72.「秘密」
ラシーディアを出発した三人は、聖地も通り過ぎ、ヴァロニア領の森にあるラドムの宿泊所まで辿り着いていた。
この宿泊所からは、日帰りで祈りの泉に行くことができる。ジェードとハリーファは、昔の巡礼者のように、祈りの泉に足を運ぶことにした。
「本当にこっちであってるの?」
ジェードは不安を隠せなかった。
朝のはずなのに、森の中は鬱蒼として薄暗い。足元は草に覆われて道が見えない。
木々の隙間から差し込む陽光が、かろうじて進む方向を示している。
「もう少しのはずだ……」
ハリーファはそう言いながらも、内心、確信が持てなくなっていた。
かつて泉の方向を示していた道標は、すでに朽ち果てていた。後ろを振り返ると、ジェードも同じように迷いの色を浮かべている。
ハリーファも段々と自信がなくなり、木の枝で足元の草をよけながら、ジェードの前を進む。
ハリーファの足取りは重い。ジェードが行きたいと言わなければ、こうしてわざわざあの場所に行くことはなかった。
見つからなくてもいいと思い始めた矢先——、
目の前に、突然、空が開けた。
森の緑が切り取られたかのように、透き通る泉が広がっていた。
その上には、くりぬかれたような青い空が映る。
「ここだ……」
ハリーファの呟きに、ジェードは小走りで前に出た。
「ここが……祈りの泉……」
静寂の中で、水が湧き続け、ゆるやかな波紋を広げている。
泉の底に沈んだ葉や、そこに積もる土は、時の流れを物語るようだった。
空の色を映し、どこまでも深く透き通った水面には、遥か昔の面影が揺らめいているようだった。
ここで、誰かが何かを願い、誰かが何かを失い、そしてまた誰かが訪れた——。
祈りの泉は、時を超えて、そのすべてを見つめ続けているのかもしれない。
「はぁ……」
ジェードはその夢幻の美しさにため息をもらした。
陽光に揺れる波紋に見惚れていると、時間の流れが消えてしまいそうだった。
「何か喜捨できるもの、持ってる?」
ジェードがそう呟くと、隣のハリーファが肩をすくめた。
「何もない」
ジェードもハリーファも何も持っていない。二人はしばし見つめ合い、なぜかおかしくなって、笑いが込み上げてきた。
ハリーファはようやく緊張が解けた。絶望を味わった思い出のこの場所で、まさか笑えるとは思っていなかった。
ジェードはふとペンダントを思い出した。
胸元から取り出すと、そこには黒い聖十字と、アサドが持ってきた指輪がぶら下がっている。
「そう言えば、この指輪、ハリが、アサドに渡してくれたのよね?」
指先で転がすように指輪をなぞる。
それは、サライが持っていた【エブラの民】の象徴だった。
「ああ。あの時は、それしか無くて……」
ハリーファは遠い目をして応えた。実は墓を荒らして取ってきた物……とは言えない。
「……アサドは賢い猫だ。ちゃんと届いていたんだな」
ジェードはチェーンから指輪を外し、じっとそれを見つめた。
もしかして、泉に投げ入れるつもりなのだろうか。
サライが仲間から受け継いだ指輪。彼女が大切にしていたもの。
ハリーファは、それが水の中に沈んでいくのを想像すると、胸がざわつくのを感じた。
だが、ジェードは指輪を喜捨するのではなく、自分の指にはめ、その手をハリーファに見せた。
「あの時は、シナーンに見つかっちゃいけないと思って、着けられなかったの」
ハリーファは息をのんだ。
サライの小さな手の薬指には、少し大きくて、第二関節辺りで揺れていた指輪。
その記憶がよみがえる。
——だが、今は違う。
それはまるで、指輪が最初から真の持ち主を待っていたかのように、ぴたりとジェードの指に収まっている。
ハリーファは、言葉を失った。
元はサライの指輪だ。
そして今、それを受け継ぐ者はジェードだった。
ハリーファは思わず、ジェードの左手を取り、その指輪を眺めた。
じっと見つめるハリーファに、ジェードは不思議そうに首をかしげる。
木々の隙間を風が流れ、ヴァロニアの森とジェードの黒い髪がそよいだ。
ハリーファは、サライの願い事を思い出した。
『あのね、私、ユースフみたいな黒い髪になりたいし、こんな翠いっぱいのところに住んでみたいな』
——そんなこと、叶えてやれるわけがない。
そう思っていたのに。
サライは、自分でそれを手に入れてしまった。
ユースフが叶えてやれなかった願いを、サライは自分で叶えたのだ。
「そうだわ!」
感傷に浸るハリーファを、明るい声がさえぎった。同時に、ジェードの左手は、ハリーファの右手から逃れる。
ジェードはハリーファにもらった髪飾りを外し、父親の短剣を取り出してハリーファに渡した。
「わたしの髪を切ってくれない?」
「どうしたんだ? 急に」
「行きは髪を喜捨してきたの。そしたら無事に聖地にたどり着けたから。だから、今度は無事に帰れるように、喜捨するわ」
ジェードの言葉はあくまで穏やかだったが、ハリーファはその意味を考えた。
ジェードは、ただ無事に帰ることだけを願っているのか?
