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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
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80.見えない軍師

 ヴァロニア北東部の辺境地帯では、霧がじわじわと野営地を包み込む。

 その中で、金色の刺繍に黒髪の魔女を象った、『魔女王』の旗が揺れていた。

 それはまるで夜を呼び込むために掲げられたようだった。


 早春の霧が地を這うように漂い、枯れた草原にはまだ緑の兆しが見えなかった。

 魔女王軍(ヴァロニア王国軍/旧王太子派)は、この数週間で幾つかの村と砦を制圧し、ガイアール領に向けて北進を続けていた。

 かつて反王太子を掲げていた諸侯の残党は、散り散りとなって拠点を放棄し、民の支持も急速に薄れていた。

 ——はずだったが、ここ最近、その流れに、目に見えぬ翳りが生まれはじめていた。

「……また、逃げられたようです。村人も、補給も。からっぽです」

 報告を受けたギリアンは、沈黙のまま地図に視線を落とした。

「気が付いたか? 三つ、連続している。わずかに守りも配置も違う村が、同じように無人だ」

 ヴィンセントが地図を覗き込み呟く。

「敵は、ここを見せ場にしてきたな。我々が勝利を確信しはじめた、その瞬間を」

 兵士たちの中では、徐々に「魔女を王に据える軍など不吉だ」と言う噂が広がっている。

 ギリアンやヴィンセント、神秘的現象(オカルト)を信じない者にとっては馬鹿げた話だ。

 だが、一人が囁き、十人が耳にすれば、それは呪いに形を変えた。

 『魔女王』という名の影が、魔女王軍自体の背にじわりと広がりつつあった。




 野営地の本陣で、異変を察したヴィンセントが、霧を切って馬を走らせる。

 丘の上から見えたのは、霧の中に点々と倒れる味方の旗と、姿を見せぬ敵影。

「なるほど。霧を使って、位置を測らせず、味方を遮断したか。しかも戦う姿を、見せないようにするとはな」

 それは、まるで『幽霊』と戦っているようだった。

 午後、霧が晴れるころには、敵は再び姿を消していた。

 戦死者こそ少なかったが、部隊の編成は崩れ、補給は滞り、騎馬隊は一部壊滅と言う報告を受けた。



 霧が晴れた翌朝、ギリアンの本陣では将官たちが集められ、簡素な戦後会議が開かれていた。

 地図の上には、昨日起きた局地戦の記録が印されている。

 前衛の突撃ルート、伏兵の出現位置、補給路の分断箇所——

 どれも、偶然とは思えないほど綺麗に狙われていた。

「これは……事前に、我々の布陣が読まれていたと見るべきでしょう」

「だとすれば、敵には熟練の戦略家がいるということだな」

 会議室の空気が一段、重くなった。

 ギリアンは、地図の端を指でなぞりながら言った。

「こちらが動いた三日後に、向こうが動いている。つまり我々の行動が届いている可能性がある」

「内通……ですか?」

 誰かが小声で言ったその言葉に、場がぴりりと張り詰める。

 すると、座っていたヴィンセントが椅子の背にもたれたまま呟いた。

「落ち着け。これは、情報漏洩ではない。誘導だ」

 視線がヴィンセントに集まる。

「我々が勝ちやすい選択肢をわざと残していた。戦いやすい地形、進みやすい路。そこを選べば自然と誘導され、霧の中で包囲される」

「……踊らされていた、という事か」

 ギリアンは静かに立ち上がり、窓際に歩み寄った。

 遠く、雲の切れ間から差す陽が、まだ乾ききらぬ野営地を照らしている。

「まさか、姉上がここまで出来るとは思えない。策を引いているのは誰だ? 敵将の名を聞いた者はいるか?」

 返事をするものは居なかった。

 だが確かに、誰かがあちらの軍を動かし、こちらの動きを読んでいる。

 敵将リナリーの代わりに指示を出しているのは誰なのだろうか。

 ヴィンセントが、すっと目を細める。

「『幽霊』のように、見えない軍師か」 

 戦う前に負けた。

 小さな違和感が、ヴィンセントの胸の奥で静かに燻っていた。




*   *   *   *   *




 月が高く昇る夜、ヴァロニア北方の古い山砦。

 灯りを落とした作戦室に、数名の人影が集まっていた。

 部屋の中央に広げられた地図。

 その上に、小石を並べて動かしているのは、ハリーファだった。

