77.王女と皇女
ヴァロニア領土のシーランド支配区 ガイアール領
重厚な鉄扉が軋む音を立てて開くと、ランプの灯りがゆらりと揺れた。
リナリーはゆっくりと足を踏み入れ、部屋の中央に鎖で拘束された少年を見下ろした。
彼は壁にもたれ、静かに目を閉じている。
しかし、その表情に怯えや屈辱の色はなかった。
むしろ、まるで牢の中にいることなど気にしていないかのような、無関心な佇まいだった。
リナリーは扉の側に立ち止まり、じっくりと少年を観察する。
(確かに、ヴィンセント・フォン・ラヴァールと似ている。もしや弟か?)
その金色の髪、彫りの深い顔立ち、整った鼻筋。
最初に捕らえた部下がヴィンセントと誤認したのも、無理はない。
ただ、ヴィンセントは今年二十五になる。目の前に居る少年は、大人びてはいるがヴィンセントより明らかに若い。
——だが。
少年が目を開いた瞬間、リナリーの呼吸が止まった。
(……翠の瞳?)
一瞬、時が止まる。
リナリーの脳裏に、別の顔がよぎった。
(悪魔か……? まさか……)
少年はリナリーの視線を受け止める。
その翠の瞳は、まるで底知れぬ夜の湖のように静かだった。
リナリーは、思わず息を吐く。
「……そなた、名は?」
リナリーの問いに、少年はしばし無言のまま彼女を見つめた。
沈黙が場を支配する。
そして——、少年は口を開いた。
「お前こそ、誰だ?」
その口調には 恐れも、媚びも、怒りすらもなかった。
リナリーは眉をひそめた。
捕らえられ、鎖に繋がれながらも、この少年はまるで獲物ではなく、狩人のようだった。
リナリーは、片手で短剣の柄をなぞりながら、再び問いかける。
「もう一度聞く。名前は?」
少年は、しばらくの間、リナリーを見つめていた。
そして、呟くように話す。
「……ハリーファ」
ハリーファ——聞いたことのない名前だ。
ヴァロニアの貴族にも、シーランドの諜報網にも、そのような名はない。
ラヴァール家の隠し子か、それともどこかの名もなき少年か——。
「そなたは何者だ?」
「……旅人だ」
「旅人? 何処から来たのだ? まさか地獄からなどと言わぬだろうな?」
少年は、リナリーの蒼い瞳をじっと見つめた。
「西大陸からだ」
「暗黒大陸?」
「ラシードの命を受けて、ヴァロニアに来た」
リナリーは薄く笑い、短剣を指で弾いた。
「ラシード……? あぁ……そうか」
二三年前にそんな依頼を出したのを思い出した。
(ヴァロア家の印章を使ったが、やはり、私が依頼主だとわかっていたのだな)
ヴィンセントを誘き出す餌として、懇意にしていた黒髪の女が欲しかったのだ。
(では、もう一人の女の方が魔女疑惑の女という事か)
リナリーは、もう一度、少年の顔をまじまじと見つめる。もう七年も前だが、あの時召喚した悪魔に酷似している。
この冷静さと不遜さ——普通の少年にはありえない。
リナリーは一歩後ろに下がり、鎖に繋がれた少年を見下ろす。
「オーエンを呼べ」
番兵に命令する。
(あいつにも、確認させよう……)
そして、扉へと向かう前に、 もう一度、その翠の瞳を覗き込んだ。
(……いや、悪魔本人なら、死にゆく者の前にしか現れぬはず……)
リナリーの背後で扉が閉まる。
ハリーファは微かに目を細め、その閉ざされた扉を見つめていた——。
* * * * *
冷たい石壁が囲う小さな部屋。
湿った空気が漂い、かすかに灯されたランプの明かりが、ぼんやりと牢の内部を照らしていた。
中央には一脚の椅子が置かれ、その上に 優雅な姿勢で座る女がひとり 。
彼女は手首に縄をかけられたまま、まるで何の不安も抱えていないように、落ち着いた仕草で足を組み、リナリーが入ってくるのを待っていた。
捕らえられているはずの女は、何の焦りもなく、まるでここが宮廷の一室であるかのように振る舞っていた。
白い肌に色硝子のような翠の瞳、そして真っ直ぐな黒い髪。
その姿を見て、リナリーは眉をひそめる。
部下の報告ではヴァロニアの魔女を捕らえたとのことだったが、目の前の女は魔女どころか、貴族のような気品を纏っていた。
ジェード・ダークは田舎へーンブルクの小娘のはず。今年十七歳なら、年齢は同じ位のようだ。
リナリーは、ゆっくりと椅子を引き、女の前に座った。
「そなたがジェード・ダークか?」
そう問いかけると、女はふっと微笑んだ。
「ジェードはここにはいないわ」
まるで他人事のようなその口調。
リナリーの眉が、さらに僅かに寄る。
「……報告では、そなたがヴァロニアの魔女——ジェード・ダークだと聞いていたが、違うのか?」
「わたくしはジェードではないわ。それに、ヴァロニア人でもない」
女は微笑んだまま、首を傾げた。
「『魔女』とは何かしら?」
リナリーは冷ややかにファティマを見つめた。
(魔女を知らないのか?)