「本当に、髪を切ってもいいのか?」
「いいわ」
ハリーファは短剣を受け取り、ジェードの長い髪をゆっくりと切った。
波打つ髪が、さらさらと滑り落ち、風に乗って舞う。
そして——ジェードは、それを静かに泉に放った。
髪は、水の中でゆっくりと広がりながら、静かに沈んでいく。
泉がそれを受け止めたように、表面の波紋には、ただ青空を映していた。
「帰りの無事よりも、違うことを願ったらどうだ?」
「そうね。ハリと一緒だから、危険な事も無いかもしれないわね」
ジェードは両手を重ねて握りしめ、心の中でつぶやいた。
「何を願ったんだ?」
ハリーファが問いかけると、ジェードは微笑んだ。
「秘密よ! ……だけど、分かってるんでしょう?」
ハリーファは、ジェードの心の中に響いた願いを聞いていた。
(ハリが、わたしのことを離しませんように——)
ハリーファは、ふっと微笑む。
「それは、前に約束しただろ」
「でも、ハリはその約束を守らなかったもの」
ジェードはすこし怒った風に言った。
謝罪の意をこめて、あの時、この場所で、サライが言った言葉を借りて紡ぐ。
「わかったよ。じゃあ、今度こそ——お前か俺か、どちらかが死ぬまで、そばにいると誓う」
ハリーファがはっきりそう言うと、ジェードは急に頬を染めた。
「……そ、それは、……わたしの村では、……結婚を誓う時に宣言する言葉よ」
「……そうだったのか」
サライにしてやられた気分だった。
(サライのやつ……)
ハリーファの大人びた笑顔を見て、ジェードは少し恥ずかしそうに笑った。
日が暮れる前に、二人はラドムの宿泊所に戻ってきた。
一人で残っていたファティマはすでに眠っていた。
暖炉のそばで毛布にくるまり、静かな寝息を立てている。
暖炉の火が消えかかり、部屋の空気は冷え始めていた。
ジェードはそっとしゃがみこみ、薪を足して火をくべる。赤い炎がゆらめき、静寂の中でパチパチと音を立てた。
後ろでは、ハリーファが湿った服を脱ぎ、古びた椅子にかけて乾かしていた。
火の光が揺れ、ハリーファの金髪が淡く光を帯びている。
「……ハリ、今まで、ありがとう」
ジェードは炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。
ハリーファは手を止め、ジェードをちらりと見る。
薪をくべる手。火に照らされた横顔。
なんとなく、その言葉が「別れ」のように聞こえた。
「……今のは、なんだか、別れの挨拶みたいだな」
ハリーファは乾いた笑いを浮かべながら言ったが、内心は落ち着かない。暖炉の前に来て、ジェードの隣に腰を下ろした。
「違うわ」
ジェードは、真っ直ぐにハリーファを見た。
少し火照った頬に、決意の色が浮かんでいる。
「気付いたの。今まで、あなたの国ではわたしを守ってくれてた。だから、今度はわたしがハリを守るわ」
ハリーファは、思わず目を瞬いた。
「……お前が、俺を?」
その言葉が信じられないというように、低く呟く。
「お前に俺が守れるのか?」
「守るわ」
ジェードは迷わず答えた。
「もし二人で地獄に落ちたとしても、わたしが絶対にハリを守るわ」
その言葉に、ハリーファは息をのんだ。
——地獄
敬虔なジェードの口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
長い間、【王】は一人で地獄を彷徨っていた。
そして、今、ジェードはそれを「守る」と言った。
「……お前、何を言って——」
言葉を紡ぐ間もなく——。
ジェードはそっと、ハリーファの頬に手を添えた。
ハリーファの体が、一瞬硬直する。
驚いたように、ジェード黒いの瞳を見つめた。
「……?」
暖炉の灯りが二人の影を揺らす。
ジェードの瞳は真っ直ぐで、迷いがなかった。
静かに、慎重に、けれど迷いなく——ジェードの唇が触れる。
ハリーファの心が、大きく揺れた。
驚きに目を見開く。
けれど、ジェードの温もりが、ハリーファを静かに包み込み、ハリーファも目を閉じる。
——これは、何の感情だ?
守られることに慣れていなかったハリーファの心を、ゆっくりとほどいていくような。
体の奥に眠っていた、誰にも触れさせなかった部分に、触れられたような——。
二人の影が、揺れる暖炉の灯りの中で、静かに重なった。