73.十七歳の誕生日(ホープ)
ヴァロニア王宮 王の書斎にて
ギリアンが魔女王として即位して、『魔女裁判』は鳴りを潜めた。
厚い石壁に囲まれたヴァロニア王宮の王の書斎には、重厚な木製の机が中央に据えられていた。
その上には、開封された密書が広げられている。
燭台の炎が、文面を照らしていた。
ヴァロニア国王ギリアン陛下へ
ギリアン陛下、機密事項につき密書をお送りします
然るに、我が方より貴国に一件の要請を申し上げる次第
一、亡国ファールークの第二皇子、ハリーファ・アル・ファールークの身柄を貴国に預けるものとする
二、かの皇子ならびに案内人ジェード・ダークを貴国へと送った
この決定は慎重を期したものであり、貴国のご英断により適切に処理されることを願う
かかる措置が、貴国および我が方にとって最善の利益となるよう、熟慮を賜りたく存ずる
貴国の栄光と長き平和を祈る
サイード
10/23/1428
広い室内に漂う沈黙を破ったのは、ヴァロニア王ギリアンの低く、冷静な声だった。
「……第二皇子は処刑する」
即断とも取れるその言葉に、ヴィンセントは静かに目を細め、椅子の背にもたれかかった。
「すぐにか?」
ギリアンは机の上の密書を指で弾いた。
「この第二皇子が生きていれば、ヴァロニアが余計な厄介ごとに巻き込まれるだけだ。シーランドもラシーディアも、この亡国の皇子を利用する気でいるなら、先に消してしまった方がいい」
ヴィンセントは微かに息を吐き、顎に手を当てる。
「確かに、君の言うとおりだ。しかし、ギリアン。ヴァロニアが亡国の皇子を利用するという選択肢は考えていないのか?」
ギリアンは視線を鋭くし、ヴィンセントを見た。
「利用する? どうやって?」
ヴィンセントは指先で机の上の地図をなぞりながら、淡々と答えた。
「シーランドは、新興国ラシーディアの台頭を快く思わないだろう。ファールークはすでに滅んだが、聖地の支配権について、いずれヴァロニアとラシーディアが衝突する可能性は高い」
ギリアンがため息を漏らす。
「……だろうね」
「ならば、その時のために、ハリーファ・アル・ファールークを生かしておくべきだ。もしラシーディアと交渉する時が来たら、亡国の皇子は強力な切り札になる」
「……ラシーディアの評議会のトップはアーラン・アル・ファールーク、か」
ギリアンが低く呟くと、ヴィンセントは口元に笑みを浮かべた。
「そうだ。彼女にとって、ハリーファは実の弟にあたる。ラシーディアがどれほど新国家として強固な体制を築こうとも、血の絆は簡単には断ち切れない」
「……交渉材料にする気かい?」
「もちろんだ」
ギリアンは密書を再び手に取り、じっと見つめた。静寂が落ちる。
本当にそう思っているのか? 血の絆など簡単に断ち切れるのが王族だ。
ヴィンセントも知っているはずなのに、なぜ言わない。討たれたファールークの宰相シナーンも彼女の兄だと。
恐らく、アーランは何らかの理由でハリーファを処刑しそびれた。そして、ギリアンへ連絡を取ってきた、このサイードを名乗る人物のことも処刑しそびれた。
裏切る可能性のある者は消していかないと、国の存亡が危ぶまれる。
ヴィンセントも当然わかっているはずだ。だが、彼にはリスクをおかしても成し遂げようとするものがあるのだろう。
自分の目指すと未来と、ヴィンセントの目指す未来が、少しずつ乖離してきている。
そして、思案の後——。
「……ヴィンセント。君の案を採用しよう」
ギリアンの決定に、ヴィンセントは満足げに頷く。
「では、ハリーファはヴァロニアで『捕虜』として扱う」
ギリアンの口元にわずかに皮肉な笑みが浮かんだ。
「つまり、シーランドにもラシーディアにも、『ヴァロニアが彼を人質として利用できる』と示すわけだね」
ヴィンセントは軽く頷く。
「その通り。だが、それだけではない」
「……?」
「この密書の内容から考えて、ジェード・ダークは第二皇子と共にヴァロニアに向かっている。彼女はただの案内人ではない。ヴァロニアの情報網を担う者の一人として、我々にとっても貴重な存在だ」
ギリアンは軽く首を傾げる。
「……彼女を、どうするつもりだい?」
ヴィンセントは沈黙する。ヴィンセントにとって、ジェードは単なる『案内人』ではない。死んだ恋人の妹——。
だが、それを公に語るつもりはない。
「ジェードと第二皇子がどういった関係か。恐らくは侍女あたりだと思うが、彼女がハリーファをどれほど重要視しているか——それを見極めた上で、次の一手を決める」
ギリアンは腕を組み、思案するように天井を見上げた。
「……ホープには、どう伝える?」
ヴィンセントの表情が僅かに変わる。ホープ・ダークは、ジェードの双子の弟。そして、ギリアンの信頼を一身に受ける少年だ。
ホープは、ジェードの帰還を知れば、どう動くか。
「間違いなく、ホープはすぐにでも動くだろうな」
