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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
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78.ルースの面影

 石造りの重厚な空間には、陽の光が傾く時間帯の静けさが漂っていた。

 ギリアンの私室に呼ばれたジェードは、深紅の絨毯の上、丸机をはさんでギリアンと向かい合っていた。

 地図と報告書。ハリーファとファティマの消息、ソルの計略。

 ギリアンの問いに答えながら、ジェードのは自分の知っている情報を整理して伝えた。

「……わたしの帰国を知るのは、わたしを探す依頼主だった、領主様とシーランドの元王妃です。連絡したのは、ソルと言う名のラシード派の者です。でも、そこでハリのことは何も知らされてないはず、です」

 王太子ギリアンは椅子に身を預け、指を組みながら静かに頷いた。

「なるほど。つまり、それは依頼に対する返答というわけだ。実はね、僕宛には、君と第二皇子の帰国を知らせる密書が届いていたんだ」

 そう言って、ギリアンは机の引き出しから一通の文を取り出す。

 植物の紙に記された端正な筆致。それはヴァロニア語で書かれていた。

「これは誰からだと思う?」

「サイード……? わたしたちは、十月の初めにラシーディアを出たので、これは、その後で出されたものですね……」

 多分、これもソルからだろう。ジェードよりもよほど流暢にヴァロニア文字を書きこなしている。

「……このサイードと言う人物は、信用してもいいのかい?」

 ギリアンの問いに、ジェードは少し迷ってから、短く答えた。

「——はい」

 ジェードが答えた時——

 がちゃりと、扉が開いた。

「ギリアン、さっき戻った——」

 低く、落ち着いた声。

 声とともに入ってきたのは、長身の男。

 旅装をまとい、金色の髪と深い蒼の瞳を持つ男の姿に、ジェードは思わず息を止めた。

(……ハリ!?)

 一瞬、心が早鐘を打つ。けれど違う。年齢も、背格好も、雰囲気もまるで異なる。

 男のほうもまた、ジェードの姿に目を止めた。

 しばし、互いに言葉を失う。

 ギリアンが軽く口元をゆるめ、場を和ませるように声をかけた。

「ああ、紹介しよう。こちらがヴィンセント・フォン・へーンブルク。君の故郷、ヘーンブルクの現領主であり、私の盟友にして、最も信頼する策士だ。

 ヴィンセント、こちらが——ホープの双子の姉、ジェード・ダークだ」

 ヴィンセントの瞳がわずかに揺れた。

 金の睫毛が影を落とす蒼い瞳が、ゆっくりとジェードを捉える。

「……ルース……、の、妹か」

 その名に、ジェードの呼吸が止まる。

 ルースの名を、この男の口から聞くとは思わなかった。

 そして、ルースの死と無関係ではないと、ジェードが本能で感じている男。

「……領主様、初めまして。アレー村の、ジェード・ダークと申します」

 かろうじて声に出せた言葉に、ヴィンセントは小さく肩を動かした。

「そうか。無事に戻ってきたんだな」

 そう言うと、彼はギリアンの方に向き直る。

「報告がある。あとでまとめて渡すが、その子も同席で?」

「当然だよ。彼女は今や当事者だからね」

 ギリアンの言葉に、ヴィンセントは小さく頷き、静かに椅子を引いて座った。

 その仕草すら無駄のない、完璧な動きだった。

 その横顔に、ジェードはもう一度目を向けた。

(……この人が、領主様……)

 ルー姉さんが仕えていた領主。そして、ルー姉さんのお腹にいた子の父親かもしれない人。

 けれど、そのことを訊けるはずもない。

 ジェードは、胸の奥が少し冷たくなるのを感じた。

 冷静で、整いすぎていて、何より——

 ルースが見たであろう何かを、どこにも見つけられない気がした。




 ギリアンが私室を出ていったあと、重い扉が閉まる音だけが、部屋に静寂を残した。

 ヴィンセントは無言のまま、卓上の書類に目を通している。

 ジェードは一つ、深く息を吸ってから、口を開いた。

「……領主様に、お伝えしたいことが、あります」

 ヴィンセントの手が止まり、目だけが彼女を見た。

「わたしがヴァロニアへ来たのは、ラシードと名乗る男の依頼を受けて、です。彼は、『ヘーンブルク領主の命を受けてわたしを探していた』と……言っていました」

 ヴィンセントは、短く目を伏せてから答える。

「その件は、ホープから君を探すように頼まれて、私が出した依頼だ」

 事務的な対応だ。

「ただし、君の『魔女疑惑』を取り消せたのは、ギリアンが『魔女王』として戴冠したからだ。そうでなければ、君は『魔女疑惑』を受けたまま、ヴァロニアに戻ることは出来なかった。ギリアンに感謝するのだな」

