後にいるのは、いったい誰なのか」
その目には、戦慄と、底知れぬ興味が混在していた。
敗北した者の目ではない。勝者の知を愛した者の、燃えるような眼差し。
ヴィンセントはまっすぐリナリーの瞳を見る。そこに誇りはあっても、屈辱の色はなかった。
「『名もなき軍師』――あれは、ただの策士ではない。読んだのではなく、見ていたとしか思えない。戦況ではなく、私そのものを」
「……それほど『名もなき軍師』が気になるのか?」
「盤上を挟まず、対面してみたいと思うほどには」
「……最期の夜の語り草になら、教えてやっても良いが?」
冷ややかに、ヴィンセントの処遇を含ませたが、ヴィンセントには通用しなかった。
「『名もなき軍師』の手に、実は、殿下ご自身が踊らされていると感じたことは一度も、ありませんか?」
それは一瞬、リナリーの鉄仮面を揺るがせた。
わずかな沈黙ののち、氷のような静寂をまとったままゆっくりと振り返る。
「あの手は、戦場ではなく世界そのものを動かそうとしている。あれは戦術家ではない。意志の体現者です」
その言葉は、ただの戦術論ではなかった。世界そのものの構造を見ようとする者にしか届かない視点だった。
「『名もなき軍師』が現れてから、ヴァロニアで何が起こっているか、殿下の目には見えていますか?」
「……何だ?」
「殿下とギリアンが争うことで、ヴァロニア内部がますます不安定になっている。そしてヘーンブルグの領民が、黒髪の迫害を理由に南西へ、つまり聖地方面へ多数逃亡した。これは、台頭したばかりのラシーディアの仕業とは考えにくい。つまり、聖地を動かそうとしている別の勢力が、見えないところで動いている、とお考えになったことは?」
リナリーの指先が、机上の羊皮紙を無意味に撫でる。
やはり底知れない男だ。あの頃、私の隣に立つべきだった男。世界を見る解像度が常人とは違いすぎる。
今ここで、すぐにでも殺しておくべきだが、殺すには惜しい。
しかし、今のヴィンセントは『ヴァンデの悪魔』ではなく、『魔女王の剣』として、誰の前にも膝をつかない。
リナリーはしばらく考えた後、ヴィンセントに告げる。
「……軍師に会いたいのか?」
「可能であれば」
「見えない軍師に、見られる覚悟はあるのか? そなたの心の内まで」
「私の中身が、『名もなき軍師』に値するものかどうかを、その目で確かめてもらいたい」
しばしの静寂。
リナリーは紙に手を添えたまま、もう一度ヴィンセントを見た。
「ならば、こう言うのはどうだ。――我が軍師と『代理戦争』をする、と言うのは」
ヴィンセントの眉がわずかに動く。
「代理戦争?」
「そなたの得意分野だろう? そなたはギリアンの代理、『名もない軍師』は私の代理だ。そなたがさっき言った通り、なるべく早く、そしてヴァロニア国内の被害を少なく、勢力を統一するにはうってつけではないか?」
一呼吸おいて告げる。
「そなたが負ければ、ギリアンは死ぬ。そして、王都を明け渡してもらう」
その一言に、空気が一瞬張り詰めた。
ヴィンセントのまなざしが、かすかに冷たくなる。
「では、私が勝てば、殿下のその首にかかっているオニキスのペンダントをいただけますか?」
「このペンダントを?」
リナリーは無意識に胸元へ手をやる。オニキスは、鈍く光っていた。
ヴィンセントの目が細められた。
「では、その軍師との盤上、楽しみにしております」
その声音は、まるで剣を抜く音のように、張りつめた空気に一本の線を描いた。