79.誰かが余計なことをしなければ
冬の終わりがまだ見えない二月の夜。
かすかに残る雪が瓦の隙間で凍り、風は冷たく、湿っていた。
石造りの壁は昼の熱を保てず、火鉢の赤はすでに弱まっている。
けれど、その夜の室内は静かであたたかかった。
高貴な来客のために用意された客室には、ふたつの女の影が揺れていた。
窓辺には冷たい月が昇り、厚い帳の向こうでは燭台の灯がほの暗く燃えている。
その光に照らされた机の上で──蒼い宝石を嵌め込んだ杯と、翠の石が寄り添うもう一つの杯が、音もなく触れ合った。
ファティマから情報を聞き出すため、リナリーは毎晩酒を酌み交わしていた。
しかし、恐ろしいのは、この無自覚な魔女に、いつの間にか自分が魅了されつつあることだった。
リナリー・フォン・シーランドは、王太妃の風格で背筋を正したまま、杯を持った。
「そなたの立場で、私と酒を酌み交わす意味は理解しているな?」
ファティマは、月を映すような翡翠の瞳でリナリーを見上げた。
どこかぼんやりとした笑みを浮かべながら、小さく首を傾げる。
「……葡萄酒って、ぶどうの実から作るのよね? 同じ果実から甘いものも渋いものも生まれるなんて、不思議ね」
答えになっていなかった。
けれど、リナリーはそれを咎めなかった。代わりに、ふっと笑う。
「モリス信仰は、飲酒を禁じていたのではなかったか?」
「うふふ……だから、初めてなの。こんな風に、お酒を飲むのも、誰かとおしゃべりをするのも」
ファティマは翠の宝石のついた専用のゴブレットを、両手で持っている。
まるで聖杯のように、大切そうに。
翠の石の嵌め込まれた杯——それは、リナリーがわざわざ職人に誂えさせたものだった。
「蒼は私の色。翠はそなたの色だ。二つが並ぶと、綺麗だと思わないか?」
「ええ。とても。冷たくて、美しいわ」
ファティマは微笑んで、杯を唇に運ぶ。
その頬が、少しだけ桃色に染まっていた。
ふいにファティマが立ち上がり、リナリーの隣にふわりと座った。
そして肩に寄りかかるようにリナリーに身を預け、その首にかかるオニキスのネックレスにそっと手を伸ばす。
細く白い指が、リナリーの首筋をついと撫で、そのまま胸の膨らみをなぞるように触れる。
ぞくり、と背筋に何かが走る。
なまめかしさの中に、明らかに力を孕んだ何かがあった。
もしこれが男ならば──魔女に魅入られ、滅びていたかもしれない。
「……この石、お兄様の瞳の色に似てる気がするわ」
リナリーの手が、ほんのわずかに動いた。
「たった一人だけ、そなたに優しかったという、宰相のことか?」
「ええ。お兄様の瞳は、いつも悲しみに憂いていて……その寂しさが、わたくしは好きだったの」
言葉はふわりと宙に舞い、どこにも落ちなかった。
しばし、二人の間に沈黙が流れる。
けれど、その沈黙は苦ではなく、月明かりのように穏やかだった。
リナリーはファティマの横顔を、盗み見るようにちらりと見た。
(美しい……)
整った異国の顔立ち。頬がほんのり紅く、まつ毛は長く、口元には無防備な笑み。
誰がどう見ても、手を伸ばしたくなる美しさ。
それでいて、無垢で、気まぐれで、抗いようのない力をまとっている。
(……まったく、ずるい魔女だ)
口には出さなかった。
けれど、リナリーの胸の奥には確かに芽が出ていた。
ファティマを、私のものでいさせたい。
この魔女を支配できるのは、私だけだと証明したい。
「ふふ……」
ファティマが小さく笑う。
「どうした?」
「ずっと閉じ込められていたのに、今はとても自由。あの子が一緒にヴァロニアに行こうって言ってくれたおかげだわ」
現状も囚われの身のはずなのに、的外れな事を言うところもファティマの魅力である。
「あの子とは、ハリーファのことか?」
悪魔に似た少年。オーエンも間違いなく似ていると証言していた。だが、まだ頑なに口を閉ざして、今も石の牢に繋がれている。
「ええ。一緒に来たのだけど、あの子、今、どこにいるのかしら?」
リナリーの眉が、ぴくりと動いた。
「ハリーファは何者だ? そなたの使い魔か?」
「ハリーファは、わたくしの息子よ。ずっと父親がラースかお兄様かわからなくて……」
ほろ酔いのまま、ファティマは悪びれもせず微笑む。
「……ハリーファが、そなたの子……?」
リナリーはワインを口に運びながら、目を細めた。
「わたくし、十九のときにあの子を産んだの。顔を見る前に連れて行かれた。ハリーファは、お兄様の子じゃなかったのね。ラースにそっくりですもの……」
その一言に、リナリーの指がぴたりと止まった。
——魔女は不老なのか?