 そこに領主の感情は一切無かった。

 きつい言い方でもないのに、国王を呼び捨てるヴィンセントの言葉には委縮してしまう。

「……はい、わかってます……」

 ハリーファとよく似た容貌に、心が見透かされていないか不安にもなる。

「……あの、少し、お聞きしても、いいですか?」

 ヴィンセントは報告書を閉じ、目線だけでうなずいた。

「姉の、ルースのことを……覚えていらっしゃいますか?」

 一拍の沈黙。

 それは、思い出す時間だったのか、言葉を選ぶ時間だったのか。

 やがて、ヴィンセントは椅子にもたれたまま、静かに言った。

「ああ。もちろん覚えている」

 ジェードは息を呑んだ。

 領主の「もちろん」と言う言葉の意味はどう受け取ったらいいのだろう。

 ハリーファがここに居たら、領主の本心を聞いてくれたかもしれない。

「ルー姉さんは、何か……話していましたか? わたしのことでも、他の兄弟のことでも、何か……」

 間違いだったらどうしようかと、ジェードは手をぎゅっと膝の上で組んだ。

「君の話は聞いたことがある。君が生まれる時、取り上げたのは自分だと言っていた」

 そんな個人的な話も、ヴィンセントの口からは淡々と話される。

 しかし、ヴィンセントの目が少しだけ柔らかくなった。

「その話だが、ホープはルースから聞いていないそうだ。時が来たら、君から話してやったらどうだ?」

「えっと、【天使】様が、出産を助けてくれたという話、ですよね……?」

 ジェードも幼い時にルースから聞かされた話だ。忘れかけていた。

 出産と言う言葉に心臓が強く打つ。

「そうだ。黒い【天使】の話だ」

 ジェードは思わず硬直した。

 【天使】(アルフェラツ)と会った今なら信じられるが、ルースからは直接黒い【天使】だったとは聞いていない。

 ルースは、妹にも言えなかったことを、領主には打ち明けていたのだ。

 複雑な想いが沸き上がる中、しかしジェードは確信を持った。

(ルー姉さんは、領主様を、信頼して、愛していたんだわ……)

 まだ全てではないが、心の霧がわずかに晴れる。

「……そうですね。時が、来たら。(ホープ)にも話します」




 その日は、月が高く昇っていた。

 ギリアンの計らいにより、ジェードが仮住まいをしているのは、王宮の客室だった。

 重い扉の向こうは深い静寂に包まれている。

 ジェードは温かい毛布に身を包みながら、ただ天井を見つめていた。

 目は冴えている。さっき帰り際にした会話が、何度も頭の中で繰り返されていた。

 ——「ルースのことを、覚えていらっしゃいますか?」

 彼は答えた。静かに、確かに。

 ——「ああ。もちろん覚えている」

 けれど、その先。

 本当に聞きたかったこと。伝えるべきだったことは——言えなかった。

 (ルー姉さん……わたし、言わなかった)

 領主の前に立ったとき、喉の奥まで出かけていた言葉は、どうしても声にならなかった。

 ルースが領主には黙っていたことが、すべてを物語っている気がした。

(もし、ルー姉さんが、何かを守るために黙っていたのだとしたら……)

 領主が悪いとは思わなかった。

 でも、だからこそ、今はまだ訊けない。言えない。

 そして、ヴィンセントの姿を見て、今夜はますますハリーファのことを思い出した。

(ハリ、どこにいるの……? そばにいてほしい……)

 風が、窓の隙間をかすかに鳴らした。

 その音が、ルースの囁きのように思えて、ジェードはそっと目を閉じた。


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