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天国の扉  作者: 藤井 紫
第六章 二人の悪魔
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72.「秘密」

 ラシーディアを出発した三人は、聖地も通り過ぎ、ヴァロニア領の森にあるラドムの宿泊所まで辿り着いていた。

 この宿泊所からは、日帰りで祈りの泉に行くことができる。ジェードとハリーファは、昔の巡礼者のように、祈りの泉に足を運ぶことにした。



「本当にこっちであってるの?」 

 ジェードは不安を隠せなかった。

 朝のはずなのに、森の中は鬱蒼として薄暗い。足元は草に覆われて道が見えない。

 木々の隙間から差し込む陽光が、かろうじて進む方向を示している。

「もう少しのはずだ……」

 ハリーファはそう言いながらも、内心、確信が持てなくなっていた。

 かつて泉の方向を示していた道標は、すでに朽ち果てていた。後ろを振り返ると、ジェードも同じように迷いの色を浮かべている。

 ハリーファも段々と自信がなくなり、木の枝で足元の草をよけながら、ジェードの前を進む。

 ハリーファの足取りは重い。ジェードが行きたいと言わなければ、こうしてわざわざあの場所に行くことはなかった。

 見つからなくてもいいと思い始めた矢先——、

 目の前に、突然、空が開けた。

 森の緑が切り取られたかのように、透き通る泉が広がっていた。

 その上には、くりぬかれたような青い空が映る。

「ここだ……」

 ハリーファの呟きに、ジェードは小走りで前に出た。

「ここが……祈りの泉……」

 静寂の中で、水が湧き続け、ゆるやかな波紋を広げている。

 泉の底に沈んだ葉や、そこに積もる土は、時の流れを物語るようだった。

 空の色を映し、どこまでも深く透き通った水面には、遥か昔の面影が揺らめいているようだった。


 ここで、誰かが何かを願い、誰かが何かを失い、そしてまた誰かが訪れた——。


 祈りの泉は、時を超えて、そのすべてを見つめ続けているのかもしれない。

「はぁ……」

 ジェードはその夢幻の美しさにため息をもらした。

 陽光に揺れる波紋に見惚れていると、時間の流れが消えてしまいそうだった。

「何か喜捨できるもの、持ってる?」

 ジェードがそう呟くと、隣のハリーファが肩をすくめた。

「何もない」

 ジェードもハリーファも何も持っていない。二人はしばし見つめ合い、なぜかおかしくなって、笑いが込み上げてきた。

 ハリーファはようやく緊張が解けた。絶望を味わった思い出のこの場所で、まさか笑えるとは思っていなかった。

 ジェードはふとペンダントを思い出した。

 胸元から取り出すと、そこには黒い聖十字と、アサドが持ってきた指輪がぶら下がっている。

「そう言えば、この指輪、ハリが、アサドに渡してくれたのよね?」

 指先で転がすように指輪をなぞる。

 それは、サライが持っていた【エブラの民】の象徴だった。

「ああ。あの時は、それしか無くて……」

 ハリーファは遠い目をして応えた。実は墓を荒らして取ってきた物……とは言えない。

「……アサドは賢い猫だ。ちゃんと届いていたんだな」

 ジェードはチェーンから指輪を外し、じっとそれを見つめた。

 もしかして、泉に投げ入れるつもりなのだろうか。

 サライが仲間から受け継いだ指輪。彼女が大切にしていたもの。

 ハリーファは、それが水の中に沈んでいくのを想像すると、胸がざわつくのを感じた。

 だが、ジェードは指輪を喜捨するのではなく、自分の指にはめ、その手をハリーファに見せた。

「あの時は、シナーンに見つかっちゃいけないと思って、着けられなかったの」

 ハリーファは息をのんだ。

 サライの小さな手の薬指には、少し大きくて、第二関節辺りで揺れていた指輪。

 その記憶がよみがえる。

 ——だが、今は違う。

 それはまるで、指輪が最初から真の持ち主を待っていたかのように、ぴたりとジェードの指に収まっている。

 ハリーファは、言葉を失った。

 元はサライの指輪だ。

 そして今、それを受け継ぐ者はジェードだった。

 ハリーファは思わず、ジェードの左手を取り、その指輪を眺めた。

 じっと見つめるハリーファに、ジェードは不思議そうに首をかしげる。

 木々の隙間を風が流れ、ヴァロニアの森とジェードの黒い髪がそよいだ。

 ハリーファは、サライの願い事を思い出した。


『あのね、私、ユースフみたいな黒い髪になりたいし、こんな翠いっぱいのところに住んでみたいな』


 ——そんなこと、叶えてやれるわけがない。

 そう思っていたのに。

 サライは、自分でそれを手に入れてしまった。

 ユースフが叶えてやれなかった願いを、サライは自分で叶えたのだ。

「そうだわ!」 

 感傷に浸るハリーファを、明るい声がさえぎった。同時に、ジェードの左手は、ハリーファの右手から逃れる。

 ジェードはハリーファにもらった髪飾りを外し、父親の短剣を取り出してハリーファに渡した。

「わたしの髪を切ってくれない?」

「どうしたんだ? 急に」

「行きは髪を喜捨してきたの。そしたら無事に聖地にたどり着けたから。だから、今度は無事に帰れるように、喜捨するわ」

 ジェードの言葉はあくまで穏やかだったが、ハリーファはその意味を考えた。

 ジェードは、ただ無事に帰ることだけを願っているのか?