「そなたがファールークで地位を築くには、宰相の子が必要だったのだな」
リナリーも同じような経験をした。同情はしないが理解は出来る。
「でもお兄様は、わたくしより、違う女のところへ先に行った。呪ったわ、初めて。大好きなお兄様を。信じていたのに」
「それで悪魔と契ったと?」
「そう。手首を切ったから、あの夜は、寝台が真っ赤に染まったわ」
「その後に、宰相とも寝たという事か」
「第四夫人の後に来たから、お兄様も本当は、わたくしを疎んでいたのね」
リナリーの想像していた答えとは違い、謎の国の文化を覗き見た気分になった。
「そなたは宰相の何番目なのだ?」
「三……?」
リナリーは深く背もたれもたれかかりため息をつく。
「……女同士の殺し合いも一興か」
ファティマは、紅く染まった顔を傾げるだけだった。
ワインの杯が再び触れ合ったとき、蒼と翠の石が微かに光った。
冷たい月がその影を床に落とし、オニキスの首飾りだけが微かに熱を帯びていた。
それは、夜の奥底で、春を待つ雪解けの音のように静かな、火花だった。
* * * * *
ギリアン・フォン・ヴァロアが『魔女王』として戴冠してから一年。
一度は収まったかに見えた内乱も、真の終息には程遠かった。
黒髪のギリアンの王位を拒む者たちは、正統なる王家の血筋を守るという旗印のもと、自らを『神聖ヴァロニア軍』を名乗り、再び剣を取った。
民衆の不安を煽るように囁かれるのは、ひとつの言葉──「黒髪の魔女」。
魔女と手を結び、異端の力に操られる魔女王ギリアン。
徐々に広がるその風評は、戦場よりも早く、人々の心を侵していく。
ギリアン王の治世は確かに始まった。
けれど、それは誰かの手によって、崩れゆく足場の上に築かれた玉座のように、静かに、少しずつ、傾き始めていた。
二月の野は、春の兆しと冬の残り香が綯い交ぜになっていた。
けれど、それはただの季節の話ではない。
ここ数日、魔女王軍は小さな敗北を幾度となく繰り返していた。
地形を読み違え、補給がずれ、側面を突かれ、戦わずして退いた小競り合いがいくつも。
陽は昇っているはずなのに、霧がそれを許さない。
視えぬ敵、正体なき噂、足元の泥。
旗はまだ立っているが、兵たちの目に炎はない。
恐怖は戦場より先に、心の中に降りてきていた。
それでも、魔女王軍は旗を掲げて進んでいた。
霧が深く立ちこめる朝。
神聖ヴァロニア軍(反魔女王軍/旧反王太子派)の仮本陣では、まだ誰の馬も出ていなかった。
石壁に囲まれた小さな作戦室には、紙の地図と、黙する者たちと、寒さだけがあった。
地図の前で、ハリーファが指先だけを動かしていた。
「第三丘陵に入った前衛部隊は、視界不良により横列が崩れる。左翼の弓兵隊を後退させて敵がいるように見せ、中央突破を誘導しろ」
淡々と語るその声音に、幕僚たちは息を呑んだまま頷くしかなかった。
ハリーファこそが、神聖ヴァロニア軍のすべての布陣と戦術を設計する、影の軍師だった。翠の瞳を持つハリーファは、王太妃リナリーが見出した異才のシーランド人、と思われていた。
リナリーは長椅子にもたれ、葡萄酒を回しながらハリーファの指先を見ていた。
「面白いな。そなたの言う通りに動くだけで、魔女王軍が自分の足で落ちていくのだな」
「視えない敵に負ける感覚は、実戦以上に記憶に残る。今回の目的は、勝利ではなく恐怖の刷り込みだ」
「なるほど。つまり、今日も勝った感は要らぬのだな?」
「ああ。負けた理由がわからない方が、兵の心は長く傷む」
リナリーはぐいと酒をあおぎ、目だけをハリーファに向けた。
「……そなた、頭が良いのに、なぜそんな目をする?」
ハリーファは黙った。
その沈黙が答えだとわかっていながら、リナリーは問いかける。
「ファティマのことが気にかかるか?」
その名が出た瞬間、ハリーファの手がぴたりと止まった。
地図の上、ハリーファの指は動かない。
紙の上に添えられたその指先が、ほんのわずかに震えた。
リナリーはゆっくりと笑った。その笑みは、冬の夜に凍る月の光のように冷たく、美しかった。
「そなたの大切な母上殿なら、お城でおとなしく待っている。誰かが、余計なことをしなければ……な」
ワインの中に沈んだその一言は、明らかな釘だった。
ハリーファは黙って地図を巻き始めた。
目は伏せられたまま、言葉の代わりに力だけが込められていた。
その時、斥候が駆け込んできた。
「報告します! 魔女王軍、丘陵の霧中で混乱。伏兵成功。補給路分断!」
帳内に、さざ波のような安堵と静かな歓喜が走る。
「……よし。ではこのまま引き上げろ。魔女王軍が霧に敗れたという印象だけ、濃く残してやれ」
リナリーは扇をはたいて、静かに言った。
「名前など飾りでしかないのに、それを支えているのが兵の心だと言うのなら、」
リナリーの蒼い瞳が、ちらりとハリーファを見やる。
「その心ごと、折ってやろう」
扇の音が、雪の上に落ちる音のように静かに響いた。




