81.黒き誇り
ヴァロニア王都ランスは、光の都だった。
石畳の広場に差し込む陽は反射し、塔の先端はまるで天に届くかのように高かった。
その通りを歩く人々の髪は、一様に金色だった。陽に溶けるような金。風に舞うような金。まるでこの街そのものが金髪しか許されない国であるかのように。
その中に、黒髪の者が三人――
魔女王ギリアンと、ホープと、ジェードだけだ。
──正午。
王都の広場に仮設された演壇の上に、黒髪の王太子ギリアンが立っていた。
兜を脱いだ彼の髪は、陽を吸い、深い影を帯びていた。
その姿に、わずかなざわめきが広がるが、すぐに沈黙に呑まれる。
見渡せば、どこにも黒髪はなかった。
誰もが、【黒】を恐れていた。
ギリアンは異物としてそこに在った。
異端の王。魔女の傀儡。忌むべき影。
それでもギリアンは、前を向いて語り始めた。
「ヴァロニアの民よ。
私の母は、この国の王妃だった。
その血を持つ者として、逃げも偽りもしない」
民衆の間に、風が吹き抜ける。
ざわ、と微かな反応――だが誰も、声を上げはしなかった。
「黒髪が呪いと呼ばれている。
ならば、問おう。光だけの国に、影は不要なのか?
誰が、影なき国を築ける?」
その言葉が、石のように響いた。
広場の片隅で、幼子を抱いた女が背を向ける。
老いた男が腕を組み、視線を落とす。
中には演説の最中に、静かにその場を立ち去る者もいた。
ギリアンは、それを見ていた。
すべてを、受け止めるように。
「私は、光に従う王ではない。
この国の影と痛みを知る者として、王になる。
それでも――私の隣に立ってくれる者がいるなら、
その者の髪の色がどうあれ、私は誇りに思う」
演壇の下で、人々の視線が自分の頭巾の下に向けられていることに、ジェードは気づいていた。
誰も口には出さないが、その視線は黒髪を告発していた。
隣を歩くホープは、何も言わず、誰も責めず、ただ黒髪を隠さずに歩いた。
街道に頭を垂れながらも、彼は王に仕えることを選んだのだ。
『黒髪の聖徒』として、剣よりも深く、言葉よりも強く。
しかし、ギリアンが演説を行った後も、黒髪への風評に大きな変化はなかった。
ヘーンブルグ領の村人が、南方へ避難したとの報告も届く。
村人たちの声は、もはや魔女王を信じるかではなかった。
この国に自分たちの居場所があるのかという、根の深い問いだった。
* * * * *
その後、ジェードとホープは、第二皇子の足跡を探すために、シーランド支配下にあるガイアール領に向かっていた。
ガイアール城下の町では、風が冷たく広場を吹き抜けた。
市場は昼を過ぎて人もまばらだったが、それでも、炙った肉の匂いや、乾いた布の擦れる音があちこちに残っていた。
ホープとジェードは、遠目には旅の兄妹にしか見えない。
しかし、ジェードは、黒髪の一房すら見えぬように、頭巾を深く被らされた。
ジェードは隠さなくても大丈夫だと伝えたが、ホープはそれを許さなかった。
広場の片隅で、二人の中年男が声を上げた。
「塔に幽閉されてる魔女、まだ生きてるらしいぜ」
「黒髪の魔女だろ。あいつら呪われてんだよ、魔女王に操られてな」
不意に、その中のひとりが、ジェードの姿に目をとめた。
ジェードの肩のあたりをじっと見て、口元を歪めた。
「……おい、あれ。髪、黒いぞ」
その声が、広場に響く。
ジェードは反射的に身を縮めた。
だが、もう遅い。数人が振り返り、男たちが一歩、近づいてくる。
「王都の魔女王の手下か?」
「何しにここに来た、呪いをばら撒きに来たのか?」
ホープがすかさずジェードの前に立った。
