82.塔の上の魔女
塔の最上階、石壁に囲まれた静かな奥の間。
机の上には、二人分の夕餉が並べられていた。陶器の皿に、温かなスープとパン。
無駄を削ぎ落としたその配置は、どこか仮初めの家族のようにも見えた。
外から人の声が聞こえ、重い扉が、ぎい、と軋む。
灯の下に差し込んだ影が、そっと足を踏み入れた。
ハリーファだった。
ファティマは、静かに顔を上げた。
瞬きひとつ分、目を見開いたまま凍りつく。
だがその反応は、涙でも、怒りでもない。
ただ、ほっとしたように口元をゆるめた。
「……わたくしの息子」
その一言に、ハリーファの喉が微かに動いた。
「……ハリーファです。母上」
名乗る声は抑えられていたが、そこには確かな息遣いがあった。
ハリーファは、どこか気まずそうに目を伏せ、ファティマの姿を見やる。
母親の姿を見たのは、何日ぶりだろうか。二人の間に、言葉よりも濃い沈黙が落ちる。
最初にその沈黙を破ったのは、ファティマだった。
「……あの子、あなたを人質にしているから、わたくしがここにいるのだと、勘違いしているみたい」
ファティマは椅子の背にもたれ、まるで芝居でも眺めるように肩をすくめた。
まるで、自分の運命など他人事であるかのように。
ハリーファは、無言で頷いた。
「俺も同じように見られている。母上の命を盾に従っているのだと。……都合がいいので、そのままにしていますが……」
「ふふ。人質ごっこ、ね。親子みたい」
小さく笑うファティマに、ハリーファは表情を動かさなかった。
笑えなかったのだ。
「……俺は、もう十分、やるべきことを済ませました。そろそろ、ここを抜け出そうと思っています」
その言葉に、ファティマのまなざしが一瞬だけ、揺れた。
グラスに触れていた手が、ぴたりと止まる。
「では、わたくしも?」
ハリーファは頷く。
「リナリーの監視は今、ゆるんでいます。脱出の手はずも考えてあるので」
ふたりの間に再び、燻るような沈黙が落ちる。
ファティマはしばらく無言のまま、そっと椅子を引いた。
立ち上がり、机を一周するように歩きながら、窓の外に目を向ける。
「けれど、わたくしは行かないわ」
淡々と放たれたその言葉は、石のように響いた。
ハリーファは、息を詰めたように立ち尽くす。
「……なぜ?」
ファティマはゆっくりと振り返り、息子の目をまっすぐに見据えた。
「わたくし、今ここに必要とされているの。あの子は、わたくしを自分のものにしたいと思っているみたい」
「それが、理由ですか」
「そうよ。あなたは、一度も、わたくしを必要としなかった。でも、あなたが……母と呼んでくれたことは、ちゃんと嬉しかったわ」
ファティマの声は柔らかだった。身を翻すと、また椅子に座る。
ハリーファは、しばらく何も言えないまま、ファティマの向かいに腰かけた。
「……母上の父、いえ、狂人のことは覚えていますか?」
「狂人……?」
その問いに、ファティマの指がぴたりと止まった。
ファティマは椅子の背にもたれ、しばし目を閉じた。
「……彼は【牢】にいた男だった。……わたくしが、まだ幼かった頃に、たった一度だけ会ったの。……格子越しに」
ファティマは、まるで記憶の中を歩くように、静かに語りはじめた。
「……痩せて、骨が浮き出ていて、……言葉もろくに話せない。でも、あの人は、わたくしを見て言ったの。……『お前の母は美しい人だったのだろう』って」
「……覚えているんですね」
「ええ。……あれほど鮮やかな言葉は、わたくしの人生でそう多くない。彼は、自分の名さえ覚えていなかった。最後には名乗ったけれど、わたくしはその名も忘れてしまった。――それが、わたくしの、多分、……父」
一拍置いて、ファティマは唇の端に微かな笑みを浮かべる。
「……本当に父だったか、誰にもわからない。……わたくしと同じ髪と目の色をしていた。それだけの理由で、信じたのよ」
「彼を……恨んでいますか?」
ファティマは少女のように首を傾げる。
「……恨んでなんかいないわ。むしろ、わたくしよりもっと不遇な……、同じ金の髪の彼を見て……。初めて芽生えた感情があるの」
ファティマの手元のグラスが、わずかに揺れた。
「親愛と……自分の残酷さ。……あの惨めさの中に、わずかな救いを見つけたわ」
ハリーファは何も言えず、ファティマの語りを聞いた。
「でも、あの男と話した一瞬だけ、確かに生きていると感じた。……わたくしがこの世に存在していることに、理由があるように思えたの。だから……たぶん、あれでよかった」
そう聞いて、ハリーファは、ファティマの瞳を見つめる。
「……あなたの亜麻色の髪は黒くなりましたが、瞳は今も『ホールの色硝子のような翠色』のままです」
「まぁ! 『姿見』ね」
ファティマの頬が少し紅く染まった。
しばらくして、ハリーファは目を伏せ、短くうなずく。
「……母上。俺を、産んでくれたことは、感謝しています」
生まれなければ、出会えなかった。
どんなに複雑な縁でも、そこに繋がる一条の道があったのだ。
ファティマは、その言葉を聞いて、初めて人間らしい微笑を浮かべた。
けれど、その笑みの奥にある影は消えなかった。
「でも、あの子が、あなたをそう簡単に手放すかしらね?」
ハリーファは少しだけ視線を落とす。
その声音にこめられた、どこか遠い哀れみのような響きを、彼は無言で受けとめた。
しばしの間、沈黙。
やがてハリーファは、静かに息を整えるように言った。
「……それでも、行きます」
淡々とした口調だった。だが、そこに含まれたものは明らかだった。
義務でも命令でもない、自らの意志だった。
「俺は、母上を奪い返しに来たわけじゃありません。誰の許しがなくとも、ここには来られた。……あとは、ジェードが任務を終えたことさえ確認できれば、それで十分です」
ファティマは何も言わなかった。
ただ、まるで昔のことを思い出すように、わずかに瞼を伏せた。
ハリーファは立ち上がる。
その動作に焦りはなく、どこまでも静かだった。
「……リナリーの執着が、いつか母上の自由を奪わないことを、祈っています」
それだけ言い残し、ハリーファは扉へと向かった。
灯の下に伸びる影が、わずかに揺れながら遠ざかっていく。
閉じかけた扉の向こうに、微かな硝子のような余韻が残された。