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【完結】天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔

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79.誰かが余計なことをしなければ

 冬の終わりがまだ見えない二月の夜。

 かすかに残る雪が瓦の隙間で凍り、風は冷たく、湿っていた。

 石造りの壁は昼の熱を保てず、火鉢の赤はすでに弱まっている。


 けれど、その夜の室内は静かであたたかかった。

 高貴な来客のために用意された客室には、ふたつの女の影が揺れていた。

 窓辺には冷たい月が昇り、厚い帳の向こうでは燭台の灯がほの暗く燃えている。

 その光に照らされた机の上で──蒼い宝石を嵌め込んだ杯と、翠の石が寄り添うもう一つの杯が、音もなく触れ合った。

 ファティマから情報を聞き出すため、リナリーは毎晩酒を酌み交わしていた。

 しかし、恐ろしいのは、この無自覚な魔女(ウィッチ)に、いつの間にか自分が魅了されつつあることだった。

 リナリー・フォン・シーランドは、王太妃の風格で背筋を正したまま、杯を持った。

「そなたの立場で、私と酒を酌み交わす意味は理解しているな?」

 ファティマは、月を映すような翡翠の瞳でリナリーを見上げた。

 どこかぼんやりとした笑みを浮かべながら、小さく首を傾げる。

「……葡萄酒って、ぶどうの実から作るのよね? 同じ果実から甘いものも渋いものも生まれるなんて、不思議ね」

 答えになっていなかった。

 けれど、リナリーはそれを咎めなかった。代わりに、ふっと笑う。

「モリス信仰は、飲酒を禁じていたのではなかったか?」

「うふふ……だから、初めてなの。こんな風に、お酒を飲むのも、誰かとおしゃべりをするのも」

 ファティマは翠の宝石のついた専用のゴブレットを、両手で持っている。

 まるで聖杯のように、大切そうに。

 翠の石の嵌め込まれた杯——それは、リナリーがわざわざ職人に誂えさせたものだった。

「蒼は私の色。翠はそなたの色だ。二つが並ぶと、綺麗だと思わないか?」

「ええ。とても。冷たくて、美しいわ」

 ファティマは微笑んで、杯を唇に運ぶ。

 その頬が、少しだけ桃色に染まっていた。

 ふいにファティマが立ち上がり、リナリーの隣にふわりと座った。

 そして肩に寄りかかるようにリナリーに身を預け、その首にかかるオニキスのネックレスにそっと手を伸ばす。

 細く白い指が、リナリーの首筋をついと撫で、そのまま胸の膨らみをなぞるように触れる。

 ぞくり、と背筋に何かが走る。

 なまめかしさの中に、明らかに力を孕んだ何かがあった。

 もしこれが男ならば──魔女(ウィッチ)に魅入られ、滅びていたかもしれない。

「……この石、お兄様の瞳の色に似てる気がするわ」

 リナリーの手が、ほんのわずかに動いた。

「たった一人だけ、そなたに優しかったという、宰相のことか?」

「ええ。お兄様の瞳は、いつも悲しみに憂いていて……その寂しさが、わたくしは好きだったの」

 言葉はふわりと宙に舞い、どこにも落ちなかった。

 しばし、二人の間に沈黙が流れる。

 けれど、その沈黙は苦ではなく、月明かりのように穏やかだった。


 リナリーはファティマの横顔を、盗み見るようにちらりと見た。

(美しい……)

 整った異国の顔立ち。頬がほんのり紅く、まつ毛は長く、口元には無防備な笑み。

 誰がどう見ても、手を伸ばしたくなる美しさ。

 それでいて、無垢で、気まぐれで、抗いようのない力をまとっている。

(……まったく、ずるい魔女(ウィッチ)だ)

 口には出さなかった。

 けれど、リナリーの胸の奥には確かに芽が出ていた。


 ファティマを、私のものでいさせたい。

 この魔女(ウィッチ)を支配できるのは、私だけだと証明したい。


「ふふ……」

 ファティマが小さく笑う。

「どうした?」

「ずっと閉じ込められていたのに、今はとても自由。あの子が一緒にヴァロニアに行こうって言ってくれたおかげだわ」

 現状も囚われの身のはずなのに、的外れな事を言うところもファティマの魅力である。

「あの子とは、ハリーファのことか?」

 悪魔に似た少年。オーエンも間違いなく似ていると証言していた。だが、まだ頑なに口を閉ざして、今も石の牢に繋がれている。

「ええ。一緒に来たのだけど、あの子、今、どこにいるのかしら?」

 リナリーの眉が、ぴくりと動いた。

「ハリーファは何者だ? そなたの使い魔か?」

「ハリーファは、わたくしの息子よ。ずっと父親がラースかお兄様かわからなくて……」

 ほろ酔いのまま、ファティマは悪びれもせず微笑む。

「……ハリーファが、そなたの子……?」

 リナリーはワインを口に運びながら、目を細めた。

「わたくし、十九のときにあの子を産んだの。顔を見る前に連れて行かれた。ハリーファは、お兄様の子じゃなかったのね。ラースにそっくりですもの……」

 その一言に、リナリーの指がぴたりと止まった。

 ——魔女(ウィッチ)は不老なのか?

