76.千夜を超えて
冷たい風が吹き抜け、枯れ葉が地面を舞った。
馬のひづめが乾いた地面を叩く音が響く。
一人の少年が馬を走らせ、村の門へと駆け込んだ。
ホープだった。
小柄で細身だった少年は、逞しく成長し、背丈も変わっていた。
馬を降りる動作に無駄がなく、その仕草には威厳すら感じられる。
「ホープ……か?」
村人たちは彼の姿を見て、次々に振り向く。
「ああ、ホープ坊やが帰ってきた!」
「これは驚いた! 今度は騎士様が帰ってきたぞ」
村人たちのざわめきを聞きながら、ホープは息を切らせて歩みを進める。
ホープが目指したのは、自分の家だった。
喜び勇んで家の扉を押し開けると、ホープの目に映ったのは——
暖炉の前で、うなだれる双子の姉の姿だった。
その傍らで、母がジェードを支えるように寄り添っている。その手は震えていて、どこか頼りなげだった。
ウィルダーもそこにいたが、何も言えずに沈黙していた。
今にも崩れ落ちそうなほど、ジェードは力なく座り込んでいた。
「……ジェード?」
ホープが呼びかけると、母が一瞬顔を上げた。
その目は驚きに見開かれ、まるで現実を受け入れられないような表情をしていた。
「ホープ……?」
母は小さく震えた声でそう呟くと、まるで長年押し殺していた感情が溢れたかのように、目を潤ませた。
母の声を聞いて、ジェードはゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、再会の喜びなど微塵も感じられない、疲れ果てた表情。
目は赤く、頬は涙の跡で濡れている。
母は、ジェードの頬をそっと撫でた。
ホープは息をのんだ。
「どうしたの……?」
ずっと会いたかったはずのジェードが、こんな顔をしているなんて、想像もしていなかった。
ホープが 駆け寄ろうとすると、母が少しだけジェードを抱き寄せる。
ジェードの唇は震えていた。
「……ホー?」
「ジェード、……ずっと、会いたかったよ……」
その言葉に、母は、わずかにホープを見た。
「……ごめんね、ホー……」
ジェードはかすれた声で謝った。
ホープは困惑する。なぜ謝るんだろう?
なぜ、そんなに沈んでいるんだろう?
想像していた再会とあまりに違い、ホープは戸惑った。
ジェードは、震える手でホープの手を握った。
「……ハリと……ファティマが、居なくなったの」
「……え?」
ホープの眉がぴくりと動いた。
急にギリアンの王命を思い出す。
そうだ、ファールーク皇国の第二皇子ハリーファはどこにいるのだろうか。
「な、何があった?」
「……わたし、……ちゃんと、守れなかったの……」
ジェードの声がかすれていた。
ホープの心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
さっきまで感じていた再会の喜びが、一瞬にして霧散する。
王命がかかっているのだ。
「……詳しく聞かせて」
ホープは膝をつき、ジェードの手を強く握った。
ジェードがここまで絶望するほどのことが、いったい何なのか。
ホープの表情から、温かな再会を喜ぶ色はすでに消えていた。
* * * * *
ヴァロニア王宮 謁見の間
重厚な扉が開かれると、荘厳な空気が漂う謁見の間が広がった。
中央の玉座に腰を下ろしていたヴァロニア王ギリアン・フォン・ヴァロアは、入ってきた二人に視線を向けた。
「ようこそ、ホープ・ダーク。そして——君がジェード・ダークか」
ギリアンの声は低く響き、ジェードは無意識に背筋を伸ばした。
「ギリアン陛下……はじめまして。ジェード・ダークと申します。……陛下にお会いできて、光栄です」
ギリアンの前でジェードはたどたどしく答え、軽く膝を折る。王族に仕える者ではないが、国王に敬意を示さぬわけにはいかない。ホープも同じく片膝をついた。
「顔を上げなさい」
ギリアンはそう促し、二人の様子をじっと観察した。
「双子か。似ているね」
そう言って足を組む。
「ヘーンブルグのヴィンセントが不在で申し訳ない。彼は現在、諜報の任務で外に出ている」
「はい……それは聞きました。ですが、陛下に直接お目通りいただけるとは思っていなくて……」
ホープが少し驚いたように言うと、ギリアンは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「君は僕の大切な友だ。君の姉が帰還したとなれば、直接会うのは当然だろう」
ギリアンの言葉に、ジェードは驚いた。ヴァロニアの王が、ホープを大切な友と称する。それだけホープは信頼を得ているのだ。