 流れて来た金の髪を耳にかけ、静かな目で戦況を見つめるその姿は、戦場には似つかわしくないほど静謐だった。

「魔女王軍は、こちらの意図通り動いた。湿地帯での敗退で、前衛の再編は避けられない。次は兵の心理を崩しにかかる」

 ハリーファは指である砦を示した。

「この村に、わざと補給物資を置く。その隣村には、焼けた聖具と、斬られた民の遺体を置いておけ」

「……内部の犯行に見せかけて?」

「それが一番早い。魔女王の呪いという噂が、すでに根を張りつつある」

 リナリーは奥の椅子に座り、脚を組んでハリーファを見下ろしていた。

 赤黒いマントに、剣すら帯びないその姿には、もはや王太妃というより役者のような風格があった。

「流石は『【悪魔】の子』だ。私がいちいち命じなくても、私の願うように全て整えてくれる」

「……俺は道を整えているだけだ」

 ハリーファはあくまで淡々と答える。

「その道を歩くのは、お前だ。俺じゃない」

「口の利き方だけは、ファールーク流と言うわけだな」

 リナリーは嫌味を言ったが、何故かハリーファの表情からは緊張が消えた。

 不信に思い、眉根を寄せた。

「だが、気に入ったよ。そなたがいれば、ギリアンの正義(just)はボロボロになる。あいつが好きそうな民の声と言うものを、こちらが先に奪ってやればいい」

 部屋の隅で、ハリーファの顔に、ほんの一瞬、迷いが差した。




*   *   *   *   *




 その夜、ギリアンは王帳にて報告を受けていた。

「昨夜から補給隊の数人が脱走。理由は不明。兵の間では呪いに触れたと言われております」

「兵が、兵を怖れているのか」

 ギリアンは、机に広げた地図の上に拳を置いた。

 掌の下にあるのは、確かに勝利ルートだったはずの進路。

「敵に討たれたのではなく、噂に崩さた? ……実に、理想的なやり方だ」

 王帳の中は、朝靄と共に薄暗く、誰の足音も響いてこない。

 ギリアンは机に片肘をつきながら、開きっぱなしの報告書を眺めていた。

 文字は、もはや目に入っていない。

「三戦連続、実質的な後退。物資の消耗率、予測の一・七倍。士気指数、補給兵まで含めて下降傾向」

 淡々と読み上げるヴィンセントの声は、いつもより乾いていた。

「昨日、もうひとつ。捕虜の兵が一人失踪。見張りの者は夢遊病のようだったと証言している。が、どうにも出来すぎている」

「どうやら、幻を見せられていたようだね。僕たちは、みごとに霧の中を歩かされてしまった」

 ギリアンは呟くように言った。

「陛下、次の手を――」

 兵が帳の隅から報告に来たが、ギリアンは手で制した。

「……進軍は、いったん止める」

 場が静まり返る。

「陛下……?」

「このまま進んでも、勝って負ける戦になる。地図の上での勝利に意味はない」

 ギリアンは、椅子から立ち上がった。

 地図を見下ろす目は鋭かったが、その奥には静かな怒りが潜んでいた。

「我々は、正義(just)の名の下に戦ってきた。だが、今や魔女王軍が、民にとっての恐怖の対象に変わりつつある」

 兵士たちは言葉を失った。

「このままでは、勝利を得ても、国を失う」

 ヴィンセントが、やや意外そうにギリアンを見た。

「正義を、一度手放すのか?」

 ギリアンは、少しの間沈黙し、そして微笑した。

「……ヴィンセント、このままだと、君は勝つが、僕は負ける。今は、誰にとっての正義(just)なのかを見極め、改めて掲げなおすだけだ」



 夜が明けたが、霧は晴れなかった。

 魔女王軍の野営地には、昨夜と変わらぬ重い空気が残っていた。馬の蹄音も、兵士の掛け声も、どこか沈んでいる。

 ギリアンは高台に立ち、遠くの丘を見渡していた。

 白い霧に包まれたその先に、かつては敵の砦があった。

 今は、もう何も見えない。

「……君は、きっと、進むべき道が、わからなくなったことなんてないだろうね」

 隣にいたヴィンセントが答えることなく、ただ前を見ている。

「道は後ろにできるものだ。振り返ってここまで来たのかと。それだけだ」

 ギリアンは少し寂しそうに笑うと、ヴィンセントとは違う方向を向いた。

「だからこそ、僕には僕の旗が要る。見失わないためのものが」


 その次の夜、霧は少しだけ薄れ、ギリアンの旗が僅かに高く掲げ直されていた。


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