「そなたがファールークで地位を築くには、宰相の子が必要だったのだな」

 リナリーも同じような経験をした。同情はしないが理解は出来る。

「でもお兄様は、わたくしより、違う女のところへ先に行った。呪ったわ、初めて。大好きなお兄様を。信じていたのに」

「それで悪魔と契ったと?」

「そう。手首を切ったから、あの夜は、寝台が真っ赤に染まったわ」

「その後に、宰相とも寝たという事か」

「第四夫人の後に来たから、お兄様も本当は、わたくしを疎んでいたのね」

 リナリーの想像していた答えとは違い、謎の国の文化を覗き見た気分になった。

「そなたは宰相の何番目なのだ?」

「三……?」

 リナリーは深く背もたれもたれかかりため息をつく。

「……女同士の殺し合いも一興か」

 ファティマは、紅く染まった顔を傾げるだけだった。

 ワインの杯が再び触れ合ったとき、蒼と翠の石が微かに光った。

 冷たい月がその影を床に落とし、オニキスの首飾りだけが微かに熱を帯びていた。

 それは、夜の奥底で、春を待つ雪解けの音のように静かな、火花だった。





*   *   *   *   *




 ギリアン・フォン・ヴァロアが『魔女王』として戴冠してから一年。

 一度は収まったかに見えた内乱も、真の終息には程遠かった。

 黒髪のギリアンの王位を拒む者たちは、正統なる王家の血筋を守るという旗印のもと、自らを『神聖ヴァロニア軍』を名乗り、再び剣を取った。

 民衆の不安を煽るように囁かれるのは、ひとつの言葉──「黒髪の魔女」。

 魔女と手を結び、異端の力に操られる魔女王ギリアン。

 徐々に広がるその風評は、戦場よりも早く、人々の心を侵していく。

 ギリアン王の治世は確かに始まった。

 けれど、それは誰かの手によって、崩れゆく足場の上に築かれた玉座のように、静かに、少しずつ、傾き始めていた。




 二月の野は、春の兆しと冬の残り香が綯い交ぜになっていた。

 けれど、それはただの季節の話ではない。

 ここ数日、魔女王(ギリアン)軍は小さな敗北を幾度となく繰り返していた。

 地形を読み違え、補給がずれ、側面を突かれ、戦わずして退いた小競り合いがいくつも。

 陽は昇っているはずなのに、霧がそれを許さない。

 視えぬ敵、正体なき噂、足元の泥。

 旗はまだ立っているが、兵たちの目に炎はない。

 恐怖は戦場より先に、心の中に降りてきていた。

 それでも、魔女王軍は旗を掲げて進んでいた。




 霧が深く立ちこめる朝。

 神聖ヴァロニア軍(反魔女王軍/旧反王太子派)の仮本陣では、まだ誰の馬も出ていなかった。

 石壁に囲まれた小さな作戦室には、紙の地図と、黙する者たちと、寒さだけがあった。

 地図の前で、ハリーファが指先だけを動かしていた。

「第三丘陵に入った前衛部隊は、視界不良により横列が崩れる。左翼の弓兵隊を後退させて敵がいるように見せ、中央突破を誘導しろ」

 淡々と語るその声音に、幕僚たちは息を呑んだまま頷くしかなかった。

 ハリーファこそが、神聖ヴァロニア軍のすべての布陣と戦術を設計する、影の軍師だった。翠の瞳を持つハリーファは、王太妃リナリーが見出した異才のシーランド人、と思われていた。

 リナリーは長椅子にもたれ、葡萄酒を回しながらハリーファの指先を見ていた。

「面白いな。そなたの言う通りに動くだけで、魔女王軍が自分の足で落ちていくのだな」

「視えない敵に負ける感覚は、実戦以上に記憶に残る。今回の目的は、勝利ではなく恐怖の刷り込みだ」

「なるほど。つまり、今日も勝った感は要らぬのだな?」

「ああ。負けた理由がわからない方が、兵の心は長く傷む」

 リナリーはぐいと酒をあおぎ、目だけをハリーファに向けた。

「……そなた、頭が良いのに、なぜそんな目をする?」

 ハリーファは黙った。

 その沈黙が答えだとわかっていながら、リナリーは問いかける。

「ファティマのことが気にかかるか?」

 その名が出た瞬間、ハリーファの手がぴたりと止まった。

 地図の上、ハリーファの指は動かない。

 紙の上に添えられたその指先が、ほんのわずかに震えた。

 リナリーはゆっくりと笑った。その笑みは、冬の夜に凍る月の光のように冷たく、美しかった。

「そなたの大切な()()殿()なら、お城でおとなしく待っている。()()()()()()()()()()()()()()()……な」

 ワインの中に沈んだその一言は、明らかな釘だった。

 ハリーファは黙って地図を巻き始めた。

 目は伏せられたまま、言葉の代わりに力だけが込められていた。

 その時、斥候が駆け込んできた。

「報告します! 魔女王軍、丘陵の霧中で混乱。伏兵成功。補給路分断!」

 帳内に、さざ波のような安堵と静かな歓喜が走る。

「……よし。ではこのまま引き上げろ。魔女王軍が霧に敗れたという印象だけ、濃く残してやれ」

 リナリーは扇をはたいて、静かに言った。

「名前など飾りでしかないのに、それを支えているのが兵の心だと言うのなら、」

 リナリーの蒼い瞳が、ちらりとハリーファを見やる。

「その心ごと、折ってやろう」

 扇の音が、雪の上に落ちる音のように静かに響いた。


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