シナーンが言っていた事が真実だったのだと、たった今実感する。
「君がジェード・ダークか……」
ギリアンはじっとジェードを見つめる。その視線には単なる興味ではなく、どこか深い考察があるようだった。
「……では、先にホープからの報告を聞かせてもらおうか」
「報告します。王命に従い第二皇子を迎えに行きましたが……どうやら、一足遅かったようです。肝心の第二皇子が姿を消しており、現在その行方を追っています。案内人であるジェードは無事に保護し、こちらに連れてきました」
そう言って、ジェードの方をちらりと見る。
「ただ、彼女はかなり疲弊しており……、今すぐ詳細な情報を聞くのは、難しいかもしれません……」
ホープは、まだ疲れた顔のジェードを気遣った。
「第二皇子の件については、まだ手がかりが残されています。今後の対応について、陛下の御指示を仰ぎたいと……」
ギリアンはしばらく無言だったが、やがて椅子に深く座り直し、手を組んだ。
「……状況は理解した。しかし、この件は君の責任ではない」
ホープの反応を見ながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「ファールークの皇子は、ラシーディアにとって交渉材料になるはずだった。シーランドか、それともラシーディアによる何者か……いずれにせよ、このまま放っておけば、ヴァロニアに不利益をもたらす可能性があるのは確かだ」
そして、ジェードにも目を向ける。
「ジェード・ダーク。君は、彼がどこへ消えたのか、何か心当たりはあるのか?」
ギリアンの青い目が彼女を試すように光る。
「君は彼と共に旅をしていた。ならば、彼の行動の癖や、誰と接触する可能性があるかくらいは、察しがつくだろう?」
ジェードの答えを待つ間、ギリアンは再びホープへ向き直る。
「ホープ、君の考えを先に聞こうか。君は、第二皇子をどうするべきだと思う?」
「ぼくの考えは……、第二皇子の身柄を確保し、ヴァロニアの管理下に置くべきです」
ホープはジェードの為にそう答えた。
「では、ジェード・ダーク。第二皇子の行き先に、心当たりは?」
ギリアンは肘をつき、ゆっくりと語気を強めた。
「……多分、シーランド側に囚われたんだと思います……」
ソルが気をつけろと言っていたのに、村についたとたん、再会や別れの感情に気を取られ、油断してしまった。
「やはり、そうか」
ギリアンの目が細められる。まるで予想していたかのようだった。
「陛下、彼の身柄を……」
ホープが口を開きかけたが、ギリアンが手を挙げて制した。
「……彼のことをどうするべきかは、我々はすでに議論を重ねている」
「それは……」
ジェードは思わず問いかけそうになったが、ギリアンは静かに続けた。
「第二皇子ハリーファ・アル・ファールーク……彼は亡国の皇族でありながら、ヴァロニアとシーランドのどちらにとっても利用価値のある存在だ」
「……利用価値?」
ジェードの眉がわずかに動いた。
「ヴァロニアとしては、彼をどう扱うかによってシーランドとの交渉材料になる。ヴィンセントは彼をラシーディアとの交渉に使うべきだと主張していた」
「ヴィンセントが……?」
ホープが驚いたように言う。
「しかし、それは第二皇子がヴァロニアにいればの話だ。だが、彼は今シーランドの手の中にあるのだろう」
「……」
「つまり、我々は彼を奪い返すべきか、それとも切り捨てるべきか ——そういう話になる」
ジェードの胸が苦しくなる。またハリーファの命が、政治の道具のように扱われている。
「陛下……」
ホープが慎重に言葉を選びながら、ギリアンに問いかける。
「……陛下は、ハリーファ皇子をどうされるおつもりなのですか?」
ギリアンは静かに息をついた。そして、視線をジェードへ向ける。
「それを決める前に——まず、ジェード・ダーク、君の意見を聞かせてもらおうか」
「……わたしの?」
ジェードは驚き、ギリアンの意図を測るように彼の目を見た。
「君は第二皇子と旅をしてきた。彼の人柄を誰よりもよく知っているはずだ」
「……」
「僕に進言しろと言っているのだ。第二皇子を救うべきか、見捨てるべきか 」
ギリアンの問いかけは、ジェードを試しているようだった。
ジェードは無意識のうちに拳を握りしめる。
(ハリは……わたしが守らなくちゃ)
胸の奥から湧き上がる強い想いが、彼女の迷いを振り払った。
ハリーファはただの亡国の皇子ではない。
そして、ハリーファはジェードにとって最も大切な存在だった。
だけど——。
このまま、また政治の道具にさせていいのか?
