83.沈黙の書架に眠る
旅の疲れがまだ残る夕暮れ、ヴィンセントとジェードはヘーンブルグの古びた門をくぐった。
先頭に立つのは、この館の主にして若き領主、ヴィンセント・フォン・ヘーンブルグ。その後ろに、控えるように歩くジェードの姿があった。
館の中庭に馬の蹄音が響くと、馴染みのない緊張が空気を走った。古びた館に戻るその足音は、数年の時を巻き戻すようであった。迎えの侍従が駆け寄ると、ヴィンセントは無言で手綱を渡した。
「……お帰りなさいませ、領主様。館は清めてございます」
ヴィンセントは軽く頷くだけだったが、傍らのジェードには目を向けなかった。
主の帰還に気づき、館の者たちが慌ただしく動く。その中に、ひとりだけ、静かに立ち止まる女中がいた。
「……まるで、ルースが戻ってきたようだわ」
それは、誰に聞かせるでもない、館の空気に落ちる独白だった。
女中の呟きが、静かに石畳に溶けていくころ、ヴィンセントとジェードはもう、館の奥へと歩を進めていた。
しんと静まり返った図書室の扉を押し開けると、埃の匂いが緩やかに満ちた。
そこは、ルースが生前、毎夜のように通った場所だった。
誰の足音もなく、手も入っていないはずのその部屋は、それでも不思議と整っていた。積もった埃さえ、まるでルースの時間をそっと閉じ込めていたかのように、乱れのないまま残っている。
ヴィンセントは、しばらく黙ってその空間に佇んでいた。
背後で、ジェードが一歩、足を踏み入れる。
「……領主様? ここを探すんですか?」
「そうだ」
短く応じた彼は、書架の柱に手を添える。指先に触れた埃は厚く、それでも、本の並びは丁寧なままだった。
それほど時間はかからないかもしれない。
「ファールーク皇国からの書簡がないか探してくれ。君はファールーク皇国に四年近く居たのだから、得意分野だろう」
ジェードは高い位置の書棚を見上げ、背表紙を辿る。やがて、製本の仕方の違う一冊を手に取ると、ぱらぱらと頁をめくった。
「……これ、ファールーク語です! 少し、読めます」
ジェードの声にはわずかな高揚が混じっていた。ここに来た意味が、ようやく形になりかけているようで、胸の奥に灯がともる。
「君はファールーク語が読めるのか。内容は?」
ジェードは頷き、指で文字をなぞりながら読み始める。
「ヴォード王の……に際して、聖地より、医師を……色は、黒く、変色し……」
「本当にそう書かれているのか?」
ジェードはヴィンセントをちらりと見て、続きを読む。
「……なんだか、病気のことが書かれているみたいです」
ジェードの話を聞きながら、ヴィンセントは巻かれた書簡の入った箱を机上に置いた。
「こっちの手紙を確認してくれ。宰相アーディンはヴァロニア語も扱う上、筆まめな男だったようで、アーディンからの書状は多々あるが。ユースフ本人からの手紙はそう多くないはずだ」
「……ユースフ……?」
聖地でハリーファの言っていたことを思い出し、ジェードは呟いた。
【天使】様は、ハリのことをユースフじゃない、って言った?
「領主様、その、ユースフと言うのは、誰ですか?」
「やはり姉妹だな。君もその男に興味があるのか?」
言葉に不満げな色をにじませるヴィンセントに、ジェードは首を傾げた。
「ユースフと言うのは、ファールーク皇国を興した王だ。聖地の守護者だ」
「聖地の守護者……」
「だが、結果的に、聖地を崩壊に導いた男だ」
「聖地を崩壊……??」
「何も知らないのか」
ヴィンセントは呆れたように息をはいた。
「ルースが生前、ここでユースフからの手紙を見つけたと言っていた。さすがにルースもファールーク語は知らないだろう。ならば、ヴァロニア語で書かれている可能性もある。もしくは、まだ見つかっていないものがあるのかもしれないな」
ジェードは渡された書簡を一つずつ開いては、丁寧に確認していった。
何刻か経った頃。ジェードは、少し休憩していたが、ヴィンセントは手を止めず、書簡を確認しては、確認したものは床に放り投げていた。
日はすっかり暮れて、いつの間にか真夜中になっていた。窓の外には黒い帳が下り、静けさだけが時を刻んでいた。
蠟燭の炎が微かに揺れる。
ヴィンセントの金の髪に光がちらつくのを見て、ジェードはふとルースの話を思い出した。
「ルー姉さんは、村に帰ってくるたびに、少し怖いけど、面白い話をしてくれたんです」
ヴィンセントは、手を止めることなく聞き返す。
「ルースが、どんな話を?」
「ヘーンブルグ領の外には金髪の人が居るんだって言うのも、最初はルー姉さんの作り話だと思ってました」
「なるほど。ルースは、そうやって子ども達に、ヴァロニアの真実を教えようとしていた訳か」
「領主様のお屋敷には、幽霊が出るって話も聞きましたけど、それも本当ですか?」
しばしの沈黙。
気が付けば、いつもルースがこの場所にいた時間だ。
ヴィンセントがぼそりと呟いた。
「君は、幽霊は見えるか?」
ヴィンセントの声は低く、囁くようだった。冗談にも聞こえたが、その瞳には確かな寂寥が宿っていた。誰かを懐かしみ、誰かを試しているような響きだった。
ジェードは、一瞬、言葉の意味を図りかねたように視線を上げる。
「えっ? 本当に……いるんですか?」
「君には、天使の声が聞こえるんだったな。では、幽霊の声はどうだ? 聞こえないか?」
唐突な問いだった。
生真面目な領主とは思えない言葉だ。まるで、ルースのような不思議なことを言う。だが、ヴィンセントの瞳は真剣そのもので、ジェードは自分が試されているのかと思うほどだった。
部屋の空気が冷たくなったのが、ジェードにはわかった。少し、背中がぞくぞくと震える。
しかし、ジェードは少し考えて、首を横に振った。
「……いいえ。幽霊は、見たことは、ありません」
その瞬間。
ガタン――
本棚の奥から、何かが揺れて音を立てた。
静まり返った室内に、不釣り合いなほどはっきりと響いた。
二人の視線が音の方に向けられる。
ジェードが驚いて身を引くと、ヴィンセントが静かに棚に手をかけた。
「隙間風か、あるいは、」
そう呟いて背板の裏を覗き込んだ彼の手が、何か固い物に触れた。
引き出されたのは小さな木箱で、その中に古びた手紙があった。
封は破れ、紙は茶色く変色している。それでも、筆跡はまだ読み取れた。
ヴィンセントは黙ってそれを開き、一瞥した後、静かにジェードに差し出した。
ジェードが受け取った、その手紙には――
幸運なるヴァロニア王妃エレオノーラ殿下へ
この贈り物が、貴女の御心を守る護符とならんことを
西の地より
ヴォードの友 ユースフ
ほんの短い言祝ぎが、ファールーク語で書かれていた。
ジェードは息を呑んだ。
指でなぞりながら、読み上げる。
「……領主様! これだわ!」
ジェードの声が震える。震えているのは声だけではない。指先も、心の奥も。まるで、姉がそっと背を押してくれたようだった。
ヴィンセントは、わずかに目を見開いた。
「幽霊よ。本当に居るのなら、私の前に姿を現してくれ」
ジェードには、ヴィンセントの淡々とした言葉が、少し悲痛な叫びに聞こえた。