「では、そなたは誰だ?」
「まずは、あなたが先に名乗るべきでは?」
その口調は、まるで立場が逆であるかのようだった。
本来なら自分から名乗る必要などないが、この女からは不思議と同じようなにおいがする。
「……私は、リナリー・フォン・シーランドだ」
ヴァロニア王ギリアンの実姉であり、シーランド王国前王妃であり、王太妃。だが、それは言わない。
「わたくしの名は、ファティマ」
「ファティマ……」
ファティマもハリーファも西大陸の人の名前だ。魔女を知らぬと言うことは、本当に西大陸から来た者なのかもしれない。
「そなた、何者だ?」
ファティマは困ったように首を傾げた。
「わたくしは、自分が何者かわからないの」
「では、ラシードを知っているか?」
ファティマはまた首を傾げる。
「……わたくしの母上の従弟に、そのような名の者が居たような……」
「では、ジェードは?」
「ジェードは、一緒にヴァロニアに来たのよ。ジェードは、わたくしの息子の……何かしら? 二人はとても親密な関係……だと思うわ」
(……息子? この若さで?)
リナリーは、ファティマの精神状態を測りかねていた。
仮に本当だとして、この若い娘の息子と言うことは、まだ小さな子なのだろう。
馬鹿らしくなって、手にしていた短剣を番兵に渡す。
「では、そなたはなぜヴァロニアに来たのだ?」
「……追放されたのかしら?」
「追放?」
「よく、わからなくて……」
リナリーはその言葉にぴたりと動きを止めた。
西大陸のファールーク皇国——三か月前、地図から消えた謎の国。
「追放とは……そなた、もしやファールークの一族か?」
「ええ。わたくしはファールークの――」
突然、ファティマは言葉を止める。
「腫物……」
穏やかだったファティマから表情が消えた。
リナリーの背筋に冷たいものが走る。
「ええ。わたくしは……そう呼ばれていた」
リナリーは眉をひそめた。
「誰にだ?」
ファティマは少し首を傾け、首筋にかかる黒髪を肩の後ろへ流す。
「皆よ。叔母上も、奴隷たちも、誰も声に出さなかったけれど……いつもそういう目で見られていたわ」
翠の瞳が、ふとリナリーを真っ直ぐに射抜いた。
「金色の髪は、魔性の色と」
「ファールークの皇族は、黒髪・小麦肌の血統だと伝え聞いているが」
「だから、何度も死のうとしたのよ……」
(……戯言か、それとも見せかけの芝居か。だが、もしこれが演技でないなら——この女、まともな地で育った者ではないな)
断片的な言葉から読み取れるのは、ファティマは金髪のせいでファールークでは虐げられ、何度も自死を試みていたと言うことだろうか。
確かに、ファティマの顔立ちは異国風だが、肌は東大陸人のように白く、瞳はシーランド人のような翠色だ。
「……だが、そなたの髪は、黒色だぞ……?」
言いながら、リナリーははっと気が付いた。
『魔女とは、悪魔と肉体関係を持って契約をなし、特別な力と黒髪を手に入れる』
あの美しい男は、死に際に現れ、死ぬ者の願いを叶えるのだ。
「そなた……、悪魔と契ったのか……?」
「ええ。でも、黒髪になる願いは叶えられたけど、死なせてはくれなかった」
リナリーの指が、膝の上で組まれたまま、じわりと力を帯びた。
今、目の前に居る、ファティマこそ、
――本物の魔女――
今まで、弟ギリアンを貶める為に殺してきたような、ただ髪が黒いだけの少女ではない。
リナリーは、ぞくぞくとした高揚感を感じた。
しかも、この娘はさっき「息子」が居ると言った。
その息子こそが、『悪魔の子』だ。
リナリーの願いを叶えてくれる――ヴィンセントを倒し、ギリアンも倒し、そして息子のアンリをヴァロニア王にしてくれる男。
リナリーは込み上げてくる笑いを抑えきれなかった。ゆっくりと立ち上がり、ファティマを見下ろした。
「ようこそ、我がヴァロニアへ。魔女ファティマよ」
計らずも本物の魔女を手に入れた喜びで身体が震えた。
後は、魔女の息子さえ手に入れれば、すべてが変わる。
リナリーの冷えた心に、久しく忘れていた熱が灯った。