表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
183/193

82.塔の上の魔女

 塔の最上階、石壁に囲まれた静かな奥の間。

 机の上には、二人分の夕餉が並べられていた。陶器の皿に、温かなスープとパン。

 無駄を削ぎ落としたその配置は、どこか仮初めの家族のようにも見えた。

 外から人の声が聞こえ、重い扉が、ぎい、と軋む。

 灯の下に差し込んだ影が、そっと足を踏み入れた。

 ハリーファだった。

 ファティマは、静かに顔を上げた。

 瞬きひとつ分、目を見開いたまま凍りつく。

 だがその反応は、涙でも、怒りでもない。

 ただ、ほっとしたように口元をゆるめた。

「……わたくしの息子」

 その一言に、ハリーファの喉が微かに動いた。

「……ハリーファです。母上」

 名乗る声は抑えられていたが、そこには確かな息遣いがあった。

 ハリーファは、どこか気まずそうに目を伏せ、ファティマの姿を見やる。

 母親の姿を見たのは、何日ぶりだろうか。二人の間に、言葉よりも濃い沈黙が落ちる。

 最初にその沈黙を破ったのは、ファティマだった。

「……あの子、あなたを人質にしているから、わたくしがここにいるのだと、勘違いしているみたい」

 ファティマは椅子の背にもたれ、まるで芝居でも眺めるように肩をすくめた。

 まるで、自分の運命など他人事であるかのように。

 ハリーファは、無言で頷いた。

「俺も同じように見られている。母上の命を盾に従っているのだと。……都合がいいので、そのままにしていますが……」

「ふふ。人質ごっこ、ね。親子みたい」

 小さく笑うファティマに、ハリーファは表情を動かさなかった。

 笑えなかったのだ。

「……俺は、もう十分、やるべきことを済ませました。そろそろ、ここを抜け出そうと思っています」

 その言葉に、ファティマのまなざしが一瞬だけ、揺れた。

 グラスに触れていた手が、ぴたりと止まる。

「では、わたくしも?」

 ハリーファは頷く。

「リナリーの監視は今、ゆるんでいます。脱出の手はずも考えてあるので」

 ふたりの間に再び、燻るような沈黙が落ちる。

 ファティマはしばらく無言のまま、そっと椅子を引いた。

 立ち上がり、机を一周するように歩きながら、窓の外に目を向ける。

「けれど、わたくしは行かないわ」

 淡々と放たれたその言葉は、石のように響いた。

 ハリーファは、息を詰めたように立ち尽くす。

「……なぜ?」

 ファティマはゆっくりと振り返り、息子の目をまっすぐに見据えた。

「わたくし、今ここに必要とされているの。あの子は、わたくしを自分のものにしたいと思っているみたい」

「それが、理由ですか」

「そうよ。あなたは、一度も、わたくしを必要としなかった。でも、あなたが……母と呼んでくれたことは、ちゃんと嬉しかったわ」

 ファティマの声は柔らかだった。身を翻すと、また椅子に座る。

 ハリーファは、しばらく何も言えないまま、ファティマの向かいに腰かけた。

「……母上の父、いえ、狂人(マジュヌーン)のことは覚えていますか?」

狂人(マジュヌーン)……?」

 その問いに、ファティマの指がぴたりと止まった。

 ファティマは椅子の背にもたれ、しばし目を閉じた。

「……彼は【牢】にいた男だった。……わたくしが、まだ幼かった頃に、たった一度だけ会ったの。……格子越しに」

 ファティマは、まるで記憶の中を歩くように、静かに語りはじめた。

「……痩せて、骨が浮き出ていて、……言葉もろくに話せない。でも、あの人は、わたくしを見て言ったの。……『お前の母は美しい人だったのだろう』って」

「……覚えているんですね」

「ええ。……あれほど鮮やかな言葉は、わたくしの人生でそう多くない。彼は、自分の名さえ覚えていなかった。最後には名乗ったけれど、わたくしはその名も忘れてしまった。――それが、わたくしの、多分、……父」

 一拍置いて、ファティマは唇の端に微かな笑みを浮かべる。

「……本当に父だったか、誰にもわからない。……わたくしと同じ髪と目の色をしていた。それだけの理由で、信じたのよ」

「彼を……恨んでいますか?」

 ファティマは少女のように首を傾げる。

「……恨んでなんかいないわ。むしろ、わたくしよりもっと不遇な……、同じ金の髪の彼を見て……。初めて芽生えた感情があるの」

 ファティマの手元のグラスが、わずかに揺れた。

「親愛と……自分の残酷さ。……あの惨めさの中に、わずかな救いを見つけたわ」

 ハリーファは何も言えず、ファティマの語りを聞いた。

「でも、あの男と話した一瞬だけ、確かに生きていると感じた。……わたくしがこの世に存在していることに、理由があるように思えたの。だから……たぶん、あれでよかった」

 そう聞いて、ハリーファは、ファティマの瞳を見つめる。

「……あなたの亜麻色の髪は黒くなりましたが、瞳は今も『ホールの色硝子のような翠色』のままです」

「まぁ! 『姿見』ね」

 ファティマの頬が少し紅く染まった。

 しばらくして、ハリーファは目を伏せ、短くうなずく。

「……母上。俺を、産んでくれたことは、感謝しています」

 生まれなければ、出会えなかった。

 どんなに複雑な縁でも、そこに繋がる一条の道があったのだ。

 ファティマは、その言葉を聞いて、初めて人間らしい微笑を浮かべた。

 けれど、その笑みの奥にある影は消えなかった。

「でも、あの子が、あなたをそう簡単に手放すかしらね?」

 ハリーファは少しだけ視線を落とす。

 その声音にこめられた、どこか遠い哀れみのような響きを、彼は無言で受けとめた。

 しばしの間、沈黙。

 やがてハリーファは、静かに息を整えるように言った。

「……それでも、行きます」

 淡々とした口調だった。だが、そこに含まれたものは明らかだった。

 義務でも命令でもない、自らの意志だった。

「俺は、母上を奪い返しに来たわけじゃありません。誰の許しがなくとも、ここには来られた。……あとは、ジェードが任務を終えたことさえ確認できれば、それで十分です」

 ファティマは何も言わなかった。

 ただ、まるで昔のことを思い出すように、わずかに瞼を伏せた。

 ハリーファは立ち上がる。

 その動作に焦りはなく、どこまでも静かだった。

「……リナリーの執着が、いつか母上の自由を奪わないことを、祈っています」

 それだけ言い残し、ハリーファは扉へと向かった。

 灯の下に伸びる影が、わずかに揺れながら遠ざかっていく。

 閉じかけた扉の向こうに、微かな硝子のような余韻が残された。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