74.十七歳の誕生日(ジェード)(一)
三人が巡礼の道を進むうちに、季節は秋から冬へと変わった。
冷たく澄んだ空気が頬を刺し、木々の葉は落ち尽くし、枝は寂しげに空を仰いでいる。
吹き抜ける風が冬の訪れを囁き、吐く息は白く溶けていった。
境界の森を抜けた瞬間、ジェードの視界に懐かしい景色が広がった。
遠くに見える教会と小さな鐘楼。
森の脇には戦死者の墓があり、麦畑の畦道が続く。牧草地を抜ければ、家々が見えてくる。
何も変わっていない。
けれど、ジェードの胸は言いようのない不安に包まれていた。
「……ここが、お前の故郷か」
ハリーファは静かな声で問いかける。
ジェードは、ゆっくりと頷いた。
「そうよ」
それなのに——。
(わたし、本当にここに帰ってきていいの?)
自分は『魔女疑惑』をかけられて、村を逃げたのだと、ソルから真実を聞かされた。村の人々は、自分をどう思っているのだろう。迷惑をかけていないだろうか。
不安な気持ちが湧いてくる。けれど、ジェードは深呼吸し、一歩を踏み出した。
最初に気づいたのは、畑で作業をしていた村人だった。
ジェードを見つめ、目を細める。
そして——。
「ジェードか!?」
その声が響いた瞬間、村中にざわめきが広がった。
「おい! ジェードが帰ってきたぞ!」
「本当にジェードか?」
「お前、生きてたのか!」
一人、また一人と、村人たちが駆け寄ってくる。
ジェードは驚いたまま、立ち尽くした。
想像していたよりも、ずっと温かい。村人たちの笑顔が、ジェードを包み込む。
さっきまでの不安が薄れていった。
「よかった、生きてたんだね……」
「どこに行ってたんだ!」
次々とかけられる言葉に、ジェードの頬がほころぶ。
「もうアンジェの所には行ったのか?」
「ううん、まだなの。今着いたばかりで……」
「早く行ってやれ!」
「よし! 今日は祭りだ!」
村人たちに囲まれながら、ジェードは実家に向かって歩き出す。
——家は、変わっていないだろうか?
——ママは、わたしを受け入れてくれるだろうか?
ハリーファはジェードの心の声を聞きながら、村人たちの心の声にも警戒を怠らなかった。
幸い、村人の中にシーランドやリナリーの密偵が混じっているようなことはなさそうだ。
「あんたらは誰だい?」
人懐こい村人が、ハリーファとファティマを見ながら尋ねる。
ハリーファは一瞬、どう答えるか迷ったが、短く答えた。
「俺は……旅人だ。彼女がこの村の出身だと聞いて、一緒に来た」
そう、素っ気なく言いながらも、村人たちの反応を探る。
村人たちの視線は、ハリーファの金髪に少し戸惑いを見せたが、深く詮索することはなかった。
ジェードは、小さな石造りの家の前に立った。
中から微かな気配がする。
扉を開けると、そこに立っていたのは——母だった。
ジェードの胸が、ぎゅっと締めつけられる。
母親は何か幻でも見るような表情で、じっとジェードを見つめていた。
「……ジェード?」
母の声は、震えていた。
「……ママ?」
ジェードの声も、震えた。
次の瞬間、母の表情は驚きから歓喜へと変わり、ジェードを強く抱きしめた。
「ジェード……! 帰ってきたのね……!」
懐かしい匂いがする。
母の腕の温もりが、今でも変わらないことを、ジェードは思い出した。
「……ただいま」
その言葉をようやく口にした瞬間、胸の奥にしまい込んでいた感情が溢れる。
涙がこぼれた。何か言おうと思ったが、それ以上言葉が出ない。
母は、ただ、何度もジェードの髪を撫でた。
「無事でよかった……」
その言葉に、ジェードの心がほどけていく。
しばらく沈黙が続いた後、母はそっとジェードの髪に手を伸ばした。
指先が、短くなった髪を優しく撫でる。
「……短くしたのね」
そう言って、静かに微笑んだ。
「うん、帰ってくる途中で……切ったの」
それ以上、何も言わなかったが、母は深く頷いた。
旅の間に、何があったのかを聞くことはしなかった。
「おーい、もう、今日は仕事はやめだやめだ! 皆、祭の準備をするぞ!」
親子の再会を見守っていた村人の一人が、感極まったように叫んだ。
村人達は親子以上に喜んで大騒ぎしている。
「ジェード……、あなた、今日は誕生日よ。今からパンを焼くわ……」
「よし! 今日は、ジェードの帰還と誕生日も祝おう!」
さらに外野は盛り上がり、それぞれが準備をしに走っていく。
——誕生日。
ジェードは、はっとする。
どうやら、今日は一月六日のようだ。
ラシーディアの馬は国境で離し、その後はファティマの歩みに合わせて森の中を歩いてきたので、何日経ったのかも忘れていた。
だが、母の視線が、一瞬ジェードの後ろへと向く。
「……この人たちは?」
母の目が、ハリーファとファティマを捉える。
まるで、思ってもみなかった客人を前にしたかのような表情だった。
ジェードは息を整えて、二人の方を振り返る。
「……ハリと、ファティマよ。一緒に旅をしていたの」
母の顔に、僅かに困惑の色が浮かぶ。
母とジェードのやり取りを見ながら、ハリーファは静かに佇んでいた。
村の人々も遠巻きにハリーファを見ているのが分かる。
黒髪しか居ないこの村で、ハリーファの金髪は明らかに異質だった。
母親はハリーファとファティマをじっと見つめた後、静かに口を開いた。
「……とにかく、疲れているでしょう? どうぞ、中に入って、休んでください」
そう言って、微笑んだ。
ファティマは、興味深そうに家の中を見回していた。
「ここが、ジェードの家……?」
そう呟く声はどこか新鮮だった。
ファティマにとって、異国の庶民の家というのは馴染みのないものなだのだろう。
その後、ハリーファを見て、ふっと、頭に手を置いた。
「……何?」
ハリーファが眉をひそめると、ファティマはゆっくりと金色の髪を撫でた。
「……あなた、やっぱり……」
けれど、ファティマは何かを言いかけて、結局言葉にはしなかった。