「やめてください。彼女は呪いなど──」
「お前も王都の奴か? 黒髪同士で旅かよ!」
「見ろよ、あの目……魔女の目だ……!」
ざわり、と広場の空気が変わった。
誰もが言い出すのを待っていたかのように、言葉が石つぶてになって飛んできた。
「髪を見せてみろ!」
「黒髪だ! 魔女の証だろ!」
「呪われるぞ、近づくな!」
ジェードは喉が詰まって声が出せなかった。心臓が速くなり、足がすくみ、うまく呼吸ができない。
ホープは怖くはないのだろうか。
そのとき、ひとりの男が木の枝を拾って振りかざした。
「出ていけ! 不吉な黒髪!」
その一撃が振り下ろされる寸前、ホープが男の腕を弾いた。
「やめろ!」
叫びと同時に、男の動きが崩れた。しかし木の枝は、ホープの左肩に鋭くかすった。
布が裂け、鮮血が飛んだ。
広場が凍りついた。
ジェードが息を飲み、ホープに駆け寄った。
「ホープ……!」
男たちは一歩、引いた。
「ホープだと……!? こいつ『魔女王の聖徒』だぞ!」
攻撃した相手が『魔女王の聖徒』だったことに、その場に居た者は恐れを口にしだした。
ホープは、右手で傷口を押さえながら立ち上がる。
「……彼女は、誰も呪ったりはしない。それは、ぼくも同じだ。だが今ここに、呪いの言葉があるとしたら、その呪いを生み出しているのは……お前たちだ!」
沈黙が落ちた。
数秒のあと、数人が、つまらなそうに視線を逸らし、広場を離れた。
あの木の枝を落とした男も、唇を噛みながら背を向ける。
霧のように、人々は散っていった。
ジェードは、震える手でホープの袖を握りながら、顔を上げる。
「どうして……」
「……本当に、ぼくらは魔女じゃない。それに、ギリアン陛下だって、魔女じゃないんだ……」
その言葉に、ジェードは何も言えなかった。
自分の帰国のために『魔女王』として戴冠してくれたギリアンの覚悟に気が付かされた。
そして、ギリアンの正義のために戦うホープの姿を見て、胸の奥が痛んだ。
自分の黒髪を、恥じたくなんてないのに――。
森の中に入った瞬間、空気が変わった。
広場のざわめきも、怒鳴り声も、呪いの言葉も、すべて葉の奥に溶けて消えた。
そこには、ただ冷たい風と、濡れた土の匂いがあった。
ジェードはホープの腕を抱えるようにして、何とか木陰まで連れてきた。
苔むした倒木に彼を座らせると、すぐに鞄から布と薬草を取り出す。
「待って、すぐ包帯を……」
「ジェード、落ち着いて。ぼくは、大丈夫だ」
ホープは笑おうとしたが、その唇の端にも少し血がにじんでいた。
それを見たジェードの手が震えた。
頭巾がずれかけるのも気にせず、ジェードは裂けた袖を引き裂くようにして布をはがす。
その下から現れたのは、赤く染まった肩と、鋭く切られた傷口。
皮膚は裂け、血がじわりとあふれ出ていた。
「これが大丈夫なわけないわ……」
「骨まではいってない。動かせるし、これくらい大丈夫だよ」
ジェードは薬草を押し当て、震える指で縛るように布を巻いた。
布にじわりと血が染みていく。
その赤が、ジェードの手の中で熱を持って広がっていく。
ホープはただ静かにそれを見ていた。
泣くでも怒るでもなく、ただ丁寧に、傷を覆うそのジェードの姿を。
「……ホー、前にも左肩に大きな怪我をしたでしょう……?」
「……どうして、知ってるの?」
ホープは、隠していた事がばれたとばかりに、静かに驚く。
「あなたの右手の人差し指……」
ジェードがホープの右手を取ると、人差し指には、ジェードの傷とそっくりな傷跡があった。
「これはわたしが怪我した跡よ。離れていた時も、あなたとわたしは繫がってたわ」