「本当に、髪を切ってもいいのか?」

「いいわ」

 ハリーファは短剣を受け取り、ジェードの長い髪をゆっくりと切った。

 波打つ髪が、さらさらと滑り落ち、風に乗って舞う。

 そして——ジェードは、それを静かに泉に放った。

 髪は、水の中でゆっくりと広がりながら、静かに沈んでいく。

 泉がそれを受け止めたように、表面の波紋には、ただ青空を映していた。

「帰りの無事よりも、違うことを願ったらどうだ?」

「そうね。ハリと一緒だから、危険な事も無いかもしれないわね」

 ジェードは両手を重ねて握りしめ、心の中でつぶやいた。

「何を願ったんだ?」

 ハリーファが問いかけると、ジェードは微笑んだ。

「秘密よ! ……だけど、分かってるんでしょう?」

 ハリーファは、ジェードの心の中に響いた願いを聞いていた。

(ハリが、わたしのことを離しませんように——)

 ハリーファは、ふっと微笑む。

「それは、前に約束しただろ」

「でも、ハリはその約束を守らなかったもの」

 ジェードはすこし怒った風に言った。

 謝罪の意をこめて、あの時、この場所で、サライが言った言葉を借りて紡ぐ。

「わかったよ。じゃあ、今度こそ——お前か俺か、どちらかが死ぬまで、そばにいると誓う」

 ハリーファがはっきりそう言うと、ジェードは急に頬を染めた。

「……そ、それは、……わたしの村では、……結婚を誓う時に宣言する言葉よ」

「……そうだったのか」

 サライにしてやられた気分だった。

(サライのやつ……)

 ハリーファの大人びた笑顔を見て、ジェードは少し恥ずかしそうに笑った。




 日が暮れる前に、二人はラドムの宿泊所に戻ってきた。

 一人で残っていたファティマはすでに眠っていた。

 暖炉のそばで毛布にくるまり、静かな寝息を立てている。

 暖炉の火が消えかかり、部屋の空気は冷え始めていた。

 ジェードはそっとしゃがみこみ、薪を足して火をくべる。赤い炎がゆらめき、静寂の中でパチパチと音を立てた。

 後ろでは、ハリーファが湿った服を脱ぎ、古びた椅子にかけて乾かしていた。

 火の光が揺れ、ハリーファの金髪が淡く光を帯びている。

「……ハリ、今まで、ありがとう」

 ジェードは炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。

 ハリーファは手を止め、ジェードをちらりと見る。

 薪をくべる手。火に照らされた横顔。

 なんとなく、その言葉が「別れ」のように聞こえた。

「……今のは、なんだか、別れの挨拶みたいだな」

 ハリーファは乾いた笑いを浮かべながら言ったが、内心は落ち着かない。暖炉の前に来て、ジェードの隣に腰を下ろした。

「違うわ」

 ジェードは、真っ直ぐにハリーファを見た。

 少し火照った頬に、決意の色が浮かんでいる。

「気付いたの。今まで、あなたの国ではわたしを守ってくれてた。だから、今度はわたしがハリを守るわ」

 ハリーファは、思わず目を瞬いた。

「……お前が、俺を?」

 その言葉が信じられないというように、低く呟く。

「お前に俺が守れるのか?」

「守るわ」

 ジェードは迷わず答えた。

「もし二人で地獄に落ちたとしても、わたしが絶対にハリを守るわ」

 その言葉に、ハリーファは息をのんだ。

 ——地獄(グハンナム)

 敬虔なジェードの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。

 長い間、【王】(ユースフ)は一人で地獄を彷徨っていた。

 そして、今、ジェードはそれを「守る」と言った。

「……お前、何を言って——」

 言葉を紡ぐ間もなく——。

 ジェードはそっと、ハリーファの頬に手を添えた。

 ハリーファの体が、一瞬硬直する。

 驚いたように、ジェード黒いの瞳を見つめた。

「……?」

 暖炉の灯りが二人の影を揺らす。

 ジェードの瞳は真っ直ぐで、迷いがなかった。

 静かに、慎重に、けれど迷いなく——ジェードの唇が触れる。

 ハリーファの心が、大きく揺れた。

 驚きに目を見開く。

 けれど、ジェードの温もりが、ハリーファを静かに包み込み、ハリーファも目を閉じる。

 ——これは、何の感情だ?

 守られることに慣れていなかったハリーファの心を、ゆっくりとほどいていくような。

 体の奥に眠っていた、誰にも触れさせなかった部分に、触れられたような——。

 二人の影が、揺れる暖炉の灯りの中で、静かに重なった。


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