ギリアンは溜め息をついた。
「厄介ごとは増やしたくないんだけどな」
ヴィンセントは微笑を浮かべた。
「だが、ホープがこの問題に関わることで、ヴァロニアにとって有利に働くかもしれないぞ。ホープは、ジェードを守るためならどこまでも動く。ホープが動けば、ヴァロニアのためになる」
ギリアンはしばらく密書を見つめた後、短く頷いた。
「第二皇子ハリーファ・アル・ファールークはヴァロニアの捕虜とする。だが、ラシーディアとの交渉材料として、慎重に扱え」
ヴィンセントは満足そうに微笑んだ。
「承知しました、陛下」
* * * * *
1429年1月6日、ヴァロニア王宮 大広間にて
大きな円卓には、豪勢な料理が並び、葡萄酒の芳醇な香りが満ちていた。
次々と祝福の言葉が飛び交い、ホープは笑顔を作った。
礼儀正しく応じながらも、心のどこかで満たされない感覚がある。
——華やかで、眩しくて、完璧な誕生日。
けれど、どこか物足りなかった。
王宮の格式ばった祝宴は、ホープの立場の重要さを示す場でもある。
ギリアン王の信頼を得て、ヴァロニアにおいて確固たる地位を築いている。
それは誇るべきことのはずだった。
だが、心の奥には、ずっと埋まらない欠片があった。
(ジェードも、どこかで誕生日を祝われているのかな……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
王宮での形式ばった宴が終わると、ホープは騎士団の親しい仲間たちと、砦の中庭へ向かった。
そこでは、王宮とは違う、気楽なパーティーが開かれていた。
「さあ、ホープ! 遠慮せずに飲め! 今日はぶっ倒れてもいいぞ!」
「お前がこんなに立派になるなんてな! 最初に剣を持った頃はひどいものだったぞ!」
焚き火を囲みながら、騎士たちは笑い合う。
王宮の格式ばった宴とは違い、ここでは本当に気を抜くことができた。
ホープは杯を傾けながら、心の中の重さを忘れようとした。
——その時。
「お前たち、少しは静かにできないのか?」
静かな、けれど威厳のある声が響いた。
騎士たちは一斉に背筋を伸ばし、声の主へと目を向ける。
「ギリアン陛下……!」
そこに立っていたのは、ヴァロニア王・ギリアンだった。
その瞬間、騎士たちは一斉に背筋を伸ばし、喧騒がピタリと止まる。
焚き火の影が揺れる中、黒のマントを羽織ったギリアン王が静かに歩み寄る。
まるで夜の帳から浮かび上がるように、王は焚き火の光の中へ現れた。
「こっそり来るつもりだったが、やはり騎士団には気配を察知されるな」
微かな笑みを浮かべ、ギリアンは火を見つめる。
ホープは驚いたまま、王へと目を向けた。
「陛下、何故こんなところに……?」
ギリアンは、近くの椅子に腰を下ろした。
ホープは慌ててギリアンの前に跪く。
「君に、誕生日の贈り物を持ってきた」
ホープは目を瞬かせる。
「贈り物、ですか? でもさっき立派な祝宴を開いてもらったのに……」
ギリアンは、懐から密書を取り出し、それをホープへと差し出した。
「今度こそ、君が欲しかったものなんじゃないかな」
ホープは受け取り、封を解く。
——そこに書かれていた内容に、息をのんだ。
『ファールークの第二皇子を人質として預かってほしい』
『第二皇子ハリーファ・アル・ファールークとヴァロニア案内人ジェード・ダークをヴァロニアへ向かわせた』
「……これは」
ホープは頭を働かせた。この密書の出処、日付、そして考えられるありとあらゆる政治利用の可能性。
ホープは、ギリアンを見上げた。
「君の言いたいことは分かったが、既にヴィンセントと精査済だ」
ギリアンは静かにうなづいた。
「君の姉は、ヴァロニアに帰った」
ホープの心臓が大きく跳ねた。
——ジェードが、帰ってきた?
その瞬間、ホープは全ての思考を止め、ただその事実を噛み締めた。
「……ジェードが、本当に……?」
声が震える。思わず密書を握りしめた指に力が入る。
喉が詰まりそうになるのをこらえながら、ホープは顔を上げた。
ギリアンの冷静な瞳が彼を見据えている。
「君は、どうする?」
その問いに、ホープは深く息を吸い込むと、力強く頷いた。
「……すぐに迎えに行きます」
焚き火の炎が揺らめく。ホープの決意が、夜空に染み渡るように。
ホープに迷いはなかった。
ジェードが帰ってきたのなら、すぐにでも会いに行かなくてはならない。言葉では言い表せないが、ジェードは自分の『片割れ』なのだ。
ギリアンは微笑しながら、密書の端を指で弾く。
「では、改めて君に王命を出そう」
焚き火の炎が揺れる。
「ファールークの第二皇子を迎えに行け。そのついでに、君の大切な姉を取り戻してこい」
胸に熱いものが込み上げる。
ホープは深く頷いた。
「……はい!」
炎がさらに強く燃え上がる。
その熱が、ホープの決意を映し出しているようだった。