「……知ってるよ。これまで何度も、ジェードの声に助けられたんだ」
「……心配だったの。……あなたは左利きだし」
やはり、ジェードとホープの絆は、切り離すことなどできなかった。四年の間、離れたことで、むしろそれが浮き彫りになった。
ホープは、もうジェードを疑ったり、隠し事はやめようと決めた。
「ねぇ、ジェード。今でも、天使様の声は聞こえる?」
ジェードの目が揺れた。
結び終えた包帯の端を結ぶその指が、止まっていた。
「ホー……わたし……」
やっぱり、ホープは気がついていたんだと。
けれど、ホープは何も言わずに、包帯の上からそっとジェードの手の上に自分の手を重ねた。
もうすぐ春が来る。
葉の影から差し込む光が、包帯の白に静かに触れていた。
ホープが怪我をしたため、二人は早々にランスへと戻った。
ジェードは、王宮の医務室でホープの肩に巻かれた包帯を見つめていた。
まだ血の匂いが、かすかに残っている。
ホープは眠っていた。
呼吸は静かで、額に浮かんだ汗も今は乾いていた。
ジェードは、扉の向こうで待っていたギリアンとヴィンセントの前に立つと、まっすぐに頭を下げた。
「……弟の代わりに、報告します。ガイアール領では、黒髪の者が魔女王の呪いとして恐れられています。黒髪を見たら、呪われるという言葉が、何度も聞こえました」
ギリアンの眉が、微かに動いた。
「黒髪というだけで暴力を振るわれて……わたし、声も出せませんでした。でも、ホープは……わたしを、かばってくれました。わたしだけじゃなく、陛下のことも守りました」
ギリアンは黙って頷いた。
ヴィンセントの蒼い瞳が、包帯越しのホープの姿に向けられた。
「恐怖は形を持たない。だからこそ、人はそれに『色』や『名』をつけて正当化する。今回は、それが【黒】だったというだけだ」
ギリアンは静かに言葉を継ぐ。
「魔女という言葉は、心の中の恐怖の象徴に過ぎない。だけど、それに打ち勝てない限り、この国はまた、同じ差別と戦火を繰り返すだろう」
そして、自分の髪に指を通す。
「僕の黒髪が、呪いではなく王の証であることを――証明しなければならない」
「だが、証明には根拠がいる」と、ヴィンセントが低く呟いた。
「伝承でも、逸話でもなく、証明となる確かな『物』が必要だ。ヘーンブルクに、古い王家の記録があったはずだ。図書室の文書の中に、ヴォードに関する資料が含まれていた」
ジェードが目を見開く。
「ヴォード……? ヴォード・フォン・ヴァロア、それなら、わたしも聞いたことがあります。……ハリが言ってました。二百年前に黒髪の王がいたって。ヴォード王は黒い髪と瞳の人物だったので、王妃様にオニキスのペンダントを贈ったと」
ギリアンが振り返った。
「オニキス?」
「ええ。髪と瞳に似た、オニキスのような――」
その石と、記録が揃えば、黒髪は忌み色ではなく、王の血の色であると示せるはずだ。
ヴィンセントは顎に手を添えて、短くうなずいた。
「ヘーンブルクに戻る必要があるな。私が行こう」
「それなら、わたしも一緒に行かせてください!」
ジェードの声は揺れていなかった。
ギリアンが静かに言う。
「これは、戦ではない。だが、同じくらいの覚悟が要る。呪いと呼ばれたものを、誇りに変えるための戦いだ」
その夜。
ホープの眠る枕元で、ジェードはそっと囁いた。
「ねぇ……わたし、多分生まれた時から黒髪が好きだったの。ホーの髪をいつも見てたからかもしれないわ。また、黒髪でよかったって思える日が来るかな……」
ホープから答えはなかった。
けれど、包帯の下から聞こえる彼の呼吸は、確かにジェードに届いていた。