ハリーファは、すでにファールークの運命に翻弄され続けてきた。
ラシーディア、ヴァロニア、シーランド……どこに行っても、ハリーファの立場は利用価値のある者になってしまう。
ハリーファは、生きている限り自由を手に入れられないのではないか——?
(それなら……わたしがハリを取り戻すわ)
ジェードは息を整え、ギリアンをまっすぐ見据えた。
「——ハリを見捨てるべきではありません」
ギリアンの眉がわずかに動く。
「理由を述べよ」
「ハリは……」
ジェードは一度言葉を飲み込み、確かな声で続けた。
「ハリは、ただの亡国の皇子ではありません。わたしは、ハリが道具として扱われるのは望みませんが、シーランドだって同じように考えると思います」
ギリアンが静かに指を組む。
「……ただの亡国の皇子ではない、とは?」
ジェードは口を開きかけ、言葉を飲み込む。どう説明すればいいのか——。
ハリーファは確かに皇子だった。でも、それだけじゃない。ハリーファは【王】だった。そして、人の心を読む異能を持っている。
ジェードは、ハリーファがふとした瞬間に見せる別人のような表情、そして、まるでこの世界の理をすべて知っているかのような言葉を思い出していた。
「……ハリは、普通の人とは違うんです」
ギリアンが眉をひそめる。
「違う? どういう意味だ」
「……ハリは、過去のことを知っています。まるで、何もかも覚えているように……」
ジェードの声は次第に小さくなる。どこまで言えばいいのか、自分でも迷っていた。
「過去のことを、知っている?」
ギリアンの視線が鋭くなる。
「ハリは……時々、昔の戦のことを、まるで自分がそこにいたように話します。国の興亡、人の生き死に、それも、ただの伝聞ではなくて……もっと、何か、深いものとして……」
ジェードは拳を握る。
「それが、どういうことなのかは、わたしも知りません。でも、ハリは覚えているんです。だからこそ——シーランドがハリを放っておくとは思えません」
ギリアンは腕を組み、沈思するように瞳を細めた。
「つまり、君はこう言いたいのか? 第二皇子には、亡国の皇族として以上の価値があると?」
「……はい」
ジェードは迷いながらも、はっきりと頷いた。
「ハリを救いたいのは、わたしの意思です。この国がハリを利用しようとしていることは分かっていますが、それなら——わたしが違う形でハリを取り戻します」
ギリアンは長く息を吐いた。
「違う形、というと?」
「わたしが持っている情報と引き換えに、ハリの奪還をお願いできませんか?」
ギリアンの瞳が鋭く光る。
「……情報? どんな?」
「わたしは、ファールーク皇国にいた間、シナーンや宰相派の動き、そしてラシーディアの形成過程を見ました。彼らがどのように動き、どうやって力を得たのか。その内部の情報を、知っています」
ギリアンの指先がひじ掛けを軽く叩く。
「なるほど、確かにラシーディアは未知数だ。君が持っている情報は、ヴァロニアにとって有益だろう」
ジェードは続けた。
「その情報を陛下にお伝えします。その代わり、ハリを政治の道具ではなく、ハリ自身のために助け出してほしいんです。その後は、安全な場所へ逃がします」
ギリアンはしばらく黙った。
ホープが横で唇を引き結ぶ。
「彼にとって、安全な場所とは? 何処なんだい?」
もう、ハリーファの立場で安全な場所など、この世に存在しないのかもしれない。
ハリーファが自由に生きれる場所、この世に存在しない場所——
「……聖地、オス・ローです……」
ギリアンは椅子にもたれ、ゆっくりと息を吐く。
「……ふむ」
ジェードはぎゅっと拳を握りしめたまま、ギリアンの言葉を待った。
ギリアンが静かに口を開く。
「……いいだろう」
その声は、重く、それでいてどこか優しかった。
王としての決断であり、一人の希望を託された者としての譲歩でもあった。
その奥に、友と未来への想いが、静かに宿っていた。
低く響くその声は、広い謁見の間に落ち着いた威厳をもたらした。
「君が持っている情報が、ヴァロニアにとって価値があると判断すれば、第二皇子の奪還に動くことを約束しよう」
ジェードの胸が高鳴る。
ギリアンは薄く微笑みながら、付け加えた。
「だが、それがヴァロニアにとって、本当に価値がある情報であることが前提だ」
「……もちろんです」
ジェードの言葉に、ギリアンは満足げに微笑んだ。
「なるほど。ならば聞かせてもらおう」
謁見の間の奥で、陽光がステンドグラスを通して降り注ぐ。
光と影が交錯する中で、ジェードは決意を新たにした。




