表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
185/193

84.敗北の理由

 ヴァロニア北西部・バルダレクへの道中、空は厚い雲に覆われ、太陽の姿は昼を過ぎても見えなかった。

 馬上のヴィンセントの顔には、影のような静けさが宿っていた。

 魔女王ギリアンの姿は、今回の戦場にはない。

 『魔女王』という肩書がもたらす畏怖は、今や政治の軛となっていた。

 それを悟ったギリアンは退いた――その意を汲み、剣となることを選んだのがヴィンセントだった。


「ヴィンセント、君が負けるところを見たことがないから……逆に心配だよ」

「ギリアン、私は負けてやったことなら、いくらでもある」

「それはもう、無敗だよ」

 冗談を交わしつつ、ヴィンセントの唇には微かに笑みが浮かんでいた。



 霧深き夜明け、バルダレク砦の鐘が三度、沈んだ音を響かせた。

 冷たい霧が城壁と街路を白く包み、すべてを沈黙の中に閉ざしている。

 塔の上から、ヴィンセント・フォン・へーンブルクは、霧の街を見下ろしていた。

 魔女王軍を率いて入城してから、まだ三日。

 彼がしたのは、住民の避難、火を焚き、兵を欺く偽装だけ。

 この戦の目的は、勝利ではなかった。

 敗北――いや、捕らえられることこそが、戦局を動かす一手だった。

「この勝ちは、『名もなき軍師』にくれてやる」

 その囁きは夜気と共に霧へと溶けていく。皮肉ではなく、静かな決意だった。


 神聖ヴァロニア軍の軍勢は、数も装備も洗練を欠いていた。

 だが、動きだけが異様に速く、鋭かった。

 布陣を変えれば、即座に反応がある。戦術を読まれているというより、見られている。

「……見えない軍師か。ならばこちらも、姿なき手で応じよう」

 ヴィンセントはあえて退路を断った。

 敗走では終わらせない。

 敵の核心に触れるには、自らが囮となり、捕らえられるしかなかった。

 濃霧の中、砦は三方から包囲されていた。

 正面から神聖ヴァロニア軍、裏手からは見えない軍師の策を受けた部隊が回り込む。

 街道沿いの空き家に火が放たれ、陽動としての役割を果たしていた。

 ヴィンセントは修道院跡で最後の指示を下すと、剣を持たずに城門を出た。

 ただ一人、霧の中を歩くその姿を、敵兵が捉える。

「敵将、確保――!」

 鎖の音が響き、兵が押し寄せる中で、彼は舞台の幕が下りるように、両手を上げた。

 抵抗もせず、ただ静かに――

「さて、『名もなき軍師』殿。この敗北、満足いただけただろうか?」

 その声は霧に紛れながらも、確かに誰かの心を撃った。

 捕縛の場は、剣なき戦の幕開けだった。

 誰もが、彼をただの敗者としては扱わなかった。

 ――それは、国の未来を賭けた、もう一つの戦いの始まりだった。




*   *   *   *   *




 落日の光が薄い布地の天幕を透かし、金と朱のまだらな影が床に滲んでいた。

 ヴィンセント・フォン・ヘーンブルグは、重い鎖をつけられたまま、無言で椅子に座っていた。

 その姿は囚われ人というにはあまりに静かで、むしろ王たる者のような威厳すら滲ませていた。

 幕舎の奥に、軍靴の音が近づく。

 現れたのは、黒と銀を基調とした装束を身にまとった女――リナリー。

 戦場の泥を寄せ付けぬその姿は、まるで政庁に赴く王女のようだった。

「……久しぶりだな。ヴィンセント・フォン・ラヴァール」

 その声音には、怒りでも憎しみでもなく、氷のような感情の均衡があった。

 ヴィンセントは、軽く頭を垂れる。

「私の事を、覚えていてくださったとは光栄です、リナリー殿下」

 敬語の中に、ひとさじの皮肉を滲ませる。

 だが、それに反応するほど、リナリーの心は浅くない。

「……そなたが囮となったことくらい、私も気づいている。臆病者のギリアンが、この負け戦を許したのも、不敗のそなたが指揮するならこそだろう」

 淡々と語るその口調の奥に、何か別のもの――たとえば、嘲りとも哀しみともつかぬ感情が滲んだ。

 ヴィンセントは微かに笑った。

「幼い頃、殿下と〈アストラクス〉を打ったのを覚えています」

 リナリーの足が止まる。

 言葉の代わりに、沈黙が幕舎を支配する。

 しばし、視線だけが動いた。

 対面するふたりの眼差しは、互いに読もうとする者同士の、盤上のように冷ややかで鋭い。

「……盤上でも、そなたは不敗だったな」

 リナリーは続ける。

「あの時、そなたがわざと負けたと、私が気づかなかったとでも?」

「それは、子供の遊戯でしょう」

「認めるのか?」

「いえ。認めません。ただ、殿下が喜んでくださったなら、それはそれで、私の勝ちだったのです」

 リナリーの眉がわずかに動いた。

 その頬には、怒りではなく、かすかな苦笑が浮かぶ。

「……つくづく、無礼な男だ。でも、今は本当の勝ち負けの話をしている。今回は、読みを仕掛けたのに、そのさらに上を読まれた――そういうことか?」

「認めましょう。私は、負けたと」

 ヴィンセントの声は低く、静かだった。

 誇りを折る声ではない。自らの敗北を、正確に見つめる者の言葉だった。

「そなたが負ける姿を見られるとは思っていなかった。だから、今夜はよく眠れそうだ」

 リナリーは天幕の外に視線を向けながら、ぽつりと呟いた。

 しばし沈黙が流れる。

 やがてヴィンセントが、少し身を乗り出して問う。

「今回と、先の辺境戦。軍を指揮したのは、どこの家の者ですか?」

 その問いに、リナリーのまつげが僅かに震えた。

 だが彼女は答えなかった。

 むしろ、その沈黙が答えそのもののように、場を支配する。

 ヴィンセントは、その沈黙を深く飲み込んだ。

 ――名もなき見えない軍師。

 ただの戦略家ではない。そこには、確かな意志がある。この敗北は、偶然ではない。

「そなたに教える義理などないが」

「その者は、本当に人間なのですか? それとも幽霊?」

 リナリーは冷ややかな視線でヴィンセントを見やる。

「悪魔……と言いたいところだが、ただの奴隷だ」

 リナリーの睫毛がわずかに揺れた。だがその微細な動きすら、計算され尽くした演技のように見えた。

「……そなたが、ここに来た、本当の理由はなんだ?」

 リナリーの声には、鋭利な探針のような響きがあった。

「殿下が、私を呼び寄せたのでは?」

「私に会うために、わざわざ負け戦を仕込んでここまで来たと? ヴィンセント・フォン・ラヴァールが?」

「私の恋人を火刑にし、その妹にも同じ疑いをかけた。その少女が、今、殿下の手元にいるはずだ」

「……魔女(ウィッチ)を取り返しにきたのか?」

 ヴィンセントは、問いには静かに首を振った。

「いえ。殿下に、会いに来たのです」

 リナリーは目を細めた。その奥に、炎のようなものが揺らめいた。

「……四年前に来ればよかったものを」

「遅すぎましたか?」

「……随分とな」

 そして彼女はくるりと背を向ける。

「まあ良い。私の客として、リューエル城に移送しろ」

 その命を受けた兵士が歩み寄る。

 リナリーが幕舎を出ていく、その後ろ姿を、ヴィンセントは見つめていた。

 その首に揺れる、オニキスのペンダント――

 それこそが、ヴァロア家の黒髪の血筋を証明するものだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